62話 いまさらな言葉を
いまさらだとはわかっていた。
なにをいまさら言うのかとも思っていた。
それでも。
それでも娘の、エリセのいまの姿を目の当たりにして黙っていることはもうできなかったのだ。
叔父であるラモン翁は用意周到だった。
そこまでするのか、とクオンも思うほどに、ラモン翁はエリセを徹底的に堕とそうとしていた。
そのあまりの用意周到さには、舌を巻きそうになった。
同時に、エリセへの仕打ちに憎悪を燃やしたのは言うまでもない。
何度、この花園から出ていこうとしたのかもわからない。
どれほどラモン翁を、叔父を殺してやりたいと思ったかもわからない。
だが、なによりも腹が立ったのは、見ていることしかできない自分自身に、クオンは憎悪を燃やしていた。
花園の主は九尾であり、いまの自分の主も九尾である。
主である九尾に助力を求めれば、あるいはなんとかなるかもしれないが、ここ最近、九尾は花園には現れてくれない。
なにか用事でもあるのか。
それとも現状を見ない振りでもしているのか。
どちらにしろ、九尾の助力を求められないことは間違いなかった。
「どうしたものか」と何度悩んだことだろうか。
いっそのこと、花園から出てエリセを無理矢理にでも、こちらの世界に連れてくれればと思ったほど。
だが、それはできなかった。
正確に言えば、やろうと思えばできるのだ。
花園に招くことは、その気になればいくらでもできる。
だが、花園の主である九尾が招くのと、管理人のひとりであるクオンが招くのでは、意味合いがだいぶ異なってしまう。
もっと言えば、結果にかなり違いが生じてしまうのだ。
九尾はこの花園の主であるため、花園に招くのも、現世に帰すのも自由自在なのだ。
それどころか、九尾がその気であれば、現世と花園を行き来する通行証を渡すこともできる。
だが、クオンの場合は違う。
クオンが花園に招くということは、この花園への定着を意味する。そして一度定着すれば、網二度と現世に戻すことはできなくなる。
言うなれば、同じ「招く」でも、九尾は「客人として招く」のに対して、クオンは「労働力として迎えいれる」という意味合いになってしまうのだ。
ゆえにクオンが一度でも招き入れてしまえば、もう二度と現世には戻れなくなってしまう。
それこそ、花園の主である九尾を以てしても、現世に戻すことはできないのだ。
仮にできる存在がいるとすれば、それは「神」と呼ばれる存在くらいだろう。
それも「主神エルド」に連ならぬ「神」のみぞが可能だった。
わかっているからこそ、クオンはエリセを花園に招き入れることができなかった。
現世に戻してあげられる力さえあれば、クオン自身にもっと力があれば、娘の窮地を救ってあげられるのに。
エリセがラモン翁に、あの畜生の元に向かってから、クオンはどれほど自分の力のなさを恨んだのかもわからない。
それにエリセだけ救っても意味はない。
エリセが畜生の元へとみずから赴いたのは、エリセの従者であるフブキという少女を助けるためだ。
エリセひとりを助けたとしても、今度はフブキがあの畜生の餌食になるだけだ。
あの畜生は、幼子であっても容赦することはないだろう。
いや、もしやすればフブキにはもっと鬼畜じみたことをしかねない。
エリセがかわいがるフブキを、過酷な目に遭わせたくはない。
だが、それではエリセをいつまでも地獄のような日々を送らせることだった。
エリセを取るか、フブキを見捨てるか。
クオンに突き付けられたのは、そんな二択だった。
突き付けられた二択を、クオンはいままで選ぶことができなかった。
エリセを取れば、フブキが。
フブキを選べば、エリセが。
クオンにはどちらも選ぶことができなかった。
クオンは、フブキに会ったことはない。
だが、会ったことがなくても、フブキがどのような心根の持ち主なのかはよく知っている。
純粋でかつ優しい娘。決してあのような畜生に穢されてはならない子だ。
恋した相手と結ばれて、幸せになって欲しいと願わずにはいられない子。
それがクオンから見たフブキだった。
もし、いまの自分のように、エリセを愛することができていたら。
あの頃、エリセを愛していられていたら、エリスに毒殺されることなく、いまも生きていられたら、きっとクオンはフブキもまた娘のように扱っていただろう。
意味のないタラレバでしかないとわかっていても、ありえたかもしれない日々を夢想せずにはいられなかった。
だからこそだ。
だからこそ、クオンは選べなかった。
どちらも地獄のような苦しみが待っている。
その苦しみにどちらを堕とすかなんて、選べるわけがない。
選んでいいわけがない。
なら、どうすればいいのか。
花園の中でクオンはずっと、ずっと迷っていた。迷い続けていた。
その迷いはいまも同じだった。
どうすればいいのかがわからないまま、迷っていた。
そもそも、相手がいまのラモン翁でなければ、こんなことにはなっていない。
「あのクソ爺。どこであないな」
クオンの知るラモン翁のままであれば、どうとでもできた。
しかし、いまのラモン翁は、厄介な加護を得てしまっていた。
その加護を抜くことはおそらく九尾でもできないだろう。
というか、九尾でさえも格では敵わない相手の加護を受けてしまっているのだ。
その加護さえなければ、クオンの手でラモン翁を花園に招いて、二度と現世には戻させないという手を使えたのだが、加護を得たラモン翁を招くことはできなかった。
本当に加護さえなければ、と思わずにはいられない。
だが、いまはそんなことを言っている場合ではない。
どうにかしたい。
そう思って、延々と考えた結果、クオンはみずから定めていた戒めを破ることにした。
エリセは弱り切っていた。
心が持たないところまで来ていた。
いまのままではラモン翁の、あの畜生の望むようにエリセが振る舞いかねない。
そんな娘の姿など見たいわけがない。
であれば、やれることはひとつだけだった。
声を懸けてあげること。
極限の状況下において、他者の、畜生以外の声を聞くことは、計り知れないほどの支えとなるはず。
……たとえ、蛇蝎の如く嫌っているであろう実父の声であってもだ。
いまさら声を懸けたところで、意味はないかもしれない。
いまさら自分などがしゃしゃり出たところで、かえって迷惑かもしれない。
それでも。
それでも、クオンは──。
「──挫けたら、あかん」
──エリセを放っておくことなどできなかった。
たとえ、エリセからなにを言われたとしても。
罵声や罵倒を浴びせられても構わない。
この子のためならば、愛する娘の幸せのためならば、この身のすべてを懸けてもいい。
クオンは決意を秘めて、愛する娘へと、現世での死の数日前に看病をしたときのように、エリセへの愛情を抱けるようになった日ののように、声を懸けることにしたのだった。




