61話 ありがとう
まだ種なしが、エリセの父親が生きてきた頃。
エリセはひどい高熱を出したことがあった。
それこそ、生死を彷徨うほどのひどい熱だった。
思考は纏まらず、体も指一本動かすことさえできなかった。
誰も看病に来てはくれず、当時住んでいたあばら屋の中で、エリセはひとりで熱に苦しんでいた。
誰も彼もエリセには近づかず、それこそさっさと死んでくれとばかりに、高熱に苦しむエリセを見て見ぬ振りをしていた。
そんな中でも、エリセは熱に魘されながらも必死に耐えていた。
辛いのはいまだけだと自分を鼓舞しながら。
しかし、どれほど鼓舞したところで、そう簡単に熱が下がるわけもない。
目覚めては高熱に苦しみ、喉の乾きを癒やしては、どうにか寝床に戻って気絶するように眠るを何度となく繰り返した。
それでも、なかなか熱は下がってくれなかった。
下がることのない熱に魘されているうちに、エリセは徐々に追い詰められていった。
誰も看病はおろか、声を懸けてもくれない。
そんな時間が、エリセの心を蝕んでいった。
心を蝕まれた結果、エリセはいつしか「たすけて」と言うようになっていた。
誰に言うわけでもなく、誰かを思ったわけでもない。
ただ、「たすけて」と呟きながら、下がることのない熱に苛まされていた。そんなとき。
「……なんや、こら」
誰かの声が聞こえたのだ。
まぶたを開いても、普段のように心の中が見えることはなかった。
そもそも、熱に魘されていたせいで、まともに目も見えていなかった。
ぼんやりとだが、誰かがあばら屋の中に入ってきて、熱に苦しむエリセを見て驚いていることだけはわかった。
「こんなん、聞いてへんで。なんで、誰も看病さえもしいひんのや?」
誰かは吐き捨てるように言っていたが、エリセは震える腕を伸ばしていた。
「たすけ、て」
涙を流しながら、エリセは言った。
誰かが医者ではないことはわかっていた。
そもそも、医者を呼んでくれるはずもない。
それでも、とエリセは必死に助けを求めていたのだ。
「助けてって」
誰かは困っていた。困りながらも、お情けのように置かれた水の入ったたらいとその縁に掛かった手ぬぐいを見て、「はぁ」と溜め息を吐いた。
「……専門的な知識はあらへん。できるのんはせいぜい当たり前のことだけやぞ?」
それでもいいか、と誰かは言っていた。エリセはただ頷くだけで返事をした。
誰かは溜め息を吐きながら、手ぬぐいを水で濡らして絞ると、エリセの額に手ぬぐいを置いてくれた。
「……いままでひとりで耐えとったのか?」
「うん」
「……なんで誰も呼ばへんねん? こないな高熱出とったら、助けくらい呼んだら」
「……だって、みんなうちに死んで欲しい思てるさかい」
誰かの手が止まる。
エリセを見やる顔はひどく複雑そうだった。
「みんな、みんなうちを「化け物」って呼ぶ。父親も母親も、みんな、みんな、うちを家族や思てくれへんの」
「……それ、は」
誰かは声を詰まらせていた。
どう言えばいいのかわからなかったのだろう。
もしくは、どう声を懸けていいのかがわからなかったのか。
どちらにしろ、誰かは苦渋に満ちたように、あっという間に冷たさのなくなった手ぬぐいを取り、再び水で濡らしてくれた。
「……両親を恨んでるか? 特に父親を」
「……きらい」
「そうか。やろうな」
誰かは納得しながらも、手ぬぐいを再び置いてくれた。
その際にわずかに触れたぬくもりは、どこかで覚えがあった気はするけれど、よく思い出せなかった。
「だけど」
「うん?」
「……ほんでもうちにとって、あの人たちが家族やさかい」
「……家族、か」
「うん。家族やさかい。家族や、言うてほしおす。愛してるって言うてほしおす。娘や言うてほしおす。ほかはなんもいらへん。いらへんさかい、せめてそれだけは言うてほしいわぁ」
涙が零れていた。
ずっと、ずっと胸に秘めていた想い。
父や母に「娘」と認めて貰えない。家族だと言って貰えない寂しさをずっと抱え込んできた。
その抱え込んできたものを、エリセは口にしていた。
誰かは体を震わせていた。怒っているようにも、悲しんでいるようにもエリセには思えた。
それでも、顔ははっきりとは見えなかった。だからだろうか、エリセはずっと、ずっと思っていたことを口にしてしまったのだ。
「なんで、うちは産まれたん?」
「……え?」
「なんで、こないな化け物みたいな力を持って産まれたん?」
「それ、は」
「いらへん。父様にも母様に愛してる言うてもらえへんなら、こないな力いらへん! 誰にも見てもらへんなら、うちなんか産まれてきいひんほうがよかった!」
エリセは泣いた。大声で泣いていた。
みっともないと思いながらも、感情が収まってくれなかったのだ。
そんなエリセを誰かはそっと撫でつけてくれたのだ。
「……そんなん、言いな」
誰かは辛そうに言っていた。
「産まれてきいひんほうがよかった、なんて言わんといてくれ」
「なにがわかんねん! うちの気持ちのなにがわかんねん!」
「っ、たしかにな。……ほんでも言わんといてくれ、エリセ」
エリセと久方ぶりに名前を呼ばれた。それまでまともに名前を呼ばれたことはほとんどなかったのだ。
だいたいが、「おい」や「あんた」と呼ばれるだけで、「エリセ」と呼んでくれる人はいなかった。
でも、誰かは呼んでくれたのだ。
「エリセ」と。
たしかに名前を呼んでくれたのだ。
たったそれだけで荒れ狂っていた感情は落ち着いた。ただ、それまでの反動で意識を保つことができなかった。
「なまえ、よんで、くれた」
「そうやな」
「なまえ、うちの、なま、え」
「エリセ? おい、エリセっ!?」
誰かが慌てていた。でも、返事をすることもできないまま、エリセは意識を手放していった。
次に目を醒ましたら、数日が経っていた。
数日の間に、熱は下がったようだった。
ただ、代わりにあの日看病をしたくれたのが誰なのかはわからなかった。
家人に聞いても誰もが知らないと言っていた。
家人でなければ、いったい誰が看病をしてくれたのだろうと思っているうちに、父である種なしが息を引き取ったのだ。
エリセが目を醒ましたのに合わせたように、種なしの容態が悪化したのだ。
言葉を交わすこともないまま、種なしは死んだ。
エリセは実父の死を聞いても特に思うことはなかった。
思うことはなかったはずなのに、どうしてか胸の奥が締め付けられたのをいまでも覚えている。
その理由がいまでもエリセにはわからなかった。
そして、どうして当時のことを思いだしているのかも、わからなかった。
ただ、声の主には聞き覚えがあった。
あの夜の看病してくれた人の声だった。
「あの日の人?」
「……あぁ」
「どこにおんねん?」
「……ずっとそばに」
「え?」
「ずっとおまえを見守ってる」
「どういう、こと?」
「あのときは言えんかった」
「なにを?」
「すまへんかったな、エリセ」
「……なにを言うて」
「愛してると言うたげかった」
愛している。その一言にエリセは息を呑み、まさか、と目を見開いた。
「遅すぎる自覚やったで。ほんまにすまへんかったな」
淡々と誰かが想いを告げていく。
その言葉に、その想いにエリセの頬を涙が伝っていった。
伝う涙とともにその名を告げようとしたが、声が出なかった。声を出せないでいると、声の主は言ったのだ。
「なにがあっても助ける。子ぉ助けるのんは親の仕事やさかいな」
声の、父の言葉にエリセは堪らず「父様」と呟いた。
父はなにも言わない。
それでも、たしかに父がいる気がした。
エリセは再び「父様」と呼んだ。
父はなにも言わない。
なにも言わない父に、どこにもいない父にエリセはただただ「ありがとう」とだけ告げたのだった。




