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60話 壊れゆくとき

 水が滴る音が聞こえた。


 何度も何度も水が滴っていく。


 滴る水が頬に落ち、頬に落ちた水が口元へと流れていく。


 唇に触れた水滴は、ほんのわずかなものだった。


 そのわずかな水滴を舐め取り、静かに嚥下する


 その一連の動きは、ほぼ無意識だった。


 無意識に嚥下した水とそれ以外の味で、エリセは目を醒ました。


「……ここ、は」


 まぶたを開くと、そこはシャワールームだった。


 シャワーと言っても、きわめて狭く、人ひとりが使うのがやっとというところ。


 複数人では使おうとしていないであろうと思える場所だ。


 そんな場所に、エリセは倒れていた。


 どうして倒れているのか、とエリセはそれまでのことを思い出そうとしたが、どうにも思考がうまく回らなかった。


 そもそも、いまがいつなのかもわからない。


 すっかりと時間の感覚もなくなってしまっていた。


 いつからなくなってしまったのかも定かではないし、本当に時間が経っているのかもわからない。


 だが、空腹になることで、時間がそれなりに経っていることはわかる。


 時間の経過がわかる方法はそれだけ。


 でも、いつからか、空腹になった回数を数えるのをやめていた。


 というか、気付いたときには忘れていた。


 書き残すためのものもなく、あるのは自分で口にして記憶に留めておくくらい。


 それだけではどうしても忘れてしまうものだ。


 時間の経過を忘れるほどに、ここにはなにもないし、見えるものもほとんどなかった。


 いつも薄らとしか開けないまぶたを、大きく開けても見えるものはほとんどない。


 目に見えるのは、一寸先も見えないほどの暗闇だけ。


 その闇の先になにがあるのかもわからない。


 どれほど見つめたところで、闇は闇としてそこにあるだけだった。


 どれほど闇を見つめ続けても、闇の先を見通すことはできない。


 そんな日々を繰り返すうちに、エリセは自分の心が徐々に壊れていくのを感じていた。


 そして、それが相手の思惑であることもまた。


「……あぁ、そうか」


 ようやくシャワールームにいた理由をエリセは思い出せた。


 気絶させられるほどに付き合わされ、目覚めた後に、行為の痕跡を消すために来たシャワールームで襲われたのだ。


 今回で何度目になるだろうか。


 その回数ももうおぼろげだ。


 そもそも、あの老人の相手をするのも、今回で何度目になるのかもわからない。


 わかるとすれば、良人であるタマモと過ごした夜をとっくに超えているということくらいか。


「……旦那様」


 ここ最近、タマモを思い出すことも少しずつ減っていっている。


 というか、思い出していいと思えなくなってしまっていたのだ。


 タマモが愛しているのは、いまの自分ではない、とエリセは自分で思ってしまったからだ。


 あの老人の獣液に内も外も穢された自分など、もうタマモの愛する「エリセ」ではないのだと思ってしまったからだ。


 だが、そう思うのはあくまでも一部だけ。過半数ではない。


 過半数ではないが、少なからずそう思ってしまう自分がいるのも否定できないことだった。


 そう思ってしまうことが、エリセにはなによりも辛かった。


「……旦那、様」


 涙が零れ落ちた。


 だが、どれほど涙を流しても、いつものようにタマモが涙を拭ってくれることはない。


 化け物と称されたこの体を抱きしめてくれることもない。


 いや、仮にこの場にタマモがいても、きっと抱きしめてくれるどころか、涙を拭ってくれることもないだろう。


 目を醒ました理由である水とそれ以外の味が、水以外に感じた味こそが問題だったのだ。


「うち、いま」


 エリセは自分の行動に、無意識にした行動に打ち震えていた。


 疲れの残る体で口元を拭うと、白い液体が付着した。


 それがなんであるのかなんて、考えるまでもないことだった。


 ここに囚われてから、何度となく無理矢理飲まされてきたものだ。


 いつも自分の意思ではなく、強引に飲まされてきたもの。


 飲まないと呼吸さえも許されなかったからこそ、嫌々で飲んできたもの。


 それを無意識下とはいえ、エリセは自身の意思でわずかながらに飲んでしまったのだ。


 そのことを徐々にクリアになってきた思考で、はっきりと自覚してしまった。


 いままでとは違う意味で、涙が零れた。


 違う、と。


 そうじゃない、と。


 自分に言い聞かせるも、事実は覆ることはない。


 その事実が、あまりにも辛い現実がのし掛かり、体の内側から軋む音が聞こえてくる。


 こんなのは違うのだと。


 自分の意思ではないのだと。


 そう言い聞かせるも、では、なぜという返しの言葉が内側から聞こえてくる。


 その返しの言葉への返答は出てくれなかった。


 出るのは嗚咽とタマモを呼ぶ声だけだった。


 しかし、応えてくれる人はいない。


 抱きしめてくれる人もいない。


 淡々と滴り落ちる水だけが、エリセの体に触れていた。


「だんな、さま」


 涙を零しながら、エリセはひとり泣いた。


 零れ落ちる涙を拭うこともできぬままに、ただ泣き続けていた。


「挫けたらあかん」


 すると、声が聞こえた。


 誰の声かよくわからなかった。


 顔を上げても、誰もいない。


 聞き間違いかと思っていると、声がまた聞こえてきた。


「おまえは負けなかったやろう? あのえげつない熱出た夜でだって、ひとりでも負けてへんかったやんか」


「……えげつない熱」


 声の主が誰なのかはわからない。


 だが、聞こえてきた言葉に、エリセは子供の頃のことをふと思いだしていた。 

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