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53話 祖父と祖母

 ちりぃんという音が聞こえてきた。


 軒下にはいつのまにか吊られていた風鈴があった。


 縁側から入ってくる風によって、風鈴が静かに揺れていく。


 その風鈴の真下あたりで、祖父はひとり晩酌をしていた。


 が、今日の晩酌はいつもとは少し異なっていた。


 普段の祖父の晩酌は、日本酒や焼酎をロックで飲むことが多い。


 たまに日本産のウィスキーを飲むことはあるけれど、基本的に日本酒や焼酎だった。


 しかし、今日の晩酌はいつもとは様子が異なっていたのだ。


「……おじいちゃん、ワイン?」


「あぁ、今日はそういう気分でな」


 そう言って、祖父はワイングラスに赤ワインを注いでいた。


 つまみもワインに合わせてなのか、焼き魚や塩からではなく、チーズやアヒージョ、カルパッチョとなっていた。


 祖父らしからぬ欧風形式な晩酌となっている。


「……おじいちゃんがワインって珍しいね」


 円香はお盆をシンクに持っていき、スポンジに洗剤を染みこませてから洗い物を始める。


 そこまで量は多くなかったので、洗い物はすぐに終わった。


 その間も祖父は晩酌を続けていた。


 円香は麦茶を入れたピッチャーと氷を入れたグラスを手にして、祖父の元へと向かった。


「……怪我の具合はどうだ?」


 祖父の隣に腰掛けると、祖父はアヒージョに小さくカットしたバゲットを染みこませていた。


 バゲットはしっかりと焼かれているが、アヒージョのオイルを徐々に浸透させていた。


「……いるか?」


 オイルを纏っていくバゲットを見つめていると、祖父が苦笑いしながらアヒージョの入った小鍋をそっと円香の前にと差し出してくれた。


「いいの?」


「あぁ。取り皿に分けて食べていたからな」


「ふぅん」


 取り皿に取り分ける必要はないとは思ったが、元々円香が起きてきたら分けるつもりだったのかもしれない。


 そう、円香は思いながら、アヒージョのオイルを纏ったバゲットを取ろうとして、フォークがないことに気付いた。


 取りに戻るかと思い、腰を上げようとしたが、祖父が「ほれ」と言って祖父自身が使っていたものとは別のフォークを差し出してくれた。


「ありがとう」とお礼を言いながら、円香はフォークを受けとり、改めてオイル塗れのバゲットにフォークを突き刺す。


 オイルを纏っているはずなのに、バゲットはサクっという音がした。


 円香は少しだけテンションをあげて、フォークを口元に運んだ。


 オリーブオイルとニンニクの味が口の中いっぱいに広がっていくと同時に、バゲットのサクサクとした食感が好ましかった。


「うん、美味しい」


 口元が自然と弧を描いていた。頭を小刻みに左右に振りながら円香は笑っていた。


「ははは」


 すると、祖父がいきなり笑ったのだ。


 どうしたのだろうとフォークを咥えながら、祖父を見やると、祖父は目尻に涙を溜めながら笑っていたのだ。


 悲しそうでもある。が、嬉しそうでもある。


 なんとも言えない表情を祖父は浮かべていた。


「どうしたの? おじいちゃん」


「……少し、な。ばあさんを思い出していたよ」


「おばあちゃんを?」


 小首を傾げながら、円香が尋ねると、祖父は「あぁ」と頷いたのだ。


「お父さんが言っていたんだけど」


「うん?」


「私がおばあちゃんと目が似ているって言っていた」


「……そうか、そうだな」


 祖父はチーズを摘まみながら、静かに頷いていた。


「円香、カルパッチョはどうだ?」


「食べる」


「そうか。残っていたのがイワシだったが、大丈夫だったか?」


「問題ないよ」


「そうか。では、ほれ」


 カルパッチョの皿を祖父は手渡してくれた。円香はフォークでカルパッチョを浚い、口の中に放り込む。


 イワシの特有の味とオリーブオイルやレモン汁などが絡み合いながら広がっていく。


「ん~」とご機嫌そうに円香は頭を振っていた。そんな円香を祖父は穏やかに見守っていた。


「うまいか?」


「うん。おじいちゃん、イタリアン作れたんだね? 和食だけかと思っていた」


 円香は祖父がイタリアンを作っているのが意外だったのだ。


 祖父は時折台所に立ち、腕を振るってくれることがある。


 そのとき作られるのは大抵が和食であり、イタリアンはおろか、洋食さえ振る舞われたことはなかった。


 祖父はオムライスやハンバーグなどの洋食は食べるものの、祖父自身が洋食を作ることはなかったのだ。


 その祖父がなぜかイタリアンを作り、ワインを片手に晩酌している。


 珍しいどころか、初めて見る光景ではあったが、祖父が作ったイタリアンはとても美味しかった。


「そうだな。円香は知らないが、昔はよく作っていたよ。……ばあさんに頼まれてな」


「おばあちゃんに? おばあちゃんってイタリアン好きだったの?」


「……まぁ、好きか嫌いかで言えば、好きだったな」


「なんだか変な言い方だね?」


「そうだな。だが、そう言うしかないんだ」


 喉の奥を鳴らしながら祖父は笑っていた。笑いながらワインを片手に揺らしていく。


「……ねぇ、おじいちゃん」


「なんだ?」


「おばあちゃんって、どんな人だったの?」


 父に言われた通り、祖母のことを祖父に尋ねる。祖父は「そうだなぁ」と頷いていた。


「美しい人、だった」


 しみじみと祖父は言った。


 祖父は遠くを眺めるような目をしていた。


「目を閉じれば思い出せるよ。まぶたの裏に焼きつくほどに、彼女に惹かれていたよ」


 淡々と祖父は語る。


 その内容はのろけだが、祖父にとっては大切な思い出なのだろう。


「おばあちゃん、美人さんだもんね」


「あぁ、少なくともあれほどきれいな人は見たことがない」


「そうなんだ?」


「うむ。……まぁ、出会いはあまりよろしくなかったがね」


「そうなの?」


「うむ。なにせ剣を突き付けられたほどだったからなぁ」


「……どういうこと?」


 祖父と祖母の出会いはなんとも物騒なものだった。


 が、どういう出会いを果たせば、剣を突き付けられるという出会いに至るのかが、円香には想像もできなかった。


「剛毅と旅をしていたことがあったんだ。……とても遠い場所をな。そのときに彼女と出会った。いろいろとあってな。そのときに料理をお互いに教え合ったんだ」


「もしかして、そのときに教えて貰ったのが」


「うむ。イタリアンだったよ。旅を終えて、儂は彼女とともに戻ってきた」


「恋人になったんだ?」


「いや、そういうわけじゃなかったよ。いろいろとあって、ともに戻ることになったんだ。気付けば、一緒になっていた。……懐かしいものだ」


 祖父の目が細まり、頬を一筋の涙が伝っていく。

「……おじいちゃん」


「すまんな。円香にはまだちょっと早い話だったな」


「む、そんなことないもん」


「そうか? そうだったな。……なぁ、円香」


「なぁに?」


「玉森まりも殿はどんな人かな?」


「……え?」


 祖父が思わぬことを告げた。


 その言葉に円香は驚いて、顔を上げた。


「なんで、姉様のこと」


「……まぁ、いろいろな筋からな」


 そう言って祖父は縁側を出ていく。


 よく見れば、祖父の手にはいつのまにか模造刀が握られていた。


 これから手解きをされるのかと思っていたが、祖父は縁側から庭の方へと向かうだけ。


 追うべきか、追わぬべきかを考えていると、祖父が突然立ち止まった。


「円香。見ていなさい。その目で、その心で、儂の剣をしかと見よ」


 祖父はそれだけ言うと、模造刀を佩くと静かに構えたのだ。


 祖父を見つめていた。そのとき。


 祖父が動いた。


 その動きは圧倒的なほどに速かった。


 気付いたときには、祖父の抜き撃ちは終わっていた。


「神威流抜刀術」の奥義のひとつにして、円香が修めた「白雨」だった。


 円香の「白雨」とはまるで完成度が違っていた。


 さすがだと思った、次の瞬間、祖父の刀は煌めいた。


 祖父の立ち位置は一瞬で変わっていた。


 抜き放っていた模造刀も、いつのまにか納刀されていた。


 そこに風が吹い た。吹き荒れるような暴風だが、だ。その暴風に包まれながら、円香は祖父を見つめていた。


 祖父の一連の動きを円香はどうにか目で追えていた。あまりにも速く、力強いその一刀を円香はたしかに見えていた。


「……見たか、円香?」


 祖父は模造刀を手にしながらこちらに戻ってくる。


「……見たよ」


「追えたか?」


「どうにか、だけど」


「ならいい」


「いまのって」


「……「神威流抜刀術」の奥義のひとつ、と儂の父が認めた剣だ」


「ってことは、おじいちゃんが作ったの?」


「あぁ。「白雨」から、いや、他の奥義から成る追撃の太刀にして、繋ぐための奥義。それが「驟雨」だ」


「驟雨」


「うむ。使えるようになるかは、おまえ次第だ。励みなさい、円香。そしていつか、彼の邪神に叩き込め。儂の分までな」


「なんで、それを」


 彼の邪神。どうしてそのことを祖父が知っているのか。円香は驚きを隠せずに祖父を見つめていた。


 祖父はなにも言わない。


 なにも言わないまま、縁側に腰掛けた。


「いつか語ろう。儂の命が尽きるまでに」


「……縁起でもないこと言わないでよ」


「そうだな。だが、いつか人は死ぬ。いや、人だけじゃなく、命はいつしか尽きる。それは人であろうと、神の名を持つ獣であろうと、天からの御使いであろうと変わらない。……そう、変わらないのだよ」


 祖父は目を細めながら語る。その内容に円香はどう答えていいのかわからない。


 わからないまま、ピッチャーから麦茶をグラスに注ぎ、ゆっくりと口に含んでいく。


 祖父もまたなにも言わずにワインを口にしていた。


 そこに穏やかな風が吹いた。


 だけど、普通の風とはどこか違っていた。


 頬を撫でる風と言われることはあるが、吹き抜けた風は円香の頭を撫でていったのだ。


 それも知らないぬくもりと、知らない声とともに。


 幻聴かと思ったが、幻聴にしてはやけに優しく感じられた。


 それがなんであるのかは円香にはわからなかった。


 わからなかったが、嫌ではなかった。


 撫でつけられた頭をそっと押さえながら、円香は祖父を見やる。


 祖父は穏やかに笑っていた。


 その笑みを見やりながら、円香は空を見上げた。


 わずかにしか見えない星空を見上げながら、円香は祖父の動きを思い返していった。

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