52話 父との話
目を醒ますと、すでに外は真っ暗になっていた。
時計を見れば、針は十時を超えたあたりを差し示していた。
普段であれば、そろそろ寝ようかなと、寝る準備を始める頃。
そんな時間に円香は目を醒ました。
ベッドから起き上がろうとして、強い痛みが全身を駆け巡った。
「痛っ!」
思わず、顔を顰めて円香はベッドにぼすんと沈み込んだ。
それからゆっくりと体を回転させて、仰向けになる。
たったそれだけの動作で息が切れていた。
「……めちゃくちゃしんどい」
それこそ泣きたくなるほどに、体が痛かった。
どうして、と思ったが、すぐにその理由は思いついた。
「……そっか、私、おじいちゃんに」
学校から帰ってすぐに、祖父の待つ道場へと向かったのだ。
道場に向かう際に、いつもの胴着を階段を駆け下りながら身につけた。
母からは「はしたないわよ」と小言を言われてしまったものの、気が急いていたので、「ごめんなさい」と謝りながら、道場へと駆けたのだ。
そうして向かった道場で、あそこまで打ち据えられるとはさすがに考えていなかった。
だが、祖父は必要だったと言っていた。
打ち据えていたときの祖父は、一切の表情がなく、淡々と円香を打ち据えていた。
あのときの祖父は普段の優しい祖父ではなく、まるで鬼のようにさえ円香には思えていた。
でも、打ち据えた後は、いつもの祖父に戻ってくれた。
いつもの祖父ではあったけれど、その顔には悔恨の色に染まっていた。
悔恨していたが、それは円香を打ち据えたことだけではないようにも思えた。
円香を打ち据えたのと同じくらいのなにかが祖父の中にはあったようだった。
それがなんなのかは、結局聞けなかったし、聞くこともできなかった。
聞くよりも早く、円香は意識を手放したのだから。
家に帰ったときは十六時になっていたので、それから道場に急いで向かった。祖父のしごきは一時間もなかったはず。
十七時を知らせるチャイムが聞こえなかったことから、十七時にはなっていなかったはずだ。
となると、五時間以上眠っていたということになる。
普段の睡眠時間にしては短いが、これ以上は体が睡眠を求めていなかった。
というか、だ。
「……お腹、空いた」
学校から帰ってきて、まだなにも食べていなかった。
普段の夕食の時間はとっくに過ぎているが、円香の体は睡眠よりも空腹の解消にやっきになっていた。
体は痛むものの、いまは痛みよりも食事だった。
円香は大きく息を吐きながら、勢いよく起き上がった。
同時に、再度全身を痛みが駆け巡った。
そのあまりの痛みに顔を思いっきり顰めるものの、円香は大きく深呼吸を繰り返して、どうにか堪えきった。
一度堪えてしまえば、山場を超えれば痛みもわりとどうにかなる。それでも痛いものは痛いが、動けないほどではなかった。
「ご飯、あるかな?」
円香は痛む体に鞭を打ちながら、部屋の扉を開けると──。
「あれ?」
入り口脇にお盆が置かれていたのだ。
お盆の上にはラップに包まれた中くらいのサイズのおにぎりが三つと、やはりラップに包まれた玉子焼きや漬物などの付け合わせが置かれていた。
お盆の下には、お盆を重石代わりに置かれた書き置きがあった。
書き置きは母からのもので、「目が醒めたら食べられるようであれば食べなさい」とあった。追伸として「おじいちゃんにはたっぷりとお説教をしました」ともあった。
祖父は古い人ではあるけれど、嫁入りした母には頭が上がらない。
まぁ、頭が上がらないのは祖父だけではなく、夫である父も同じなわけなのだけど。
よくふたりして母からのお説教を受けているところを見かけることがある。
お説教を受けるのは、父と祖父が親子喧嘩を勃発させたことが大抵の原因であり、その様子を円香はいつも冷めた目で見ていた。
が、今回は祖父だけがお説教を受けたようである。
まぁ、今回のことは父は関係がないから当然と言えば当然のことなのだけども。
「……おじいちゃん、大変だっただろうなぁ」
円香のためにとはいえ、傍から見ればやりすぎだったというのは明らかだし、わりと子煩悩である母からしてみれば、祖父の行動はアウトであった。
そうなれば、たっぷりとお説教を受けるのも当然ではあった。
が、そうなったのも円香にも原因があるわけであり、祖父が一方的に怒られるのは、と円香は思う。
「……とりあえず、食べようかな」
祖父がどこまで詰られたのかはわからないが、「たっぷり」と書かれていることから、相応に怒られたことは間違いない。
様子を見に行きたいところだが、いまはまずご飯を食べようと、円香はお盆と書き置きを手に、部屋へと戻ろうとした。
「円香」
部屋に戻ろうとしたとき、不意に声を懸けられた。
振りかえるとそこには寝間着姿となった父が立っていた。
「父さん? どうしたの?」
目を瞬かせる円香。父は円香を上から下まで眺めてから「はぁ」と溜め息を吐いた。
「……それだけじゃ喉を詰まらせるだろう? ちょっと待ってなさい。母さんが味噌汁を用意してくれているから。それを温めてくるよ。あと、なにか飲み物はいるかな?」
「あー、うん。じゃあ、適当に」
「わかった。先に食べていなさい」
「あ、うん。わかった」
そう言って父は階段を降りていった。
その背中を眺めつつ、円香はお盆を片手に部屋の中に戻っていく。
父の口振りからして、なにかしらの話があるように思える。
となると、学習机で食べるのは難しそうだった。
学習机から椅子を引っ張り出し、適当な位置に動かしてから、円香はお盆を机の上に置き、ベッドに腰掛けると、「いただきます」と手を合わせた。
一つ目のおにぎりを手に取り、かじりつく。
中身は鮭だった。鮭の味と塩味が口いっぱいに広がっていく。
お腹が空いていたこともあり、円香はあっさりと一つ目をおにぎりを完食し、さぁ、二つ目はなにかなと二つ目のおにぎりに手を伸ばすと同時に、部屋の扉がノックされた。
「いいよー」
扉の向こう側にいるであろう父に向かって声を懸けると、扉が開き、麦茶の入ったコップと湯気が立つ味噌汁をお盆に載せた父が入ってきた。
「麦茶でよかったかい?」
「うん、大丈夫。ありがとう、父さん」
「どういたしまして」
そう言って父は学習机の上にあるお盆に味噌汁と麦茶を置くと、円香が予め動かしていた椅子にと腰掛けたのだ。
円香はちらりと父を眺めてから、父が持ってきてくれた味噌汁の入ったお椀を手にする。
小さな音を立てて味噌汁を啜ると、食べ慣れた味が口の中で広がっていった。
その味にほっと息を吐くと同時に、父が口を開いた。
「……円香は、剣術が好きかい?」
父は両手を組みながら、顔を俯かせていた。
円香は味噌汁のお椀を両手で握りながら、「好きだよ」と頷いた。
「……いまの時代、剣一筋で食べていくことはできなくても?」
「それでも好き」
「……なんでだい?」
「……追いつきたいから、かな?」
「追いつきたい?」
父の問いかけに円香は、ひとつの背中を、「姉様」と慕うタマモの背中を思いうかべながら答えた。
「……父さん。私ね、「お姉さん」ができたんだよ」
「お姉さん?」
「うん。お姉さんみたいな人。「姉様」って呼んでいる人がいるんだ」
「……うん」
「その人がとても凄い人なんだ。少しでも追いつきたいんだ」
「……そのために剣術が必要なのかい?」
「……どうかな。でも、強さも必要だって思っている」
「強さも?」
「あと、他のことも。いろんなものが必要なんだ。足りないままだと、いつか私はあの人を「姉様」と呼べなくなっちゃうから」
タマモはどんどんと先を進んでいく。
手を拱いているままじゃ、きっといつか置いて行かれてしまう。
でも、タマモは、「姉様」は優しいからきっと待ってくれるだろうとも円香は思う。
それが円香には心苦しかった。
自分の歩みが遅いせいで、「姉様」の足かせになってしまう。
それが円香には許せなかった。
だからこそ、追いつきたい。
追いつけなかったとしても、必死に追いかけていたい。
そのためには、足りないものを埋めていく必要がある。
剣術の腕を磨くのはその一環だった。
あと父には言えないが、異世界の神様相手に一発かますためにも、力はどうしても必要だった。
「……円香、おまえは女の子なんだよ?」
「うん。それでも力が欲しい。姉様を追いかけるための力が、そして姉様の役に立てるための力が欲しい」
お椀に目を落としながら、円香は言った。不透明なお椀の中で円香の顔がわずかに映っていた。その顔は円香自身から見ても強い意志の篭もった顔をしているように見えた。
「……はぁ、まったく。誰に似たんだが」
父は溜め息を吐きながら、後頭部を搔いていた。呆れたような口調ではあるが、父はどこか嬉しそうにも見えた。
「おじいちゃんに似たのかな?」
「それもあるだろうけれど、おばあちゃんにも似てしまったんだろうさ」
「おばあちゃん?」
円香は祖母のことは知らない。物心がついたときには、もう亡くなっていた。
円香が知るのは写真の中での祖母であり、現実での祖母は一度も見たことがなかった。
ただ、その写真の祖母はなんというか、だいぶ派手な人ではあった。
祖父が純和風の日本人であるのに対して、祖母は髪の色からして違っていた。
なんと全身真っ白な人なのだ。
髪も肌も身につけていた服もすべてが白。白ではないのは瞳の色だけ。その瞳も燃えるような紅い瞳だった。
円香が知る祖母は外見だけ。
どんな人だったのかは、祖父は語ってくれたことはないし、父も母も祖母についてはなにも言わなかった。
ただひとつ知っているとすれば、祖母はとても優しくて強い人だったということくらい。
生きていたら、きっと円香も好きになっただろうと、昔酔っ払っていた祖父が顔を赤くしながら教えてくれた。
顔を赤くしながらも、祖父は懐かしむように目を細めて、祖母のことをわずかに教えてくれたのだ。
それ以外で円香は祖母のことをなにも知らなかった。
「おばあちゃんに似ているの?」
「……うん。そうだね。おばあちゃんに、母さんにはおまえはよく似ているよ。見目ではなく、そのまなざしがとてもよく似ている」
「そうなんだ?」
「……あぁ。だが、これ以上は父さんの口からは言えないけどね」
「なんで?」
「……ん~。おじいちゃんの役目だから、かな?」
「おじいちゃんの?」
祖母を語るのが祖父の役目だと、父は言った。それがどういうことなのかが円香にはよくわからなかった。
「……詳しく聞きたいのであれば、おじいちゃんのところに行きなさい。ちょうど縁側でお酒を飲んでいたからね」
「そうなの?」
「あぁ、おまえの母さんにこっぴどく叱られたからね。夕飯を抜きにされたんだが、さすがに朝まで持たなかったからか、自分で適当につまみを作って晩酌しているみたいだったよ」
父はおかしそうに笑っていた。
そっか、と頷きながら、円香はお椀の味噌汁を啜ろうとして、もう中身がないことに気付いた。
それどころか、すでにおにぎりも付け合わせもすべてなくなっていた。
「さて、それじゃ父さんはそろそろ寝るよ。おじいちゃんと話をするにしても、あまり遅くならないうちに寝なさい」
「はーい」
「うん。それじゃおやすみ、円香。洗い物はちゃんとして、歯磨きもちゃんとするんだぞ?」
「わかっているってば」
「ははは、そうだな。じゃあ、また明日、円香」
父は笑いながら、部屋を出ていった。部屋に入ってくるときのように神妙そうな顔とは違い、とても嬉しそうに父は笑っていた。
その笑顔を思いうかべながら、円香は二つのお盆に食器を乗せて、部屋を出て階下へと向かった。
そうして階段を降りてすぐにあるリビングでは──。
「む? 円香か。起きたか」
──父の言う通り、簡単なつまみを口にしながら、晩酌に勤しむ祖父が、窓を開けて縁側に腰掛けて夜空を眺める祖父がいたのだった。




