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51話 人のための剣

 全身が痛んでいた。


「構えろ」


 静かな声が聞こえる。


 顔を上げると、表情のない祖父が、いや、感情を欠落させたように見える祖父が立っていた。


 祖父の手にはいつもの模造刀が握られていた。


「おじい、ちゃん」


「名を呼べとは言っていない。構えろ」


 乱れた呼吸で祖父を呼ぶも、祖父は短く切り捨てた。


 顔にはもちろん、声にも感情の色は感じられない。


 ただ冷徹な目だけが円香に向けられていた。


「なん、で」


 過呼吸となりながらも、祖父を見やるも、祖父はいつもの祖父ではなかった。


 どうして、と思った。


 なんで、とも思った。


 たしかに強くなりたいとは思っていた。


 鍛えて貰えるのだと喜んでもいた。


 だけど、これは鍛錬と言えるのだろうか?


「構えぬのであれば、それでもよい。打ち据えるだけだ」


 祖父が静かに納刀する。来る、と思ったときには白刃はすでに目の前に迫っていた。


 見ていることしかできなかった。


 気付いたときには、顎を打ちあげられていた。


 顎はもちろん、口の中がひどく痛む。


 もう何度となく口の中を切っていた。


 唾を吐き出せば、透明ではなく、紅く染まっていることだろう。


 染まった唾をこれまで何度飲み込むことになっただろうか。


 本来の唾とは、無味のものとはまるで違う、苦々しい味。


 その味が口の中に広がっていく。


「拾え、円香」


 祖父が声を懸けてくる。


 円香が握っていた模造刀は、いまの一撃で掌からなくなっていた。


 すぐ近くで転がっている。手を伸ばせばすぐに届くほどの距離。


 だけど、手を伸ばしたところでなんの意味があるのか。


「どうした、拾わぬのか?」


 祖父の声。痛みと疲れによって歪んだ視界に映る祖父は、普段の祖父とはまるで違っていた。


 それこそ鬼や悪魔のようにさえ円香には思えてならない。


 人の姿をした悪鬼。


 目の前にいるのは祖父ではなく、ひとりの鬼のようだと円香は思った。


「なんで、こんな」


「……必要だからだ」


 祖父は一言だけ呟いた。


 必要と祖父は言うが、その必要とはどういうことなのか。円香にはまるでわからない。


「必要、って」


「無駄話はいい。拾え。そして立って構えろ。でなければ痛めつけられるだけだぞ」


 祖父がじっと円香を見つめる。その視線はどこまで冷たい。


 肉親の情なんて欠片も感じられなかった。


 ただただ、恐ろしい鬼がそこにいるとしか、円香には思えなかった。


「もう、無理だよ。痛くて」


「黙れ」


「え──っ!?」


 もう立てないし、構えることだってできない。そう苦言を漏らすと、祖父の返答は否定の一言と、腹部に飛んできた脚だった。


 円香の体はくの字に折れた。くの字に折れながら、地面の上を転がってく。


 胃液とともにわずかな血が口からあふれ出た。


「「神威流抜刀術」はその名の通り、抜刀術こそが基本にして奥義だ。だからといって、抜刀術しかないというわけではない。刀を握っておらぬ際の無手の技も当然ある。そもそもにして、「神威流」事態が剣術と無手が組み合わさった流派である。その「神威流」の流れを汲んだ我が流派もまた無手の技があるのは必然と言えよう」


 淡々と流派についてを祖父は語っていく。


「神威流抜刀術」に無手、つまりは体術もあるのは円香自身知っていた。


 尤も体術は抜刀術と比べると、数は少ないし、基本的に先手を譲っての後の先を取ることが主眼としている。抜刀術が徹底的に先手を握ることに主眼を置いているのとは違ってだ。


「神威流宗家」は剣術も体術も先手を握ることに主眼としているのに、分派である「抜刀術」は体術だけは後の先を取る。その違いもまた宗家と分派の差でもあるのだろう。


 そんなことを取り留めもなく、祖父によって蹴られた腹部を押さえながら円香は考えていた。


「どうした、円香。もう立てんのか?」


「痛い、よぉ」


「そうだな。痛いだろうな。だが、それでも立て」


「……なんで、痛いのに」


 厳しい祖父の言葉に、いや、その仕打ちに自然と涙が零れていく。


 だが、それでも祖父は優しい言葉を懸けてくれさえしない。


 一貫して、「立て」と「構えろ」としか言ってくれなかった。


 どうして、ここまでされなければならないのか。

 なんで、祖父はこんなことをするのか。


 円香にはどちらもわからなかった。


 全身を駆け巡る痛みと、自身の境遇を儚み、涙が次々にあふれ出ていく。


 涙を流すと、祖父の顔がわずかに歪んだのが見えた。


 祖父も辛いのだろうかと円香は思った。


 でも、すぐに「ならなんでこんなことをするのか」とも思った。


 祖父の行動の理由が円香にはわからなかった。


「おじいちゃん、なんで」


 問いかけると、祖父は静かに納刀した。また打ち据えられるのかと思ったが、祖父はなぜか構えることはしなかった。


「円香。おまえがいま向かう先は、歩もうとしている先にいるのが、いまの儂だ」


「……え?」


 言われた意味がよくわからなかった。


 円香が歩もうとしている先に、いまの祖父がいる。


 その言葉の意味が円香にはよくわからない。


「おまえが歩もうとしているのは、正道ではない。魔道に魅入られようとしている」


「……魔道?」


 なんのことを言っているのか、わからなかった。


 そもそも、魅入られるとはどういうことなのか。


 その一言だけでは、祖父がなにを言いたいのかが、円香にはわからなかった。


「怒りや憎しみで剣を振るうな。仮に振るったところで、その手になにが残る?」


「……残るもの?」


「切り捨てた相手の血だけだ。その手を血に染めることしか残るものはない。そこで踏みとどまれればいい。しかし、一度一線を越えたら、踏みとどまれる者はそう多くない」


 淡々と祖父は語る。


 その目にも、その顔にも深い悔恨が刻まれているようだった。


「……その痛みを憶えろ。打たれることも斬られることも、どちらも痛みを与えるものだ。他者を傷付けるということは、自分以外の者に痛みを与えるということ。怒りや憎しみで他人を傷付けるな。その先に待つのはなんだと思う?」


「……その先に待つもの?」


 怒りや憎しみの先になにが待つのか。すぐに思い浮かぶものは円香にはなかった。


 だが、祖父の口振りではあまりよろしくないことは間違いなかった。


 そのなにかがなんであるのかまでは、円香にはとんとわからなかった。


「その先にはな、円香。快楽しか待っておらんのよ」


「快楽?」


「たとえば、ストレスを発散したとき、気持ちが軽くなるだろう? ストレスという負の気持ちを解消は快楽へと繋がる。怒りや憎しみを晴らしたときも同じだ。醜き想いの先にあるのは快楽のみだ。その快楽のみを求める道は魔道でしかなかろうよ」


 言い返すことはできなかった。


 というよりも、まだ実感がない円香には、言い返せるだけのものが存在していなかった。


「ゆえに円香よ。怒りや憎しみで剣を振るうな。他者を傷付けようとするな。人を傷付けるということは、他者に痛みを押しつけること。その痛みを当たり前と思うな。おまえが受けた痛みを相手も受けるのだということを忘れるな。それは決して当たり前のものではないのだから」


 祖父が近付いてくる。だが、少し前までとは違い、その表情は穏やかだった。


 円香は全身から力を抜いた。


 それからすぐに円香は祖父によって抱きかかえられた。


「少し無理をさせたな。すまないな。だが、こうでもしないとおまえを止めることはできないと想った」


「……おじいちゃん」


「おまえは鬼にはなるな、円香。おまえは人の痛みを知り、人のために剣を振りなさい。決して自分のために、自分の鬱屈とした想いを晴らすために剣を振ってはならぬ」


 祖父は淡々と語っている。


 だが、そのすべてを聞くよりも早く、円香の意識は少しずつ遠ざかっていく。


「……少し眠りなさい。その間に手当てをしておこう。……まぁ、おまえの母さんには怒られそうではあるが」


 参ったものだと祖父は溜め息を吐く。


 そう思うのであれば、最初から痛めつけないでほしいものだが、祖父曰く必要なことだったようだから致し方がないのかもしれない。


 だからこそ、円香からの返答はひとつだけだった。


「……おじいちゃん」


「うん?」


「……ありがと、う」


「……礼などいらぬよ。むしろ、謝り足りないくらいだ。すまなかったな、円香」


 祖父が申し訳なさそうに顔を伏せていく。


 円香はそっと祖父の背に腕を回し、祖父の胸に顔を埋める。


 祖父が「む?」と驚いたが、すぐにおかしそうに笑ってくれた。


「おやすみ、円香。いまはよい夢を」


 祖父が言う。その言葉に円香はそっとまぶたを閉じた。祖父の心音とぬくもりを感じながら、祖父の言った言葉を、「人のために剣を振れ」という言葉を、胸の内に刻みこんで、円香は意識を手放した。

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