44話 いまという戦い
水の音が聞こえてくる。
全身を強かに打つお湯が煩わしい。
エリセはゆっくりとまぶたを開いた。
「……ここ、は」
視界いっぱいに広がるのは、暗闇とお湯に覆われた部屋だった。
「……そっか、あのまま」
ラモン翁に暴行を受けて、そのまま気を失ったことをエリセは思い出していた。
タイルに手を突いて、どうにか体を起こす。
乱れた呼吸をどうにか整え、上半身を起こした。
「……もう、いないか」
シャワールームを見やると、ラモン翁はどこにもいない。
やることをやったら、去ったということなのだろう。
本当にいい性格をしている、とエリセは吐き捨てた。
「……また洗い流し、か」
エリセは立ち上がると、ノズルが開きっぱなしのシャワーを浴びていく。
肌を濡らすお湯が、汗と獣液に塗れた体を洗い流していく。
温かなお湯の感触が、さきほどとは違い、心地よく感じられた。
「……お湯、か」
エリセが気を失ってから、どれほどの時間が経ったのか。
その間、ずっとシャワーは流れ続けていた。
シャワーが流れ続けていたということは、それだけの量の水を消費していたということ。
ここがどこなのかはわからない。
だが、少なくとも水をふんだんに使っても問題ない場所だということは間違いない。
水をふんだんに使えるということは、近くに水源があるということ。
それも大きな水源がだ。
ここに来てから数週間、いままで一度も水が途絶えてはいない。
水が途絶えていないということは、常に一定量の水が流れ込んでいる、生きた水源だということだ。
そのうえで大きな水源ということはだ。数は限られているということでもある。
小さな水源であれば、数え切れないくらいあるけれど、巨大な水源ということは本当にわずかしかない。
そのわずかな水源かつ転移可能な距離にある場所で、この牢獄が存在する候補があるとすれば──。
「……場所がわかってもなぁ」
場所はわかった。
わかったけれど、それでどうにかできるわけではない。
むしろ、わかったからこそ絶望的になった。
「……水源の下なんて、どう脱出したらええんやろう」
そう、水源の下から脱出するなんて、普通の方法では不可能だ。
しかもエリセ単独ではなく、フブキも連れてなると、方法は限られたものになってしまう。
だが、その限られた方法をラモン翁が理解していないというわけがない。
理解していないのであれば、どうとでもなるだろうが、ここまでお膳立てされた状況で理解していないなんてあるわけがない。
どう考えても対抗策はいくつも用意されているはず。
そうなると、事実上脱出は不可能だ。
脱出できるとすれば、それは外部からの協力が不可欠だろう。
しかし、その外部協力者がいまはいない。いや、用意できないという方が正しいか。
場所はわかっている。
わかっていても、知らせる方法がなにもないのだ。
知らせる方法がないのであれば、外部に協力を要請することはできない。
「……どないしたさかいかいな」
現状を打破する方法がエリセにはない。
エリセにできる方法があるとすれば──。
「……これくらいしかあらへんか」
──できることはひとつだけだった。
エリセは備えつけられたシャワーヘッドに手を近づけ、魔力を水源へと流した。
水源へと魔力を流しながら、水源の中の水にちょっとした小細工を弄した。
あとは、これがうまくいけばいいが。はたしてどんな結果になるだろうか。
「……あとは運次第、か」
ここからどう転がるかはわからない。
だが、なにもしないよりかははるかにましだろう。
「……旦那様、気付いて」
ここにはいない良人を思いながら、エリセはどうかこの想いが届くことを祈っていた。
祈りながら、エリセはそっとノズルを捻った。
降りそそがれていたシャワーが止まる。
濡れた肌を拭いながら、エリセはシャワールームを後にした。
ぴちゃぴちゃと水が滴り落ちていく。
滴り落ちる水の上を歩きながら、エリセは元の牢へと戻った。
いまが自分の戦いであると思いながら、エリセは暗闇の中を歩いて行く。
「さぁ、頑張りまひょかね」
どこまで頑張ればいいかはわからない。
それでも、エリセはいまできることを行おうと、脚を進めていった。
良人への思い出を胸に秘めながら、その思い出がある限り戦い続けようと、自分自身を奮い立たせて、エリセは胸を張って、いまという戦いに身を投じていった。




