40話 葵の想い
まぶたを開くと、見慣れた天蓋が見えた。
視界一杯に広がる天蓋をぼんやりとしばらくの間眺めていた。
「……いつまでもこうしてはいられませんか」
ふぅ、と溜め息を吐きながら、葵は起き上がった。
葵が起き上がると、さらりと長い黒髪が流れていく。
近くにあった姿見の鏡には、葵の姿が映り込んでいた。
腰ほどはある長い黒髪と、真っ白なワイシャツと膝丈ほどの長さの真っ黒なスカートは制服のものだろうか。
ワイシャツの上にはなにも羽織っていないが、襟元には赤いリボンタイがある。そのリボンタイはだいぶ緩められており、その下のボタンは第三くらいまで開けられており、隙間からは深い谷間が見え隠れしていた。
「はぁ、まさか、あんなにも簡単に負けてしまうとは」
葵はため息を吐きながら、自身の黒髪を一房掴むと掌の中で弄ぶ。
弄ばれる黒髪は、見るから柔らかく、簡単にくしゃりと形を変えていた。
そのうえ、彼女の髪はとても艶やかだった。「烏の濡れ羽色」という言葉があるが、葵の髪はまさにその言葉を体現しているかのようだった。
「烏の濡れ羽色」を体現する髪の持ち主でありつつ、葵自身の見目は非常に整っていた。
誰であっても認めるほどの美人であり、黒髪も相まって純和風な出で立ちをかもちだしていた。
それこそ「深窓の令嬢」と言っても、誰もが納得してしまうほどに、葵は美しかった。
落ち着いた雰囲気も相まって、十七歳とはとてもではないが思えないほどだった。
そんな葵だが、いまはいくらか苦々しげに表情を歪めている。
表情を歪めている理由は、葵が横になっていたベッドで転がっている最新式のVRメットにあった。
「……たった数ヶ月であそこまで差ができてしまうものですか」
はぁ、ともう一度ため息を吐く葵。葵が口にする内容は、つい先ほどの、宿敵相手に散々に打ち負かされてしまったことについてだ。
数ヶ月までの「武闘大会」でも散々に打ち負かされてしまったものの、あれから葵も葵なりに努力をして強くなったはずだった。
しかし、宿敵は葵の成長分以上に強くなってしまっていた。
おかげで、すっかりとこてんぱんに伸されてしまったのである。
「タマモはいったいどんな方法を使ったのやら」
葵はため息を吐きながら、宿敵である「タマモ」の名を口にした。
そう、この葵こそが「エターナルカイザーオンライン」における「蒼天」の王にして、「銀髪の魔王」を称するアオイその人であった。
「EKO」内では尊大な口調だが、現実の葵はその見目にあった落ち着いた口調をしている。
その口調もまた年齢相応ではないと言われる一因であるのだが、当の葵はそのことを知らないでいる。
「……いったいどうしたらあそこまで強くなれるんですかねぇ」
ふぅと再度ため息を吐く葵。その問い掛けに対する返答はなく、葵はみずからの黒髪を掻き上げながら額を押さえていた、そのとき。
「お嬢様、よろしいですか?」
部屋のドアがノックされた。
葵が「いいですよ」と答えると、ノックの主は「失礼しますね」と言って扉を開けて部屋の中にと入ってきた。
部屋の中に入ってきたのは、ひとりのメイドだった。
女性にしてはかなりの長身の持ち主であり、優に百七十センチ後半くらいはあり、体つきも非常に均整の取れた、いわゆるモデル体型である女性は、特徴的な金髪と青い瞳の持ち主でもあった。
非常に特徴的な要素を持つメイドを葵は横目で見やっていた。
「どうしました、空希? こんな夜分遅くに」
葵が声を掛けるとメイドこと空希は「申し訳ありません」と一礼をした。
「先ほどまでのことについて、お嬢様と少しお話をさせていただこうかと思いまして」
「……件の聖風王なる人物の言動ですか?」
「はい。その通りです」
空希は静かに頷いた。
やりとりからわかるように、この空希というメイドこそがアオイとともに聖風王の話を聞いていた「天空王」エアリアルの現実の姿である。
「アオイ」は現実の葵の髪と瞳の色を変えているが、空希は「エアリアル」をメイキングする際に、ほぼ自分の見目通りにしている。
わざわざ姿を変える理由もないうえに、時間を掛けてキャラメイキングする意味を空希は見いだせなかったからである。
「お嬢様は彼の御仁のお話を聞いて、どう思われましたか?」
「どう、というと?」
「そのままの意味でございます。お嬢様から見て、彼の御仁はどういう風に映ったのかをお聞きしたいと思いまして」
空希は淡々とした口調で葵に問い掛けた。
葵は「ふむ」と一度首肯すると、「そうですねぇ」と額を人差し指でとんとんと突いた。
「……少なくとも、嘘は言っていないようではありましたね」
「……が、本当のことは言っていない、と?」
「ええ、そういう風に私には見えました」
空希の返事に答えながら葵は頷いた。
頷きながら葵は、少し前までの聖風王との、「EKO」の運営チームの一員である称する老人との会話を振り返った。
小難しいことを言ってはいたし、言っていることは、聖風王が言っていた事情については理解できなくはないことであった。
いくらか無茶なところもあるし、荒唐無稽とも思える内容でもあったが、筋道は通っているように思えた。
だからこそ、違和感があった。
違和感といっても、そこまでひどい違和感ではなく、ほんのわずかな違和感だった。
それこそ部屋の調度品の配置がわずかに変わっているような、ほんのわずかに角度が変わっているような、その程度の違和感だ。
その違和感が葵にはどうしても気になったのだ。
だからこそ、その場での返答はやめ、こうして現実で少し考えようとしていたのだ。
そこに同じ問題に行き当たった空希との話になったのである。
「嘘は言っていないが、本当のことも言っていない。しかし、その内容がどういうものなのかは、私たちにはわからない。しかも、探ろうとも探りようがないというおまけ付きでね」
「……半ば詐欺師のようなものですね」
「ええ。だけど、あの方は詐欺師とは違って、誠実だと思いますよ。でなければ、あのタマモがあそこまで心を開くわけがない。根っからの悪人ではない。が、食えないお爺さまでもあるんでしょうがね」
「それで、どうなさいますか?」
「そうですね。……まぁ、話に乗るとしましょうか。少なくとも、私には拒否権はありませんもの」
明言は避けたが、実のところ、葵には選択肢はなかった。
そもそも、今日だけでタマモに二回負けたのだ。
「頼み事があるのであれば勝ってからにしろ」と葵自身が言った以上、その言葉を無碍にはできなかった。
「それに」
「それに、なんでしょうか?」
「……エリセ殿という方がどのような女性なのかが、少し気になりますからね。あのタマモの心を奪った女性がどういう方なのか。たとえデータだけの存在だったとはいえ、あれの心を奪えるほどの女性、見てみたいとは思いませんか、空希?」
くすりと笑いながら、葵は空希を見やる。空希は「そうですね」と笑っていた。
その笑みの理由がどういうものなのかまでは、葵は考えず、ベッドから降りて窓へと向かう。
窓の外は夜闇に覆われていた。が、夜空を照らす青白い月があった。
青白い月を眺めながら、葵は空希にも聞こえないほどの声量で呟いた。
「……あれの心を奪った女性、か」
いったい、どんな人なのだろうと葵は思いながら、青白い月をただ眺め続けた。……胸のうちにある、葵自身でも理解できないなにかを感じながら。




