36話 人質
おたまとフライパンが交互に虚空を切り裂く。
おおよそ、調理器具とは思えないほどの鋭い音を奏でながら、虚空を切り裂いた。
ふたつに負けじと身の丈を超えた巨大なしゃもじが振りかぶられる。
おたまとフライパンが虚空を切り裂くのであれば、巨大しゃもじは空間ごと圧し潰そうとしているようだった。
そんな調理器具同士のぶつかり合いは、何合も続いた。
ぶつかり合うたびに、重たい金属音が鳴り響き、衝撃波が周囲を襲い、長い廊下に置かれた調度品を損傷させていた。
その光景はやはりとてもではないが、調理器具同士のぶつかり合いとは思えない、ありえない光景であった。
そんなありえない光景を繰り広げるのは、タマモとアオイ。
数ヶ月前の「武闘大会」でも行われたファイナリスト同士の再戦だった。
ただ、当時といまとではふたりの状況はまるで異なっていた。
「くっ!」
アオイの口から苦悶の声が漏れ聞こえる。その顔は汗だくになっていた。いや、顔だけじゃない。アオイは全身を発汗させ、身につけている防具も少しずつ損傷が目立ち始めていた。
「……」
対して、タマモはというと淡々とおたまとフライパンを振るうだけだった。汗一つさえ搔かずに、おたまとフライパンを振るう姿からは、余裕さえ感じられるほどだった。
「武闘大会」の決勝戦から数ヶ月で、ふたりには明確な差が生じてしまっていた。それも悲しくなるほどの差が。
ふたりの得物がぶつかり合うと、鍔迫り合いに至った。
タマモは無表情でおたまとフライパンでアオイを押し込んでいく。
対するアオイは、歯を食いしばりながら、必死の形相でどうにか耐え忍んでいる。
たった数ヶ月。
されど数ヶ月。その数ヶ月間はタマモとアオイには埋めようもないほどの差を生み出していた。
現在、タマモのレベルは40。当時の倍近いレベルにまで至っている。
アオイもまたあれから研鑽を重ねて、レベル40まで至っている。
ただ、同じレベル40であっても、その差は歴然だった。
具体的に言えば、タマモは一度のレベルアップで得られる割り振りポイントで、すべてのステータスを上昇させられるうえに、「白金の狐」から「七星の狐」へとクラスチェンジした際に、全ステータスが3倍に上昇したことが大きい。
現在のタマモはクラスチェンジしてからレベルを14上昇させた。つまり、すべてのステータスを14上昇させたということ。
これにより、タマモの当時の最低値だったLUCでさえも40を超えていた。
最も高かったAGIにおいては70を凌駕するほどだ。
もちろん、プレイヤーの中には一部の数値においてタマモを超えているプレイヤーもいるにはいる。
しかし、ステータスの総合値において、タマモを超えるプレイヤーは存在しなかった。
対するアオイは一番高い数値がSTRの40だ。ちなみにタマモのSTRは65。25も数値に差があった。
加えて、タマモは「七尾」というステータスお化けを控えさせていた。
「七尾」のステータスも加味した場合、全プレイヤー中最強のステータス値を誇ることとなる。
が、いまのタマモは「七尾」を用いてはいなかった。
自身の能力値だけで戦っている状態である。
もちろん、称号から得た効果が自動的に加算しているため、戦闘時におけるステータスは、素の状態よりもはるかに高い。
それこそほとんどのステータスが100の大台を突破するほど。
アオイも戦闘時においてステータスが上昇する効果の称号を持ち合わせているものの、タマモの場合は数が違っているし、元のステータス自体で完敗しているのだ。
どうあってもアオイではタマモのステータスに追いつくことはできなかった。
それがゆえに現在の光景となっているのだ。
「っ~!」
アオイは歯を食いしばりながら、どうにか押し込まれないようにと踏ん張っていた。
全身を汗に塗れさせ、必死に食らいつく姿は、普段のアオイからはかけ離れたものだった。
そんなアオイをタマモは冷めた目をしながら見つめていた。
「……この程度?」
ぼそっとタマモは呟いた。
その一言にアオイの顔は怒りで紅く染まった。だが、どれほど怒っても、タマモを押し返すことはできず、アオイは廊下の壁に押し込まれてしまう。
「そろそろ終いだ。「七尾」」
『承知しました』
壁にアオイを押し込むと、タマモは「七尾」に指示を出した。「七尾」がするりと伸びて、アオイの四肢を拘束したのだ。
「なっ!?」
アオイは自身の四肢を拘束する尻尾を見て驚愕するも、抜けだすことはできなかった。
「七尾」のステータスは主であるタマモをも凌駕している。
素のステータスであっても、タマモには及ばないアオイでは「七尾」の拘束から抜けだすことはできなかった。
アオイはまるで磔にされたかのように、拘束された。
そんなアオイの喉元にとタマモはおたまを突き付けた。
「……どうする?」
あえて主語を抜いてタマモは尋ねた。
アオイは顔をより赤く、それこそ赤黒くなるほどに怒りを示していたが、どうあっても抜けだすことができない現状で、アオイにできることはもうなにもなかった。
「……わかった。負けを認める」
忌々しそうにアオイは呟く。その言葉に「そう」と頷きながら、タマモはアオイの拘束を解いた。
拘束を解かれると同時に、アオイはしゃもじを振りかぶった。
「などと言うものか!」
アオイはそう叫びながら、不意討ちを敢行した。
タマモの脳天へと目がけてしゃもじが放たれる。
「お嬢様!」
アオイとタマモの戦いを見守っていたエアリアルが叫ぶ。が、その声さえもいまのアオイには届いておらず、アオイはなんの躊躇いもなく、しゃもじを振り下ろす。
「まぁ、そういうことだろうなぁと思ったよ」
だが、振り下ろされたしゃもじがタマモに直撃することはなかった。
それどころか、タマモに肉薄したところで「七尾」によって両腕を二重に拘束されていく。
『やれやれ、完全な負け犬のムーヴですね。まぁ、二度に渡って不意討ちをかますような者にはお似合いですけど』
アオイを拘束しながら「七尾」が呆れたように言う。
呆れる「七尾」にタマモは「あまりそういうことを言わないの」と注意しつつ、アオイに顔を近づけて一言告げた。
「さて、どうする? また不意討ちする? 三度目の正直が通用するかもよ?」
「……貴様」
「まぁ、面白ければ天丼芸もアリだけど、おまえのそれはつまんないからやられたくないなぁ」
「なにをっ!」
「事実でしょう? 不意討ちが悉く通用していないんだからさ。それとも通用するまでやる?」
「貴様ぁ」
忌々しそうにタマモを睨み付けるアオイ。
しかし、どれほど睨み付けても現実が変わることはない。
「タマモ殿、お頼み申します! どうかここで手打ちにしていただきたい!」
それどころか、アオイを救うためにエアリアルが懇願を始めた。
エアリアルがその場で土下座をしたのだ。タマモは目を鋭く細めながらエアリアルを見下ろす。そのまなざしは少し前までの、エアリアルには温和だったそれとはまるで真逆のものとなっていた。
「やめよ、天空王! 我はまだ」
「いいえ。いいえ、やめませぬ! これ以上は恥の上塗りとなるだけ。お嬢様のお心をさらに傷付けるだけ! 私はこれ以上無用にお嬢様が傷付く様を見たくないのです!」
エアリアルは土下座をしながら、拘束されているアオイに向かって叫んだ。その目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
涙を零すエアリアルを見て、アオイの顔から怒りが抜け落ちていく。
「……空希、あなたは」
アオイはエアリアルの本名を口にしながら、複雑そうに顔を歪めていた。
自分自身の情けなさを嘆くように、たったひとりの友にして、従者であるエアリアル──空希にそこまでなりふり構わないようにさせてしまったことを悲しむように。
アオイの表情はそれまでの怒り一辺倒のものから大きく変わっていた。
その変化を眺めながら、タマモは息をひとつ吐いてからエアリアルへと告げた。
「……次、これが不意討ちをしたら、あなたに責任を取ってもらいます。それでいいのであれば、手打ちにしましょう」
「はい、構いませぬ! 私の身ひとつでお嬢様をお救いいただけるのであれば、私などであればいかようにでも」
「待て、待ちなさい、空希! あなたがそこまですることは」
「おまえがやらかしたから、こうなっているんだろう? エアリアルさんの気持ちを少しでも考えろ。おまえとこの人がどういう関係かは知らない。でもおまえのためにエアリアルさんは土下座をしたうえに、自分の身を省みないでくれた。おまえはこれ以上のことをこの人させるつもりなのか? これ以上のことをこの人にさせてまでおまえは我を突き通すのか?」
「……それ、は」
事実を突き付けられアオイの表情はより歪んでいく。いまにも泣き出してしまいそうなほどに、その表情は弱々しいものだった。
「おまえが引けばボクも手を引く。ただ言うことは聞いて貰うよ? 拘束を二度もした。一度目の時点でおまえの負け。そしてその後の拘束でもおまえの負けはほぼ確定だ。つまり、この短時間で二度負けたということだ」
「……」
「おまえは「言うことを聞かせたくば勝ってみろ」と言った。その勝利を二度も重ねた時点で、おまえはボクの言うことを二回は聞かなきゃならない。そうおまえ自身が言ったからだ」
「……相違、ない」
アオイは顔を俯かせながらも返事をした。タマモは「そう」と頷きながら、本題を口にした。
「では、ボクに手を貸して貰う。いいな?」
「……わかった」
「だけど、おざなりに手を貸されても困るだけだから、ボクの目的が達成するまでエアリアルさんを預かることにする」
「……っ、人質ということか?」
「言い方は悪いけれど、そういうことになるね。エアリアルさんもそれでいいですか?」
「……先ほども申し上げましたが、お嬢様をお助け戴けるのであれば、私はどうなっても構いませぬ」
「そう。では、問題が解決するまでエアリアルさんはボクのところで預からせて貰う。いいな、アオイ?」
「……わかった。それで頼みとはなんだ?」
アオイは淡々としていた。淡々としながらも、悔しそうに唇を噛み締めていた。
その様子を視界に収めつつ、タマモは「ようやくだな」と溜め息を吐いて、アオイの元に来た理由についてを語っていった。




