34話 急転
蝉の声が聞こえていた。
いつからかよく聞こえるようになった蝉たちの大合唱は、五月を過ぎて六月になるとより顕著になった。
人によっては鬱陶しいと思うこともあるだろうし、人によっては夏の風物詩と感じることもある蝉たちの羽ばたき。
夏時にしか聞けない次代へと繋げるための命の輝き。
その輝きがそろそろ最高潮へと向かっていこうとするそんな矢先のことだった。
「──え?」
いつものようにタマモは新本拠地兼新店舗建設のための監督業に勤しんでいた。
現実では、今年度の受験のための勉強に勤しみながら、ゲーム内世界とされる「ヴェルド」においての本拠地建設の作業監督を兼務するという日々を過ごしていた。
それもこれもはふたつの世界を行き来することが、タマモのルーチンワークとなっているからだ。
当初は、タマモにとって「ヴェルド」はゲーム内世界でしかなかった。
その世界でタマモは運命の女性たちと出会うことができた。
アンリとエリセ。
タマモにとって最愛の女性たち。
最初はゲーム内の人物、データだけの存在だと思っていた。
どれほど気持ちを交わそうとも、決して実際に触れ合うことはできない存在。
それどころか、サービス終了してしまえば、永遠に会うことも叶わなくなる存在だとタマモも思っていた。
だが、その前提は崩れ去った。
ふたりは、いや、ふたりだけではない。「ヴェルド」という世界はゲーム内世界ではなく、実際の異世界だったのだ。
確証と言えるものはない。
せいぜい、秘密を知るタマモとマドレーヌだけが本来のログイン時間を超過してもなお、本来であれば「ログアウト時間」中であっても、ログインし続けられるという程度のこと。
もっとも、タマモの場合はもっと直接的な理由を知っているものの、マドレーヌにそのことを伝えられるわけもない。
どちらにしろ、「ヴェルド」が実際の異世界であることをタマモは知っている。
まだ感覚という程度だが、それでもたしかにタマモは知っているのだ。
たとえ「EKO」がサービス終了をしても、アンリとエリセを含めた、あの世界で出会った人たちにいつでも会いに行けることを、タマモは知っている。
知っているがゆえに得た安堵感。その安堵感はいつまでも続いていくと信じていた。
それがゆっくりといま崩れ去っていこうとしていた。
「……いま、なんて?」
タマモは噴き出す汗を拭いながら、呆然としていた。
目の前にいるのは義弟のシオン。
とはいえ、正式に義弟となったわけではない。
が、シオンからは「義兄様」と呼ばれているし、タマモ自身シオンの実姉であるエリセを嫁として迎え入れているため、事実上ふたりが義兄弟であることには変わらない。
義兄弟としては決して不仲ではない。
タマモはタマモでシオンを義弟としてかわいがっているし、シオンはシオンで姉のエリセを奪われたことに対してのかわいらしいヤキモチを妬きつつも、タマモを義兄として慕ってくれている。
……「義兄様」と呼ばれるたびに、「ボク女なんですけどねぇ」と思わなくもないが、シオンは頑なにタマモを「義兄様」と呼ぶ。
たしかに、最初に会ったときに、「「義兄様」と「義姉様」のどちらで呼べばいいか」と尋ねられ、シオンの好きなように呼べばいいとは言った。
だが、そこでまさか「義兄様」と呼ばれるようになるとは、タマモも思ってはいなかった。
が、シオンの気持ちを考えれば、タマモを「義兄様」と呼ぶのもわからなくはない。
文字で起こせば「義姉様」であるが、口頭の場合は「あねさま」となるのだ。
もちろん、わざと「ぎしさま」と呼ぶこともできなくはないが、どちらが一般的なのかは議論するまでもないことだ。
そして、それこそがシオンがなぜ「義兄様」と呼ぶのかという理由に繋がっている。
シオンにとって「あねさま」と呼ぶ相手はひとりだけなのだ。
いや、ひとりでないと、シオンは嫌なのだろう。
だからこそ、タマモを「義兄様」と、おかしな呼び方をしてしまうのだろう。
実年齢で考えれば、シオンよりもはるかに年上なのだが、大好きな姉を奪われてしまったという気持ちからくる反発心は、見た目相応のなんともかわいらしいものだった。
そのかわいらしい義弟であるシオンが、いまタマモの前にいた。
そのシオンの言葉にタマモは困惑させられることになった。
当のシオンにしてみれば、タマモを困惑させるつもりはないのだろう。
それどころか、なんで困惑しているのかがシオンにはわからないようだ。
不思議そうに、いや、怪訝そうな顔をして首を傾げている。
なんで困惑しているんだろうという、シオンの声なき声がいまにも聞こえてきそうなほどだ。
「なんかおましたか? 義兄様」
シオンは怪訝そうになにかあったのかとタマモに尋ねてくる。
その表情も、その言葉も、タマモの反応を理解できていないと言っているようなものだった。
シオンにしてみれば、先の発言は、タマモを困惑させた一言は当たり前のものでしかなかったのだろう。
氷結王から聞いた「水の妖狐の里」における初夏の祭り。
一年に一度の大々的に開かれる祭りは六月の半ば頃から始まるとされる。
今日のシオンはその祭りへのお誘いと、もうひとつの件でタマモの元へと訪れていたのだ。
その件とは、姉であるエリセに祭りを開くための協力を願うためである。
タマモにしてみれば、とっくに送り出したはずのエリセをだ。
「いや、エリセはもうそちらに行っているんじゃ?」
タマモは困惑しながら、シオンに伝えた。シオンは「え?」と何度も目を瞬かせていた。
シオンの反応はあまりにも自然なものだった。
それこそ、「なにを言っているんだろう?」と言わんばかりの、タマモの言葉を理解できないと断じているように思えてならない。
「なにを言うてはるんどすか? 姉様はうちには越さはってまへんけど」
「……でも、二週間くらい前に、実家に用事があるから行くって、転移しましたよ?」
「……え?」
「それから一度も連絡がないから、よほど大変なんだろうなぁと思っていたんですけど」
タマモは声を震わせていた。
なにがどうなっているのかはわからない。
だが、シオンの反応からしてエリセが嘘を言っているようには思えなかった。
「……姉様は来とりません」
シオンも声が震えていた。呆然としながら、タマモもシオンもお互いを見つめ合っていた、そのとき。
「婿殿!」
聖風王の声が、いままで聞いたこともないくらいに慌てた聖風王の声が聞こえてきたと思ったら、目の前に焦った様子の聖風王が突如として現れたのだ。
「聖風王様、なにか」
「エリセは、エリセはどこにおる!?」
「……え?」
「じゃから、エリセはどこじゃ!? 我が輩の目を以てしてもエリセを探すことができなんだ! いまあの子はどこにおるのじゃ!?」
聖風王はいままでになく、必死だった。
そうなるほどに聖風王にとってエリセが大切な存在であるということなのだろうが、その聖風王が探すことができないところにエリセはいまいるということだった。
「四竜王」という超越者たちの長である聖風王でも見つけられない。
そんな現実にタマモは頭の中が真っ白になっていった。
「……わからない、です」
「わからんじゃと!?」
「大事な用事が実家であるからと言って、二週間くらい前に出て行きました。……エリセだけではなく、フブキちゃんも先に実家に送って手伝って貰うって言っていました」
タマモはタマモの知ることをそのまま伝えた。
想定外すぎる状況だった。
どうしてこうなったのかもわからない。
わかるとすれば、エリセがなにかしらの事件に巻きこまれたということ。
そしてそれが巧妙に仕組まれていたということだ。
聖風王の目さえも欺いているのだ。
よほど綿密に計画を立てていたということなのだろう。
それこそ乾坤一擲の策を弄して、エリセを巻きこんだ。そんなところだろう。
こんな手の込んだことをする相手。タマモにはひとりの人物の顔が浮かびあがった。
「まさか、アオイ?」
そう、タマモが下手人として思い浮かべたのは、「武闘大会」で激戦を繰り広げたアオイだった。
アオイであれば、策を弄することもあり得る。あり得るが、アオイがエリセを攫う理由がタマモには思いつかなかった。
それにいくらアオイでも聖風王の監視の目を欺けるかと言われれば、答えは否だろう。
事象の攪拌というチート能力を持つアオイであっても、圧倒的な強者である聖風王を欺くことは容易ではない。
それになによりも、エリセは自分の意思でどこかへと転移したのだ。
アオイに攫われたのではなく、エリセは自分の意思でどこかへと向かった。
そうしなければならない事情があった。
考えられるとすれば、フブキを人質に取られたというところか。
ただ、そうするとますますアオイの線は薄くなる。
そもそもアオイはフブキのことを知っているのだろうか?
掲示板を覗く限り、タマモには嫁がふたりいるとは書かれているものの、その嫁に従者がいるとは書かれていなかった。
もちろん、現地である「アルト」で調べればすぐにわかることではあるものの、人質を取ってエリセに無理矢理言うことを聞かせるというやり口は、どうにもアオイのイメージと、タマモが抱くアオイの人物像とどうにも重ならないのだ。
アオイは策を弄することはあったとしても、根底には正々堂々としているというイメージがタマモにはあった。
策は弄しても、それはあくまでも一対一で真っ向勝負を行うためのもの。
搦め手で雁字搦めにして勝つためではない。
そもそも、アオイにとってみれば「勝利」は目指すためのものではない。「勝利」は当たり前にあるものだ。
そのアオイが人質を取る。
人質としてフブキを攫い、フブキを使ってエリセに言うことを聞かせた。
そこまではいいとしても、そこからの狙いはなんなのか。
一対一でタマモと決着を着けようとでも言うのか?
いや、それが理由であれば、フブキを攫うことなんてしないだろう。
それこそ大々的に果たし状を送り、タマモがのらりくらりと躱せないようにする。アオイが弄するとすれば、そういう策だろう。
人質を用いるという手段は、やはりどう考えてもアオイの人物像とはうまく重ならない。
となると、下手人はアオイではないと考えるのが妥当だろう。
しかし、アオイでないとすると、エリセはいったいなにに巻きこまれたというのか。
「……とりあえず、人手がいりますね」
「どういうことじゃ?」
「エリセがなにかに巻きこまれたことは間違いありません。そしてフブキちゃんを人質に取られた可能性は非常に高い。エリセにとってフブキちゃんは、まさに泣き所と言ってもいい。そのフブキちゃんを人質に取られれば、エリセは相手の言うことを聞くしかありません」
「ふむ。たしかにな」
「……そこまで姉様に好かれてるんどすか」
聖風王はタマモの推察に頷き、シオンは面白くなさそうに唇を尖らせていた。シオンらしい反応ではあるが、いまは置いておこう。
「なにがあったのかはわかりませんが、エリセが相手の意向に従うしかない状況下にあることは間違いないです。そして、それは聖風王様でさえも見通せない場所と来ている」
「うむ。相違ないな」
「であれば、です。ボクたちだけでエリセを探すのは無理があります。どうしても人手がいる。それも裏を知りつくすような人手がです」
「裏、か。たしかにな。表だけでは探しきれぬ。裏を知る者も必要か。心当たりは?」
「あります。ただ」
「ただ?」
「因縁あり、ですけどね」
タマモはそう言って頭を搔いた。
タマモの心当たりというのは、他ならぬアオイであった。
そう、タマモはアオイに協力を要請しようと思っているのだ。
因縁はある。タマモからしてみれば、すでに済んだことであるが、アオイにしてみればそうではない。
それに済んだとはいえ、まだ痼りのようなものはタマモの中にも残っている。
簡単に話は進まないだろう。
それでも、いまはエリセを探すためにも、裏事情にも詳しいであろうアオイの、大規模なPKギルドである「蒼天」の長であるアオイの力が必要だった。
「聖風王様、指定の場所まで連れて行って貰えますか?」
「うむ、よかろう。ほかならぬエリセのためじゃ」
「ありがとうございます。シオンくんは、連絡するまで実家に戻っていてください。もしかしたら、エリセないし下手人からの連絡があるかもしれませんから」
「……承知した。義兄様、おたのもうします」
「はい、任せてください」
とんと胸を叩きながら、タマモはシオンに笑いかけた。
笑いかけながら、「大変なことになったなぁ」とタマモは思った。
だが、それでも最愛の女性のためだ。
頑張ろうとタマモは決意しながら、因縁の相手であるアオイと再び会うことにしたのだった。




