30話 別れを告げて
「──え? しばらく里帰りする?」
建築途中の本拠地が見えていた。
いまの本拠地のすぐ隣に建てられていくそれは、いまの本拠地よりもはるかに大きなものだった。
ようやく基礎を終えた段階というところで、ここから本格的な建築が始まるのだろう。
聞いていた話よりもだいぶ広くなっている。住居兼新店舗を兼ねているにしても、それでも思っていた以上の規模となりそうだ。
聞いていた話だと、いまの本拠地と繋げるということだったのだが、どうにもいまの本拠地を離れにするつもりなのだろう。
新本拠地といまの本拠地はすぐ隣ではあるけれど、ぴったりと接地しているわけではなく、数メートルほど離れているようだった。
おそらくは、渡り廊下でも設置するつもりなのだろう。
ふたつの本拠地を繋げるにしても、物理的に繋げるのには無理がある。
もともと完成されている建物と新しい建物を繋げるというのであれば、一番手っ取り早いのは渡り廊下を作ることだろう。
渡り廊下で繋げれば、いまの本拠地に渡り廊下へと続く扉を設置すればいいだけなのだから、手間やコスト面からでも安く仕上がる。
タマモが思いついたのか、それともトワの発案なのかはわからないが、うまい具合に新旧の本拠地はひとつになることだろう。
……それを直に見ることができなくなるのは残念なことだとエリセは思った。
「エリセ?」
タマモに声を掛けられた。とても愛おしい声。声を聞く度に胸の奥が温かくなる。その声に、そのぬくもりに包まれたくなってしまう。
でも、それはもう許されないことなのだ。
エリセは首回りに巻いたストールをそっと掴みながら、できる限り平静な声で返事をした。
「……聞いとった話よりも、大きなりそうやなぁ思いましてね」
「あ、うん。最初は物理的にいまの本拠地と繋げようと思っていたのだけど、トワさんが嫌がったというか」
「鱗翅王様が?」
「……うん。いまの本拠地はクーたちと一緒に建てたものだからね。必要以上に手を入れたくなかったみたいでね」
「……なるほど」
予想通りの答えだったが、その理由については意外が半分、納得が半分というところだ。
エリセから見たトワは、徹底的なリアリストな人物だった。
リアリストだからこそ、余計な情念は抱かず、リソース等を含めて渡り廊下で繋げようと発案したのだと思っていたのだ。
だが、実際の理由が亡くなった姉たちによって建てた本拠地に必要以上の手を入れたくなかったからという、なんともおセンチな理由だとは。
意外だと思う反面、なるほどなと素直に納得もできた。
リアリストなところはたしかにあるだろう。だが、それと同時にちゃんとした情念もある。
鱗翅王という肩書き通りの、彼女もまた敬われるべき王のひとりなのだろう。
「そやけど、建築には思た以上に時間がかかりそうどすなぁ」
「ん~。どうだろう? トワさんところの子たちが思った以上に有能で、以前よりも圧倒的に速く進行しているから。もしかしたら六月になる前に建て終わるかもしれないね」
「そうどすか。楽しみどすなぁ。そやけど、間近で眺められへんのが残念どす」
新しい本拠地が建てられていくのを間近で眺めていたいという想いはある。
だが、それが叶わぬ願いであることをエリセは誰よりも理解していた。
「実家でなにかあったの?」
タマモが恐る恐ると尋ねてくる。
エリセは「ええ」と頷いた。
頷きながら、西日が目にしみていく。
涙が出そうになりながら目の前の光景を、農業ギルドとその一角にある「フィオーレ」の本拠地を順に眺めていく。
視界いっぱいに広がる愛おしい光景を、エリセは名残惜しみながら眺めていった。
タマモに気付かれないように、うっすらとまぶたを開きながら、焼き付けるようにして目の前のすべてをじっと眺めていた。
「シオンに呼び出されまして」
「シオンくんに?」
「はい。なにやら大事な用事があるとのことで。フブキにも一緒に来て貰うことになりまして」
「フブキちゃんもなの?」
「はい。フブキは先に実家で待ってもろうてます。あぁ、そうそう、こちらはあの子買うとった茶葉どす。アンリちゃんに渡しとってぉくれやす」
「あ、うん。わかったよ」
フブキが持っていたバックをタマモに手渡す。これでここでするべきことはすべて終わった。
あとはここを離れるだけである。
後ろ髪は引かれている。だが、その想いを捨て去るしかなかった。
……いまの自分はもうこの想いに殉じることはできないのだから。
「では、旦那様。また」
「え。もう?」
「はい。どうも急ぎの用事みたいさかい」
「そっか。うん、わかった。またね、エリセ」
「はい。旦那様もどうかお元気で」
お元気でというと、まるでもう会わないと言っているようにも聞こえるが、実際のところ間違ってはいない。
間違ってはいないが、一時的な別離の際にも言わなくもない言葉であるので、おかしくは聞こえないだろうとエリセは思った。
そう、おかしくはないと思っていたのだが、どうもタマモには通じなかった。
「「お元気で」って言われると、まるでもう会えないと言われているみたいだ」
血の気が引きそうになった。
だが、想定外というわけでもない。
想定の中でも、いくらか面倒な方へと向かっているだけだ。
まだ修正は効く。エリセは作り笑いを浮かべた。
「もう会えへんなんて、うちがおかしなってしまいますえ。いける。ほんの一時会えへんだけどすさかい」
「それならいいけれど」
タマモは唇を尖らせながら、若干の不満を抱いているようだ。
それさえも、エリセには愛おしい。
こんなにも愛おしい人と出会え、触れ合い、そして通じ合えた。
生きていてよかった、とエリセは心の底から思えた。
実の父からは「化け物」と揶揄され、まともな言葉さえ掛けられたこともなかった。
東屋よりもマシという程度の小屋で日々を過ごしていた。
あの頃は、「どうして生きなければならないんだろう」といつも考えていた。
雨漏りのひどい天井や風を遮ることもできない壁の廃屋同然の小屋の中で生きることは辛かった。
ここに来るまで、他者のぬくもりを感じたことなどほとんどなかった。
他人との繋がりを感じられることなんて、ほとんどなかったのだ。
その繋がりのために、ここでの日々を終わらせる。
すべては、この愛おしい日々を守るために。
ただ──。
「旦那様」
「うん? な──」
──いまだけ。
そう、いまだけはわがままを許して欲しい。
エリセは屈み込んで、タマモとの距離をゼロにした。
軽やかな音とともにぬくもりが伝わってくる。愛おしいぬくもり。そのぬくもりをエリセはただ浸っていた。
だが、いつまでも浸れるわけじゃない。
これが最後の触れ合い。
最愛の人との最後の触れ合いなのに、その時間はほんのわずかなものだった。
でも、これでもう大丈夫。
心残りはもうないのだから。
「……お元気で、旦那様」
そう言って、エリセはタマモから離れると転移をした。
タマモが手を伸ばすのが見えたが、その手を取ることなく、エリセは「フィオーレ」の本拠地から旅立った。
もう戻ることもない、本当の居場所に別れを告げた。