23話 花の香りとともに
花の香りがした。
鼻腔を擽る多くの花々の香り。その香りに誘われるようにして、エリセはまぶたを開いた。
「……ここ、は?」
まぶたを開くと真っ先に見えたのは大量の花々だった。
視界一面を覆うようにして咲き誇る色取り取りの花々。その様にエリセは目を奪われていた。
たとえば、桃や桜の花と言った春を代表する花もあれば、向日葵のように太陽を思わせる夏の花もあるし、椿やスイセンなどの寒い時期に咲く花々もあった。
どれも季節や気候の違いによって、本来なら一堂に会することのない花々が一様に咲き誇っていた。
その光景はまるでこの世のものとは思えないものだった。
だが、なによりも、四季それぞれの花々が織りなす風景の中で最も目立っているのは、いや、中心となっているのは秋の花だ。
秋の花の中で最も目立っているのが、赤い花だった。
真っ赤に咲く彼岸花が花々の中心になっていた。まるで予めそうなるようにと拵えられたかのようにだ。
「彼岸花がこんなに」
見た目自体は美しい彼岸花だが、あまり縁起のいい花ではなかった。
花言葉が「悲しき別れ」ということもあるのだが、なによりも彼岸花は、お彼岸の時期に咲く花である。
お彼岸、死者が一時的に戻ってくる時期に咲く花であることから、縁起という意味合いにおいてはあまりよろしくない花として扱われている。
が、その一方で「天上の花」とも言われることもある花でもある。
もっとも「天上」という言葉自体が「あの世」という意味合いになるため、どちらにしろ、縁起としてはあまりよくはないのだが。
そんな彼岸花が花々の中心に存在していた。
それも中心を占めるようにしてである。
ここがどこなのかはわからないが、少なくとも彼岸花を中心にして花々を、それも他の四季の花々を咲かせるというのはいかがなものか。
四季の花々を咲かせるのであれば、彼岸花はわずかにして、キキョウなどの秋の花を中心に拵えればいいのにとエリセは思った。
もっとも、ここの管理者の趣味というのであれば、口出しをする気にはなれないし、そもそも口出しする理由もエリセにはない。
あるとすれば、どうやって自分をここまで連れてきたのかということくらいか。
「……いったい、ここは」
どこなんだろうと呟こうとした、そのとき。
「……おまえさん、どちらから来られた?」
「え?」
不意に男性の声が聞こえてきたのだ。
声の聞こえた方へと顔を向けると、そこには麦わら帽に作務衣を来た妖狐らしき男性が立っていたのだ。
しかも麦わら帽の下は手ぬぐいで覆われており、顔はほとんど見えない。せいぜい目元が見えているくらいである。
「えっと」
「……わしはここの管理を任されている者じゃ。それでおまえさんは?」
「あ、えっと、うちもわからなくて」
「わからない?」
「あ、うちのこっちゃのうどすなぁ」
「わかっておる。「どうしてここにいるのかがわからない」というところであろう?」
「……はい」
作務衣の男性は別の手ぬぐいで首筋を拭いながら、エリセの足りない言葉を補足してくれた。
男性がいきなり現れたというのもあるが、やはりエリセの言葉が足りなさすぎたのが問題だった。
その問題を男性はあっさりと解して、エリセの事情を理解してくれている。
ありがたいと思いつつも、ここがどこなのかはまるでわからないままであった。
「……それで、あの、ここは?」
「ここか? あるお方の領域、だな」
「あるお方?」
「うむ。時折訪れては、ここでのびのびと過ごされる。そのための場所だな。わしはそのお方のために、花々を育てている」
「ってことは、あなたが」
「うむ。ここの管理者ということになる」
男性は静かに頷きながら、懐から竹筒を取り出して、エリセから顔を背けるようにして中身を煽る。
喉を鳴らしながら竹筒の中身を飲む様を見て、エリセは喉の渇きを覚えた。
だが、あいにくと飲み物のあてなどはない。我慢するか、男性に井戸の場所でも聞くしかないかと思っていると──。
「ほれ」
──男性が自身が飲んでいた竹筒とは別の竹筒を差し出してくれたのだ。
「えっと」
「喉が乾いているのだろう? 安心せよ。ただの水じゃ。怪しいものは入っておらんし、その竹筒自体は新しいもので、わしも使ってはおらん」
「……それじゃ、いただきます」
「うむ」
男性は頷くと、再びエリセから顔を背けて竹筒を傾けていた。
エリセは男性をちらりと眺めてから、竹筒を傾けて中身をわずかに含んだ。
中は男性の言う通り、ただの水だった。
だが、その水は氷水かと思うほどに冷たい水だった。
「っ、冷たい」
「作業をしておるからな。冷たい水がちょうどいい」
飲み終えたのか、男性は口元をエリセから見えないように拭っていた。
「して、そなた、名前は?」
「エリセ、と申します」
「そうか、エリセか。よき響きの名前だ。……名は母君の名前からいただいた、とかか?」
「はい、母はそう言うてましたなぁ」
「左様か。……よき名である。大切にな」
「は、はぁ」
管理者はやけにエリセの名前を褒めてくれた。初対面の相手の名前をなんでそこまで褒めるのかはいまいちエリセにはわからなかったが、母から貰った名前を褒めてもらえて、エリセは素直に嬉しかった。
「それで、管理者様?」
「うん?」
「うちはどうしてこちらに?」
「ふむ。迷い込んだというところであろうな。時折いるのだよ。眠った際に、こちらに迷い込んでしまう者がな」
「眠った際?」
「うむ。ここはあるお方の領域と言ったが、実際は現世と常世の中間にあるのだ」
「常世の」
「うむ。眠りに落ちた際に、たまたま繋がってしまったのであろうな。本来なら、そなたのように現世に生きる者が来るべき場所ではないのだ」
「……彼岸花があれほど咲き誇っているのは」
「そういうことだ。ここが現世ではないということじゃ。水を飲んだらもう帰りなさい」
「そう言われても」
帰れと言われても、どう帰れと言うのか。
どうしたものかとエリセが悩んでいると、管理者は「簡単だよ」と言ったのだ。
「こちらに来たように眠ればいい。寝て起きれば、現世には戻れる」
「ほんまに?」
「あぁ、嘘は言わぬ。だから、それを飲んだら眠りなさい。そしてここにはもう来ぬことだ。あまり来すぎると、ここと縁ができてしまい、最悪現世に戻ることができなくなる可能性もある」
管理者が淡々と語る内容に、エリセの背筋はぞくりと震えた。
美しい世界ではあるが、現世ではない。現世ではない世界に入り浸った結果が、現世に戻れなくなるというのはあまりにも恐ろしい。
「……わかった。もうここに来いひんことにする」
「うむ。それがいい。……息災でな」
「え? は、はい?」
管理者はそれだけ言って背を向けてしまう。その後ろ姿にはなぜか見覚えがある気がしたが、それがいつのことなのか、誰に対してなのかはわからなかった。
わからないまま、エリセは管理者の言う通りに水を飲みきると、そっとまぶたを閉じた。
まぶたを閉じるとすぐに眠気が押し寄せてくる。押し寄せる眠気に身を任せていくと──。
「……すまへんかった、なんて言うても許してくれるわけもあらへんわな。我ながら遅い自覚やったで」
──管理者が「水の妖狐の里」特有の訛りで話し始めたのだ。
なにを言っているのだろうと薄れゆく意識の中で、エリセはまぶたを開く。
管理者はエリセを見つめていた。だが、その顔は不意の逆光によってよく見えなかった。
「エリセ? エリセ?」
管理者の顔は逆光で見えないと思っていると、タマモの声が聞こえてきた。
タマモの声にエリセはより一層眠気が増すのがわかった。
「……ええ良人を得たな。仲良うしたらええ。ほんで幸せになるんやで」
タマモの声を聞いて管理者は嬉しそうに笑っていた。
その笑い声もどこかで聞き覚えはあるが、よく思い出せなかった。
タマモと変わらないほどにとても優しげな声なんてほとんど懸けられたことなんてないはずなのに、どうして思い出せないのだろうとエリセは思ったが、どうしても思い出すことはできなかった。
いったい誰なのだろうと思いながらも、エリセは言葉を発することもできないまま、再びエリセはまぶたを閉じた。
同時に、頭を撫でるぬくもりを、いつかどこかで覚えがあるぬくもりを感じたが、それを確認することもできないまま、エリセは意識を手放すのだった。




