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15話 姉と弟

 せせらぎが聞こえる。


 氷結王の御山から流れる小川が、静かな音を立てて目の前を流れていく。


 緋色の光を浴びて輝く様は、とても美しい。


 その美しい小川は、透明度もとても高い。それこそ角度がよければ水底まで見通せるほどに。


 いまエリセが腰掛ける場所からは角度があまりよくないため、水底を見通すことはできないが、水底を見通せなくて問題があるわけではない。


 だが、見通せないからこそ、わずかな不安が残る。


 目で見えないものというのは、どんなものでも恐ろしいものだ。


 それは人の心の中も同じだった。


 エリセは薄く目を見開きながら、隣に腰掛けるシオンを見やると、ちょうどシオンがエリセを見上げたようで、視線が絡み合った。


「どうかなさったか、姉様?」


「……別に」


「左様どすか」


 シオンはそれだけ言うと、エリセから視線を外し、正面の小川を見やる。


 小川を見やるシオンは、普段のシオンそのものだった。


 心の内面もやはり普段と変わらない。


 変わらないが、差異はあった。


 普段であれば、シオンの内面を読むのはそう難しいことじゃない。


 というか、読まずとも、シオンの心の中は、ずっと「姉様」で覆われているのだ。


 どんなときも「姉様」で覆われている心。その内容はエリセとて気恥ずかしくなるものなのだ。


 逆に言えば、エリセが気恥ずかしくなるくらいに、シオンはエリセを想ってくれているということ。


 心を読む度に、「まるで初恋の相手を想っているみたいだ」と思っていた。


 いや、みたいではなく、本当にシオンにとっての初恋の相手は自分なのだろうとエリセはいつからか思うようになった。


 それはエリセ自身が、恋をしたからこそわかることだった。


 そう、タマモという最高の良人を得たからこそ。


 タマモを見るたびに、話をするたびに、そしてその腕に抱かれるたびにエリセは恋をしている。


 まるで恋に恋する少女のようだと思うことはあれど、冷静に自身の有り様を振り返ると、あながち間違いではない。


 だからこそ、シオンが自身に向ける気持ちが恋心であることがわかるようになった。


 ただ、どれほど恋い焦がれようとも、シオンの気持ちは成就しない。


 そのことはシオン自身が誰よりも理解している。


 理解しているからこそ、シオンはタマモに縋りつつも嫉妬もしているのだ。


 タマモであれば、最愛の姉を任せられると思う一方で、シオンではどうあってもいられない場所に、エリセの心の中にいられるタマモに嫉妬をしているのだ。


 求めたいのに、求められない。


 シオンの心はいつも真逆の想いで彩られている。


 二律背反という言葉をシオンほど体現する者はそういないだろう。


 そんなシオンをエリセは弟として愛している。


 ひとりの男性ではなく、家族としてシオンを愛している。


 それはどうあっても変わりようのないものだった。


 求めるものとは違う愛情でも、たしかに愛情であることには変わりない。


 シオンはその愛情に浸りつつも、物足りなさを感じてもいる。


 が、その物足りなさを表面に出すことはしない。


 出せば、きっといまの関係さえも壊してしまうとわかっているから。


 実に複雑な心の模様。


 エリセが見るシオンの内面は、いつもそうだった。


 だが、いまのシオンからはいつもの複雑さは見えない。


 いや、複雑さどころか、心の中がよく見えないのだ。


 まるで薄い膜に覆われたかのように。


 シオンの内面がよく見えなくなっていた。


 まるで見えないわけではない。


 あくまでも覆われているのは薄い膜のようなものでしかない。


 ぼやけているが、シオンの内面を読むことはできるのだ。


 ただ、ぼやけているから、うまく判別ができないだけ。


 水で滲んだ本を読むようなものだ。


 字の輪郭はわかるのに、その字の意味がはっきりとわからない。


 そんな状態が、いまのシオンなのだ。


 いっそ薄気味が悪いとも言える状況ではあるが、目の前にいるのはたしかにシオンではあった。


 だが、シオンであるならば、この薄膜はなんなのだろうか。


 いままでになかったはずのもの。


 それがなんであるのかがエリセには判別できないし、どうしてそうなったのかもエリセには判断できなかった。


 いや、したくなかった。


『おまえがシオンと思っている者は、たしかにシオンではある。が、シオンそのものというわけではないのだ』


 以前夢の中で九尾に言われたことが脳裏に蘇る。


 九尾は言っていた。


 シオンの中には、同居人が、エリセとシオンの実父にあたる「種なし」の意識があるのだと。


 そして「種なし」は、いつかシオンの体を奪い取り、素知らぬ顔でエリセを襲い、身籠もらせるつもりなのだ、と言った。


 最後はエリセが身籠もった子の体を再び奪い取り、シオンとエリセの力を受け継いだ者として、「水の妖狐の里長」として、真の里長として君臨するつもりなのだ、と。


 九尾の言葉を聞いて、エリセが思ったのは「あの「種なし」ならやりかねない」ということ。


「種なし」は里長の一族らしい自尊心と虚栄心の塊だった。


 だが、その実力は、エリセの足元どころか、いまのシオンの足元にも及ばない程度。


「里長」という立場であれたのも、単純にそういう巡り合わせでなれただけ。実力で里長の地位を得たわけではないのだ。


 そんな「種なし」は、実力のある者を嫌っていた。


 自分に力がないからこそ、力がある者を嫌っていた。


 嫌う一方で、力というものに隠しようのない憧れのようなものを抱いてもいた。


 だからこそ、「種なし」が力を求めて、シオンの体を奪い取ろうとしているというのも理解できた。


 理解どころか納得までしてしまった。


 あの「種なし」ならやりかねないとエリセは心の底から思ったのだ。


 ゆえに、いま目の前にいるシオンが、本当にシオンなのかという懐疑心が生じてしまった。その懐疑心は、いまのシオンの心の内面がうまく読み取れないことでより強まってしまった。


 本当に「これ」はシオンなのか。


 それともシオンを呑み込んだ「種なし」なのか。


 エリセには判断がつかなかった。


 愛する家族だというのに。


 その家族が本物なのか、偽物なのかがわからない。


 情けないとは思う。


 情けなさすぎて泣けてくるほどだ。


 しかし、どれほど情けないと思っても、現実は変わらない。


 目の前にいるのがシオンなのか、「種なし」なのかの判断がエリセにはどうしてもつかなかった。


「……ほんまにどないつもりなんやろうな」


 シオンが不意に口にした言葉に、エリセは一瞬言葉を呑んだ。


「え?」とあ然となるエリセだったが、シオンはいかにも不満げに頬を膨らましながら続けた。


「タマモ様のこっとすえ。姉様をこないに傷付けるなんて、どないなつもりなんかいなって」


「あ、あぁ、そのことね」


「ほかにあるんどすか?」


 はてと首を傾げるシオン。紛らわしいことを言うなと思ったが、いまの発言は実にシオンらしいものだった。


 エリセを見つめる目には、後ろ暗いものを抱えているとは、とてもではないが思えないほどに澄み切っていた。


 いつものシオンだった。


 そう、いつものシオン。エリセが愛する弟であり、唯一の実の家族のいつもの振る舞いだった。


「……旦那様にもいろいろとあるんやで」


「だからと言って」


「あんたがそう言ってくれるのんは嬉しいけど、あの人のことあまり悪う言わんといて」


「……わかってますえ。こら悪口やのうて、ただの愚痴どすさかい!」


 ふんだと顔を背けるシオン。エリセの知るシオンそのものだった。


 あまりにもいつも通りなシオンの姿に、エリセは自身の中にあった懐疑心が急速に失われていくのを感じていた。


 いくら九尾が言ったこととはいえ、あの「種なし」が大それた術なんて行使できるわけがない。


 なにかの間違いか、もしくは勘違いだろうと思ったのだ。


 それくらいいまのシオンは、普段のシオンそのものだった。


 心の中が読みづらいのも、たぶんタマモに憤慨して情緒が不安定だからなのかもしれない。もしくはエリセ自身の不調の可能性もある。


 そこまで考えて、ようやく懐疑心は消えてなくなったのだ。


「ほんまにあんたは」


 やれやれと溜め息を吐きながら、エリセはそっとシオンの頭に手を置き、優しく撫でつけていく。


 シオンは憮然としていたが、背中の尻尾が緩やかに振られていくのを見る限り、いくらか気分が晴れたことは明らかだった。


 エリセの心もシオンと話をしたことで、いくらか晴れた。


「……シオン」


「なんどすか?」


「おおきに、ね」


「……姉様のためどすさかい」


「そう。おおきに」


「……めっそうなどす」


 心を晴れやかにしてくれたことへの礼を、エリセは口にした。


 シオンは顔を俯かせて頷いた。


 俯いたシオンを見て、エリセは恥ずかしいのだろうと思い、おかしそうに笑った。


 笑いながらエリセは前を見つめる。


 夕焼けを浴びた小川の水が反射していた。


 きらきらと輝く水面の光を見つめながら、以前よりも心の中は軽やかになっていた。


 ちゃんと旦那様と話をしよう。


 エリセは煌めく光を眺めながら、そう決めていた。


 そんなエリセをシオンは見上げていた。口元を歪ませて笑いながら、エリセを見上げていた。


 が、そのことにエリセは気づくことなく、エリセは良人であるタマモのことだけを考えていたのだった。

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