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14話 エリセの迷い

 息が切れた。


 薄暗い木々の間を遮二無二になって駆け抜けたせいだった。


 どこをどうやって駆け抜けたのかはわからない。


 気付いたときには、新本拠地建設予定どころか、農業ギルドの敷地内さえも通りすぎていた。


 目に映るのは、どこまでも開けた大地とその大地を流れる小川だけ。


 空は相変わらずの夕焼け色。淡い緋色の光を浴びながら、とぼとぼと当てもなく歩いて行く。


「……はぁ」


 息切れとは異なる吐息が漏れ出した。


 その吐息がどういうものなのかは、エリセ自身よくわかっていた。


「……はぁ」


 再び吐息を漏らすと、小川の水面がエリセ自身を映し出しているのが見えた。


 小川に映るのはひどい顔をした、悲しげに歪んだエリセ自身が映り込んでいる。


 映り込んだ自身の姿を見て、エリセは落ちていた石を拾い、ぽいっと小川に投げ捨てていた。


 石が投げ込まれた小川は、瞬く間にエリセの姿をかき消していく。


 が、かき消されたのはほんのわずかな間だけ。


 あっという間に元通りに、エリセの姿を再び映し出した。


「……なにをしてるんやろう」


 再び映り込んだ自身の姿に向けて、もう一度石を放り投げてやろうかと思い、石を拾いはしたものの、それになんの意味があるのかと思ったら、急にバカバカしく感じられた。


「……旦那様がああなんは、いまさらなのにな」


 そう、いまさらだ。


 いまさらだったのだ。


 良人であるタマモがああいう人であるのは、いまさらのことである。


 よく言えば人当たりがよすぎる人。悪く言えば八方美人。


 誰に彼にも人当たりよく接するため、好意を抱かれやすい人。


 そんなことは世話役としてそばにいることを求められたときから、わかりきっていることだった。


 だが、そんなタマモをエリセは心の底から愛している。


 誰にも彼にも愛想よく振る舞えるタマモが、エリセは誰よりも愛おしいのだ。


 そんなタマモがいまさら新しい女をこさえたとしても、「あぁ、またか」と思えばいいだけのことだった。


 そもそもの話、タマモの有り様からして自分とアンリだけというのがおかしなことだったのだ。


 タマモほどの人が愛情を注ぐ相手が、ふたりだけというのはいくらなんでも少なすぎた。


 そう思う一方で自分とアンリだけが寵愛を注いで貰えることは、とても心地よく、それでいて優越感を抱けるものだった。


 自分とアンリだけが得られた寵愛に、新しい女性が加わっただけ。


 しょせんはその程度のこと。


 だけど、その程度のことがなによりもエリセを打ち据えていた。


「……うちよりも、あの女の方がええんかいな」


 タマモは新参者の膝の上で、穏やかに横になっていた。


 エリセが見たのはそれだけ。


 だが、それだけでもわかるものはわかった。


 タマモは新参者の膝に頭を乗せていたが、とても安堵していた。


 それこそ自分やアンリでも、あそこまで安堵させられるのかと思うほどにだ。


 それに自分やアンリと変わらないほどに、タマモはあの新参者に心を許しているように思えた。


 いったいいつからと思うし、いったい誰なんだろうとも思う。


 わかることがあるとすれば、それはタマモがあの新参者の女に心を許しているということ。


 たったそれだけのことで、エリセは衝撃を受けていた。


 見ていられなくなってしまったのだ。


 気付いたときには、雑木林の中を駆け抜けた。


 もともとは、タマモに差し入れを持って行っていたのだ。


 が、作業場所にはタマモの姿はなかった。


 どこに行ったのだろうと思い、タマモの魔力を探ると雑木林の中に反応があったのだ。


 なんでまたと思いつつも、エリセは薄暗い雑木林を進み、見たのがタマモと見知らぬ女の逢瀬の光景だった。


 タマモが自分とアンリ以外の女性と逢瀬を重ねていたとしても、普段であれば気にすることはない。


 それどころか、夜伽の負担がいくらか減りそうだと思う程度だ。


 だが、いまのエリセは、エリセ自身でも「まとも」とは思えない精神状態にあった。


 自分でも「まともではない」と思うほどに、いまのエリセは日に日に追いやられていた。


 そこにタマモが見知らぬ女との逢瀬を見てしまった。


 重ねて言うが普段であれば、エリセは特に気にすることはない。


 まぁ、「ふぅん?」とか「へぇ?」とか、少し蔑んだ目でタマモを見るくらいはするだろうが、行ってもその程度だ。


 だが、いまのエリセにとって、タマモとあの女性の逢瀬はあまりにも刺激が強すぎた。


 それこそ。


 そう、それこそ「裏切られた」と思ってしまうほどには、だ。


「……裏切りなんてあるわけあらへんのに」


 タマモが自分とアンリを裏切ることなどありえない。


 まだ半年も経っていない関係だけれど、それでもタマモがどれほどまでに自分とアンリと愛してくれているのかを理解するには、半年という期間は十分すぎるものだった。


 だからこそ、あの光景はエリセには衝撃的すぎたのだ。


 別に浮気をしていたというわけではないだろう。


 そもそも、浮気というにはただ膝枕をしてもらっていただけ。


 それ以上のなにかを、決定的な瞬間をエリセが見たわけではない。


 決定的な瞬間を見てはいない。


 見てはいないが、エリセはあれ以上ふたりのやりとりを見ていたくなかったのだ。


 もっと言えば、自分とアンリ以外に誰かに触れるタマモを見たくなかった。


 だから、その場から逃げだした。


 差し入れとしても持ってきていたお茶とお弁当はいつのまにかなくなっていた。


 どこで落としたのかもわからない。


 落としていようがいまいが、結局渡すことはできなかっただろうが。


「……はぁ」


 溜め息を交じらせながら、エリセは小川の畔に腰を下ろした。背中にはちょうどいい具合の木があり、その木にもたれ掛かる。


 息切れはすでに治まっていた。


 が、胸はやけに鼓動している。


 その鼓動の理由がなんであるのかを考えるまでもなくて、エリセは静かに、だが、大きく息を吐いた。


「どないしたらええんやろう?」


 どうすればいいのか。


 どうすればよかったのか。


 エリセにはわからなかった。


 なにもかもがわからないなんて、いまさらではある。


 人の心を読み取れる力を持っていたとしても、わからないことは多い。


 いや、どんなに強い力を持っていたとしても、わからないことだらけだ。


 なにもかもがわかっていたら、それはもう人ではないだろう。


 人ならざる神くらいではないか。


 エリセは「妖狐族」きっての神童と呼ばれてはいるものの、あくまでも「妖狐族」という範疇の中での話。


 その範疇を超えれば、自分なんてなにほどのものぞ、としか思えない。


 どれほどの力を誇ったとしても、この世界でもっとも優れているというわけではない。


 遠く離れたどこかでは、それ以上の力を持つ者がいるかもしれないし、いまから幾星霜も時代を経ればそれ以上の力を持った者が現れるかもしれない。


 どれほど優れていると声高に叫んだところで、この世のすべての人と実際に比べることができるわけではないのだ。


 明確に上下を決めることができないのであれば、どれほどに優れていることを誇ったところで虚しいだけだ。


 なによりも、誰かよりも上か下かを決めることになんの意味があるのだろうか?


 誰かよりも上であることを自慢するのか?


 もしくは誰かよりも劣ることを悔しがればいいのか?


 少なくともエリセにとって、そんなことをする意味はないとしか思えない。


 競うことを非としているわけではないが、競ったとしても最終的にはなんの禍根も残らないようにしなければならない。


 むろん、なんの禍根も残らないということは難しい。難しいが、それを目指すべきだとエリセは思う。


 その観点から言えば、あの新参者とて競い合う相手だと思えばいい。


 そう思えばいいだけなのだが、どうにも拭いきれないなにかがエリセの中にはあった。


 そのなにかをどうすればいいのかが、エリセにはわからなかった。


「……ほんまにどないしよか」


 これからどうすればいいのか。


 再び浮かびあがった問い掛けに対する答えは、エリセの中にはなかった


 はぁと大きく溜め息を吐きながら、顔を俯かせた、そのとき。


「どうされたんどすか? 姉様」


 不意に影が差し、聞き覚えのある声が耳朶を打ったのだ。


「……シオン?」


 顔をあげると、そこには不思議そうに首を傾げたシオンが、エリセの実弟であるシオンがいたのだった。

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