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12話 弱み

今回は全体的にグロめですので、ご注意をば。

 そこにいたのは「獣」だった。


 青い髪の、青いざんばら髪の「獣」がいた。


「獣」の口回りは紅く染まり、その口には被害者となった誰かの腕が咥えられている。


 咥えた腕をガリゴリ、と咀嚼しながら「獣」はまっすぐにタマモを見つめていた。


 髪と同じ青い瞳がタマモを捉えていた。その瞳孔は縦に裂けており、より一層「獣」らしく感じられた。


 顔の造りは非常に整っており、誰もが美人と認めるほどだ。


 だからこそ、顔が整っているからこそ、いまの姿の異様さがより際だってタマモには感じられた。


 信じられない、とタマモは思う。


 だが、どれほどに信じられなくても、目の前にいるのはたしかに見知った人。


 いや、愛する人だった。


 愛する人の変わり果てた姿。


 それがよりタマモの心を打ち据えていた。


 自然と声が震えていた。


 声だけではないか。


 体までをも震わせながら、タマモは呆然とその名を口にした。


「エリ、セ」


 タマモが紡いだ三つの音。その音が為すのは、タマモの世話役のひとりであり、タマモが初めて抱いた女性の名前。


 普段はおっとりとした、はんなり言葉を使う細目の美女であるエリセ。


 だが、いま目の前にいるエリセを見て、とてもではないが、おっとりとしたなんて印象を抱ける者はいないだろう。


 エリセはあまりにも変わり果てていた。


 それこそ、野生の獣のように。


 獣人ではなく、本物の「獣」になってしまったかのようだ。


 どうしてエリセがこんな姿になったのか。


 タマモにはわからなかった。


 見目はいつものエリセとほぼ変わらない。


 せいぜい髪が乱れに乱れていることと瞳孔が盾に裂けていること、そして人肉を咀嚼していること以外は、すべていつものエリセそのものだった。


 服だっていつもの巫女服姿である。野生の獣のように毛皮を纏っているわけではない。


 だが、目の前にいるエリセは、「獣」になっていた。


 言葉はおそらく通じない。


 それどころか、タマモを捕食対象にしか見ていないのは明らかだ。


 いつものエリセとの差異はほとんどない。


 なのに、いまのエリセを、いつものエリセと見ることはタマモにはできなかった。


 そんな自分が情けなく感じられた。


 どんなに変わり果てても、エリセはエリセだろうと叱咤するも、あまりの変容ぶりに心が着いてこなかった。


 変わり果てた姿を理解することができなくなっていく。


「どうして」


 タマモがエリセと対面し、どうにか、名前以外でどうにか口にできたのは、たった一言だけだった。


 それ以上の言葉を紡ぐことはタマモにはできなかった。


 紡ぐよりも早くタマモの視界は一瞬で反転したからだ。


 目の前に見えるのは、乱れた髪とその中に見える感情をなにも感じられない青い瞳、そして紅く染まった牙だった。


 紅く染まった牙からは、被害者の血が滴り落ち、タマモの頬を汚していく。


 エリセは笑っていた。


 いや、牙を剥いているのだろう。


 獣が牙を剥く姿は、まるで笑っているように見えることがある。


 同じように頬をあげるからだという話をどこかで聞いたことがあるな、という取り留めもないことをタマモは考えていた。


 剥かれた牙が、まっすぐにタマモへと向かってくる。


 大口を開けたエリセ。


 その姿は普段のエリセとはまるで違っていた。


 エリセが大口を開けるところはほぼ見たことがない。


 あくびを搔くことくらいだろう。


 それ以外で、エリセがこんなにも大口を開けることはほとんどなかった。


 あるとすれば。


 あくび以外で見たことがあるとすれば、以前マドレーヌたちと一緒にパンケーキを食べたとき。


 あまりの美味しさに皆が大口を開いて、パンケーキを頬張っていた。


 プレイヤー組もNPC組も変わらない。


 誰もが美味しいパンケーキに舌鼓を打ち、童心に返ったかのように夢中になって頬張っていた。


 それはタマモだけではない。レンやヒナギクだって、エリセだって同じだった。


 そのときといまも大口を開くという意味では同じ。


 だけど、まるで違って見えた。


 別物のように思えてならなかった。


 そんな別物のように見える姿を間近に捉えながら、タマモは呆然とエリセの行動を目で追い、そして──。


「っ!」


 ──右肩を思いっきり噛みつかれた。


 エリセの牙が、タマモの肩の筋肉を、神経を、骨を断っていく。


 骨肉の砕ける嫌な音が、自分の体から聞こえてくる。


 その痛み、その嫌悪感からタマモは堪らず苦悶の声をあげる。


 それでもエリセの行動は止まらない。


 頭を左右に振りしきるエリセ。そのたびに長い髪が左右に揺れる。


 噛みちぎろうとしていることは明らか。


 部位的には致命傷からはギリギリ免れるが、今後の生活が支障を来すことは間違いない。


 そうならないためにも押しのけるべきだと思う。


 だが、押しのけようにも相手はエリセだった。


 変わり果てたとはいえ、愛する人だ。


 愛する女性を、押しのけることはタマモにはできなかった。


 葛藤する間もエリセの動きは活発だった。


 このままではとは思うものの、エリセを傷付けるようなことはしたくなかったし、できなかった。


 タマモにできることがあるとすれば、それはただひとつだけだった。


「……エリセ」


 タマモは息を切らしながら、噛みつかれた側の腕を、痛みでまともに動かない腕をどうにか動かして、エリセの髪を撫でた。


「……きれいな髪が、台無し、だよ?」


 息を切らしながら、どうにか紡いだのは一言だけだった。


 もっと言うことがあるだろうとは思う。


 それでも、タマモが口にしたのは、せっかくのきれいな髪が、ざんばらでは台無しだという、誰が聞いてもおかしなセリフだった。


 おおよそ、こんな状況下で言うべきものではない。


 それでもタマモは、タマモがなによりも気になったのは、エリセのきれいな髪が乱れたままであることがどうにも我慢ならなかったのだ。


「獣」になったことなどどうでもいい。


 瞳孔が縦に裂けることもどうでもいい。


 ただ、その艶やかだった青い髪が、まともに手入れもされなくなったことが、堪らなく悲しくなったのだ。


 バカだなぁと自分でタマモは思った。


 もっと言うことがあるだろうとも思った。


 それでもエリセのきれいな青い髪を、手櫛で梳くことはタマモの楽しみのひとつでもあった。


 でも、いまのエリセの髪では、途中で引っかかってしまう。


 下手をすれば髪が抜けてしまうかもしれないし、より傷めてしまうかもしれない。


 どちらにせよ、タマモにはそうなってほしくなかった。


 だからだろう。


 命乞いでもなく、嘆願でもない。


 タマモは、きれいな髪が台無しになっていることへの無念さをただ口にしていた。


 バカだなぁと改めて思っていると、エリセの動きが止まっていることに気づいた。


 噛みつかれているから、顔を見ることはできない。


 それでも、エリセの動きはたしかに止まっていたのだ。


「……なんで」


 エリセの声が聞こえた。


 普段のエリセとは違う、底冷えするような声。


 だけど、たしかにエリセの声だった。


 愛する人の、愛おしい声だった。


「なんで、そんなんが言えるんどすか? なんでそないにも想うてくれるん?」


 エリセは泣いていた。


 口回りは相変わらず紅く染まっている。頬を濡らした涙が顎から滴り落ち、紅い涙へと変わる。


 紅く染まった涙がタマモの頬を濡らす。自身の頬を濡らす紅い涙を見て、タマモは心の底から「きれいだな」と思った。


 エリセからしてみれば、不謹慎なのだろうけれど、タマモはエリセを、いまのエリセを見てもきれいだと思った。


 エリセのすべてがただただ美しかった。たとえどんなに変容しても、エリセがエリセであるのであれば、タマモにとってはどんな姿であっても、エリセが美しい女性であることには変わらないのだ。


「……惚れた弱み、かな? とことん惚れぬいた人を想うことって、そんなにおかしいかな?」


「……旦那様の、あほ」


「いいよ、それで。エリセを愛せるのであれば、ボクはどんなに貶されてもいい。どんなに貶されても、エリセを愛せるのであれば、安い代償だよ」


「……あほ」


「うん、ごめんね」


 涙が次々にこぼれ落ちていく。


 こぼれ落ちるたびに、エリセの口回りの血は薄れていく。


 裂けていた瞳孔も徐々に元の形へと戻っていた。


 タマモは吐き気を催すほどの痛みを憶えながらも、どうにか。どうにか体を動かして、エリセとの距離を詰めようとした、そのとき。


 風切り音が聞こえてきた。


 なんの音だろうとタマモが思ったの同時に、紅い花が視界の中で咲いた。


 まるでホウセンカが種を弾き飛ばすように、目の前が真っ赤な花で覆われた。


「……え?」


 呆然とするタマモ。


 いまのいままで目の前にはエリセがいた。


 だが、いま目の前にはエリセはいない。


 あるのは、矢が突き刺さった死体だけ。


 エリセだったものの死体が、目の前にはあった。


 死体はゆっくりと倒れ臥す。


 光のなくなった瞳が、タマモを見つめている。


 光のない瞳はタマモを見つめたまま、距離を詰めてきた。


 軽やかな音がした。


 軽やかな音とともに口の中いっぱいに血の味が広がっていた。


 口の中に広がる血の味に、タマモは悲鳴のような叫び声をあげ、そして──。


「エリセぇっ!」


 愛おしい人の名前を、慟哭するように紡いだのだった。

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