7話 愛に浸って
体の芯から、熱がじんわりと広がっていく。
体はエリセの意思を介することなく大きく震えていた。
震える体をタマモは抱きしめてくれた。抱きしめながら、その手はエリセを求めるように動いていた。
タマモの手が動く度に、エリセの体は、エリセの意思を無視するように大きく震えた。
荒い呼吸が唇から漏れ出し、視界は自然と涙で歪んでいた。
視界を歪ませた涙は、ほろりと目尻から零れて、ちょうどヒューマン種の耳の位置があるあたりを伝って髪を濡らしていく。
「……エリセ、きれいだよ」
エリセの首筋に顔を埋めていたタマモが、証を刻み込んでいたタマモが顔を上げ、エリセに笑いかける。
その笑顔に、エリセもまた笑顔を浮かべ、震える腕を、タマモの背中に回していた腕をスライドさせ、タマモの頬に触れた。
「……旦那、様」
「うん?」
「もっと」
「うん。もちろん」
にこやかにタマモが頷くと、その手がよりエリセを求め始めた。
息を呑むのと同時に、エリセの体が硬直する。すかさずタマモが唇を深く重ねてきた。
深く重ねられた唇からは、重たい水音が奏でられていく。
その端からはタマモとエリセ、どちらのものかもわからない唾液がこぼれ落ちていく。
呼吸ができない息苦しさはあったものの、それでもエリセは例えようもない幸福を感じていた。
視界は歪むだけではなく、ちかちかと点滅していたが、タマモが止まってくれる様子はない。
普段は優しく穏やかなタマモだが、夜には豹変することを、エリセだけではなく、アンリもよく知っていた。
時折、腰を痛めることもあるからか、アンリとよくそのことで愚痴を口にすることもある。
愚痴をするけれど、心の底から嫌なわけではなかった。
むしろ、その逆でこんなにも幸せでいいのだろうかと思ってしまう。
アンリも同意見のようで、夜の話をすると、いつも顔を真っ赤にしながらも幸せそうに微笑むのだ。
いまは部屋の都合があって、夜伽は交互にということになっているものの、部屋の都合があえば、きっと交互にではなく、一緒に夜伽をすることもあるかもしれない。
というか、そうでないと、ひとり一晩だとさすがにエリセもアンリも体が保たない気がしてならない。
それほどまでに夜の豹変したタマモは、圧倒的だった。
いまもそれは同じ。
「武闘大会」が開催されていた頃も、こうして氷結王の御山で夜伽をしたものだけど、あの頃はタマモも疲れがそれなりにあったからか、回数的にはそこまで多くはなかったのだ。
が、いまはある程度の余裕があるからなのか、回数は多い。そのうえ、当時よりも技術的な向上があるため、エリセもアンリも事が終われば、泥のように眠ることになってしまう。
逆に言えば、それだけタマモがふたりを求めているということであるから、嬉しくもあるが、というのが正直なところだ。
が、決してエリセもアンリもタマモと体を重ねることが嫌なわけではない。
愛する人に求められること。
これ以上に幸せなことなどない、とエリセもアンリもはっきりと断言できる。
その幸せに浸りながらも、エリセは幸せに浸りきれないでいた。
脳裏に夢が、少し前に見ていた夢が、ちらついて離れてくれなかったのだ。
エリセが見たのは、妖狐族の始祖にして、神獣と謳われる九尾と出会うというもの。
その夢の中で、九尾が教えてくれたこと。
知りたくなかった真実が、エリセの脳裏から離れてくれないのだ。
九尾は言ったのだ。
エリセの実弟であるシオンの正体を。
いや、シオンの中にケダモノが眠っていることをだ。
ケダモノの名前は、憶えていない。
だが、誰であることはわかっていた。
ケダモノの正体は、エリセの実父にして、エリセや実母であるエリスが「種なし」と揶揄していた男だ。
だが、種なしはエリスによって、命を奪われた。命を懸けて毒袋と化したエリスを抱き続けたことで、種なしとその弟たちも命を落とすことになった。
種なしもそうだったが、その弟たちも女を装飾品かなにかとしか思っていないような屑だった。
加えて、自分たちの血筋を尊ぶがあまり、他者を見下す、どうしようもない連中だった。
結果的に言えば、腹上死という連中にとってはこれ以上とない死に方だっただろうとエリセは思っている。
死んだ母もたぶん同じ考えであろう。でなければ、わざわざこんな回りくどいやり方なんて選ぶ必要がない。
それこそ、寝静まったときにでも、連中の寝首を搔いてやればいいだけだったのだ。あとは適当にでっちあげた証言をすればいいだけだった。
連中だけではなく、連中の一族もまた猜疑心の塊でもあるけれど、頭のできも極めて残念であるため、適当な証言を疑うなんて思考回路をしていないのだ。
なのに、母はわざわざ種なしだけではなく、その弟どもとも男女の関係になった。念入りに連中を殺し尽くしたのだ。
それほどの殺意を母が抱いた理由が、産まれた頃のエリセを「化け物」扱いされたからというのだから、母がどれほどまでに親バカであったのかが窺い知れるというものだ。
もし、なにかひとつでも違えば。
そう、もし種なしがエリセを娘として、きちんと愛することができれば、別の未来が待っていたかもしれない。
もっとも、そんな未来なんてエリセには想像もできないことなのだけど。
それに想像できたとしても、だ。
種なしが行おうとしている非道を思えば、とてもではないが、その未来を笑顔で見つめることはできなかった。
種なしが行おうとしていること。
それは、シオンの体を乗っ取ることだ。
それもただ乗っ取るだけではない。乗っ取るのは種なしの目的を成就させるための手段でしかない。
種なしの狙いは、シオンの体を乗っ取り、エリセを襲うことなのだ。
エリセを襲い、子供を身ごもらせ、その子供の体を再び乗っ取ることが種なしの目的だと九尾は教えてくれた。
言われてすぐは、呆然とした。
なにを言っているのだろうとさえ思ったほどだ。
世迷い言にもほどがあるとさえ思った。
だが、よくよく考えてみれば、実にありえることではあったのだ。
種なしの一族は、基本的に体が非常に弱かった。
近親での結婚を繰り返しすぎて、血が濃くなりすぎてしまった結果、種なしの一族は体が非常に弱いのだ。
そのうえ、妖狐としての能力も代を重ねるごとに劣化の一途を辿っているほど。
代を重ねるごとに弱く、劣化するほどに連中は、自分たちの「高貴な血」に「下賎な血」が混ざることをよしとしなかったのだ。
だが、それも種なしの代で限界を迎え、ついにはよそから、「下賎な血」を入れざるをえなくなってしまった。
その結果に産まれたのがエリセであり、シオンであった。
シオンが産まれてすぐに種なしは死んだ。その弟たちも母と関係を持ったものの、母を身ごもらせることもなく死んでいった。
そのほかの種なしの一族どもは、もう誰もいない。
残るはエリセとシオンのふたりだけ。特に次世代を繋ぐ役目を担う男性はシオンのみである。
そのシオンに、種なしが宿っている。
シオン自身は、そのことに気づいていない。
が、いずれシオンを食い尽くし、その体を奪い取るだろうと九尾は言っていた。
種なしの能力は大したことはない。
それこそ、いまのシオンの足元にも及ばないだろう。
だが、それでもやりようはある。
さしものシオンとて、自身の内側からの不意討ちにいきなり対処しろと言われても無理がある。
しかも、その不意討ちが乾坤一擲の一撃であればなおさらだ。
そのためだけに、種なしは虎視眈々とシオンを食い尽くす瞬間を狙っているのだ。
だが、それもエリセが知ったことでご破算となる。
……あくまでも、エリセがシオンに知らせればの話だが。
種なしの目論見を台無しにする一手を、エリセはいつでも打つことができる。
だからこそ、躊躇いがあった。
躊躇いというよりも、恐怖があった。
その恐怖とは、いまのシオンは本当にエリセの知るシオンのままなのかということだ。
九尾はいずれと言っていた。
が、そのいずれがすでに行われているという可能性もある。
そもそもの話、九尾が見たシオンは、いつのシオンなのかということもある。
つい最近であれば、問題はない。
だが、タマモを通して見ていたとすれば、実家に行ったのは、もう数ヶ月も前の話だ。
数ヶ月もあれば、種なしがシオンを食いつくそうと試みてもおかしくない期間だ。
もし、すでにシオンが食い尽くされていたとしたら?
シオンに見えるように種なしが振る舞っていたとしたら?
その事実を知るのが、エリセにはひどく恐ろしかった。
かと言って、放っておいたままでは、いつかはシオンは食い尽くされてしまう。
かわいい弟がいなくなってしまう。
怖かった。
考えるだけで、なにもかもが怖かったのだ。
その恐怖に立ち向かえる勇気が、エリセにはなかった。
タマモを追いかけたのも、こうしてタマモに抱かれているのも、恐怖を忘れるため。
「弱いなぁ」とエリセは自身のありように絶望する。
どれほどの力を誇ろうとも。
たとえ、九尾に「神童」と褒められたとしても。
エリセは自身がそれほどまでに優れているとは思えなかった。
自分の弱さを、情けないとしか思えなかったのだ。
その弱さゆえに、エリセはタマモに身を任せていた。
タマモがくれる熱に翻弄されるしかなかったのだ。
目尻から零れる涙は、どんな理由からのものなのだろうと自問自答するも、答えはでない。
答えを出す前に、タマモが熱を与えてくれる。
与えられる熱に翻弄されることしか、エリセにはできなかった。
翻弄されている間は、恐怖と向き合わずにすむ。
なんて自分勝手なのだろうと思いながらも、エリセはタマモの背中に再び腕を回す。
自分のものとは思えない艶やかな声をあげながら、エリセはタマモを見つめる。
「だんなさま、もっと、もっとぉ」
「……今夜はいつもよりも欲しがりさんだね?」
「かんにんえ。そやけど、うち、うち」
「……いいよ。いまは溺れていて。ボクも君に溺れるから」
タマモはすっと目を細めながら、再び唇を重ねてくれた。
くぐもった声と重い水音が奏でられる。
すぐそばに流れる滝の音にかき消される程度の物音なのに、エリセははっきりとその音を耳にしていた。
タマモの与えてくれる熱と、その熱を通して伝わる愛情に浸らせ続けた。




