6話 熱に溺れて
「っ!」
纏っていたシーツを蹴飛ばすようにして、エリセは起き上がった。
呼気は自然と荒くなっていた。
いつのまにかに、汗を搔いていたようで、前髪が額に張り付いていた。
張り付いた前髪がやけに鬱陶しく感じられた。
それこそ、引っこ抜いてやろうとか思い、つい前髪を握りしめてしまうほどに。
くしゃりと掌の中で潰れる髪の感触。その感触に荒れていた感情が少しずつ平定していく。
「……ひどい、夢」
ふぅと大きく息を吐きながら、エリセは再び横になるべく、ベッドに体を沈めようとしたところで、ふと隣に誰もいないことに気づいた。
「……旦那様?」
眠る前までは隣にいたはずの良人であるタマモ。そのタマモがいまはいなかった。そっとタマモがいたスペースに手を伸ばすと、まだぬくもりを感じられた。
ベッドから降り、脱ぎ散らかしていた服を拾い上げる。
眠る前まではタマモのそれも散乱していたはずだったのだが、タマモの服はすでになかった。
あと拾い上げる際に気づいたことだが、脱ぎ散らかしていたはずの服が、やけにきれいに畳まれていたのだ。
畳まれていたのは服だけではなく、身につけていた下着も含まれていた。
それもご丁寧なこと、下着は上衣と袴の間に見えないようにして挟まれていたのだ。
誰がそんなことをしたのかは、考えるまでもない。
「旦那様らしいなぁ」
くすくすと笑いつつ、拾い上げた服を再び身につけるエリセ。
いくらか汗臭くはあるが、寝る前にたっぷりと汗を搔いていたのだから、当然と言えば当然だ。寝汗も含めば、当然汗の臭いが気になるのもまた。
「どこに行かれたんかいな?」
最近、買ったばかりの下着を、刺繍が施された下着を身につけながら、エリセは改めて部屋の中を見回す。
「フィオーレ」の本拠地内にある個室は、ひとり分の居室であるため、広くはなかった。それこそ、大ババ様ことリーゼが営む安宿の一室と同じくらいだろうか。
リーゼの安宿とは違い、部屋には窓はない。窓はないが、備え付けれた時計は、タマモと寄り添って寝たときから数えて、数時間後となっている。
「……今日も凄かったなぁ」
なかなか慣れない下着を身につける際に、ふと胸元に刻み込まれた痕が目に入った。
刻み込まれた痕をそっとなぞってから、なぞった指をおもむろに口づけた。
たったそれだけのことなのに、エリセは自身の頬に熱が溜まっていくのを感じた。
「……間接なんかよりも、すごいこと、してるのにな」
頬に、いや、頬へと溜まった熱を吐き出すようにして、エリセはゆっくりと息を吐く。
それでも、どくん、どくんと高鳴る胸の鼓動に、エリセはどうすることもできずにいた。
「……どこに行かれたんかいな、旦那様」
高鳴る鼓動に、エリセは突き動かされた。
どうにか身につけられた下着の上から上衣を羽織り、袴を穿く。
長い髪を上衣から垂らすようにして流して、一応の準備は整った。
本来なら唇に紅を塗りたいところだけど、すでに時間は遅い。
タマモがどこに行ったのかはわからないが、そう遠くまでは行っていないだろう。
それこそ、外に出ているのかもしれない。
「アルト」の街は、常に夕暮れに包まれているため、時間経過はわかりづらいが、時計を見る限り、夜更けであることは間違いない。
そんな夜更けに遠くまで出かけることは、そうそうないだろうから、おそらくは深夜の散歩でもしているはずだ。
もしくは、農業ギルドの敷地内から出て、月見でもしている可能性もある。
どちらにせよ、そう遠くではないだろうし、出会えれば、そのまま戻ってくるはずなので、わざわざ紅を差す必要はない。
「……そやけど、念のため」
差す必要はないのだが、エリセはいつものように唇に紅を差した。
それも痕をなぞった指で、紅を差していく。
先ほどよりもかわらいしい行為であるはずなのに、先ほど以上に頬に熱が溜まっていくのをエリセは感じた。
「……これでよし」
再び溜まった熱を持て余しつつ、エリセは部屋のドアを開く。短い廊下を通り、リビング兼ダイニングへ入るも、やはりタマモの姿はなかった。
窓の外を見ても、タマモの姿はない。
見えるのは、つい先日大勢で囲んでいた丸太のテーブルだけ。
「フィオーレ」と「一滴」のふたつのクランでのお茶会の会場となった丸太のテーブル。
先日はテーブル一杯に紅茶やらパンケーキやらが広がっていたのに、いまはなにも置かれていない。
普段からそこまで使われているわけではない丸太のテーブルであるが、先日の光景がまだ鮮やかに記憶にあるためなのか、やけに寂しく感じられた。
なにも乗っていないのが通常であるはずなのに、その通常時の姿がやけに寂しい。
おかしなことだと思いながらも、エリセは窓の外から視線を外し、本拠地の外へと出た。
とたんに、うるさいくらいの蝉の鳴き声にエリセは迎えられた。
もう春先とは言えないほどに、気温は徐々に高くなっていた。
街行く人々の格好も防寒着込みではなく、長袖の上着だけになっていた。
中にはその上着さえも脱ぎ、半袖姿で練り歩く人もいるほど。
特にファーマーたちは、その傾向が強く、大抵の人は半袖姿で作業を行っている。
だが、いまは時間帯が時間帯だからろうか?
容易く乗り越えられる小川の先、農業ギルドに所属するファーマーたちの畑には、作業するファーマーの姿はなかった。
あるのは様々な実り。その実りが風によって静かに揺れていた。
エリセは豊かな実りたちの様子を一通り眺めてから、「さて、と」とまぶたを閉じてタマモの魔力を感じ取るべく集中していく。
以前までは弱々しく感じ取りづらかったが、いまのタマモの魔力は強大であるため、感じ取るのは簡単なことだった。
いまも探りはじめてすぐに、タマモの魔力を感じ取れた。
タマモは農業ギルドの敷地を、いや、「アルト」の圏内を離れていた。
「アルト」の圏外とはいうが、タマモがいるのは氷結王の御山であるようだった。
「……まぁ、予想どおり」
想定の中の何番目かにあたる場所だった。それにしても遠くまで行ったものだなと思いつつ、エリセは氷結王の御山、それもタマモのすぐそばにとピンポイントで転移を行った。
「あれ、エリセ?」
転移を行うと視界は一転した。
実り豊かな畑が一面に広がっていたのが、夜の山道へと一瞬で変わってしまう。
空も夕暮れから満天の星空へと変わり、その星空の下にタマモはひとりぼんやりとしていた。
ちょうど御山の入り口にあたる滝の縁あたりでタマモはひとり腰掛けていたのだ。
すぐそばから滝が織りなす轟音が奏でられるも、エリセの耳にははっきりとタマモの声が聞こえていた。
「あれ? やあらしまへん。起きたらどこにもおられへんさかい、探しにきたのどすえ」
「あー、ごめんね。なんだか星が見たくなって、つい」
「……そんなんや思たわぁ」
やれやれ、と溜め息を吐きながら、エリセはタマモのそばに腰を下ろした。
腰を下ろしてすぐ、タマモが腕を伸ばしてエリセを抱き寄せてきた。
いきなりだなぁと思いつつ、タマモへと顔を向けるとすぐに唇を重ねられた。
エリセは身構えることなく、タマモを受け入れる。
水が次々に流れ落ちる音がそばで響く中、タマモを受け入れる音が奏でられるのをエリセははっきりと聞き取っていた。
同時に、タマモの手がエリセの上衣の中に忍びこんでくるも、エリセはそれさえも受け入れた。
「エリセ」
タマモの声が聞こえた。
繋がり合っていた証が、間に架かっていた。
架けられた証を目にしつつ、エリセは上擦った声で「旦那様」と呼んだ。
タマモは「うん」と無言で頷きながら、エリセの首筋に顔を埋めた。
かすかな痛みとともに肌に吸い付かれていく。同時に上衣の中に忍んでいた手が、エリセの胸に触れていた。
「下着、着けているんだ?」
「……外に出るさかい」
「見たいな」
「……なんべんも見てんやろうに」
「それでも見たいな」
首筋から顔をあげて、タマモがねだっていた。その言葉にエリセは溜め息交じりに、上衣をはだけさせる。
滝から跳ね上がった水と、山特有の冷たい空気に晒されて、いくらか寒かった。
だが、胸に触れるタマモの手からのぬくもりが、その冷たささえも感じられなくさせてくれる。
「似合っているよ、エリセ」
「……どんどん旦那様好みの女にされていくみとおす」
「それはそうだよ? だってエリセは」
ボクの女だもの。
タマモが再び唇を重ねてくる。受け入れてすぐに、胸を支えていたはずの下着が、すとんと落ちた。
え、と思ったが、いつのまにかタマモの手がエリセの背後に回っていた。
まさに早業だと思いながら、その手癖の悪さに苦笑するエリセ。
文句のひとつでも言ってもいいように思えるが、「いまはいいか」と思い直し、エリセはタマモの背中に腕を回した。
腕を回してすぐにエリセの視界はくるりと反転し、タマモを下から見上げることとなった。
タマモは熱の溜まった瞳でエリセを見下ろしていた。
言葉はない。
それでもなにを言おうとしているのかはわかった。エリセも同じ気持ちなのだから。
「来とぉくれやす、旦那様」
たった一言。
主語のない言葉。
それでもタマモには通じ、再び唇が重なり合った。
くぐもった自身の声と、タマモの手によって生じる熱を感じながら、エリセはされるがままに、タマモに身を任せていった。
……あの悪い夢を忘れられることを祈りながら。




