4話 死なせたくない
死相が出ている。
「金毛の妖狐」の言葉を信じるのであれば、エリセには死相が出ているそうだ。
正直なことを言うと、なにを言っているんだろうとしか、エリセには思えなかった。
だが、世迷い言にしては、女性からは必死さを感じられた。
将来的に訪れる悲劇を、どうしてでも回避したいという必死さが、女性の言動からは感じられた。
再三の挑発とも言える言葉も、エリセに死相が出ているという言葉を踏まえれば、なるほど、と理解はできる。
そう、理解はできるのだが、できるのはそこまでであった。
納得などは当然できないし、そもそもなんで赤の他人であるエリセの悲劇を回避させようとしているのかもわからない。
百歩譲って、相当のお人好しであれば理解できなくもないが、エリセの見たところ、目の前にいる女性はそこまでお人好しという風には見えなかった。
もっと言えば、「身内」というカテゴリーに入れば、いろいろと手を尽くしてくれるだろうが、カテゴリーに入らなければ、驚くほど淡泊になるであろう。
それが悪いわけじゃない。
むしろ、それが当然である。
赤の他人でも優しくできる人はいるだろうが、限度はある。
その限度は人によってまちまちであるが、女性のありようはどう見ても限度を、一般的な限度を超過しているようにしかエリセには思えなかった。
そのありようを「いいひと」と見るべきか、「お人好し」と見るべきかは、やはり人それぞれだろう。
エリセにとっては、女性は「お人好し」としか思えなかった。
それこそ。
そう、それこそエリセの想い人であるタマモと同じくらいに、だ。
いや、同じくらいというか、女性とタマモのありようはやけに似ているとエリセには思えた。
女性とタマモは似ていた。
容姿はほとんど似ていないが、エリセを見つめるまなざしからは、うっすらとタマモに似たものを感じられた。
だからなのだろうか。
最初にあった警戒心が、徐々に薄れつつあった。
見知らぬ他人に対して、エリセは容易く警戒を解くことはない。
例外はタマモとアンリ、あとフブキくらいだろう。
三人に対して、エリセは警戒を抱いたことはなかった。
三人はあまりにも純粋だった。
純粋にエリセを見てくれていたのだ。
実弟であるシオンにも、純粋にエリセを慕うシオンに対しても、エリセはかつてではあるが、わずかに警戒心を抱いていた。
そのエリセが、タマモたち三人だけに対しては警戒心を抱けなかった。
もっともタマモには別の意味で警戒心を抱いたことはあるのだが、いま思えばいい思い出だなとエリセは思う。
さすがに、夜中に女性の寝所に忍び込んでくるどころか、堂々と乗り込んでくる相手に、警戒するなと言う方が無理だろう。
当時は、いまほどタマモを知らなかったし、まさか世話役を任されるとは思ってもいなかったというのもあるだろう。
それでも、あそこまで堂々と寝所に乗り込んでこられれば、どれほど警戒心が薄い女性であっても、危機感を憶えるのも当然だろうが。
が、それがあったからこそ、エリセはタマモにぞっこんになってしまったわけでもあるのだが。
そのことも含めて、いい思い出だとエリセは思っている。いい思い出であることは、これからも変わることはないだろう。
「ふふふ、やはり、あの子は人誑しよなぁ。そなたほどの妖狐を、ここまで心酔させてしまうのだからな」
女性が笑っていた。その笑顔は、はっとするほどにタマモとそっくりで、まるで目の前の女性はタマモ本人ではないかと。未来のタマモの姿なのではないかと、ありえないことを考えてしまう。
そんなことあるわけがないというのに、エリセは目の前の女性とタマモの関連性に対して、思考を巡らしていた。
「もったいぶるつもりはないから、早々に言うとだな。我はあの子の遠い祖母だよ」
「祖母どすか」
「うむ。祖母と言っても、何代、いや、何十代も前の祖母というところかな? あれの一族の始祖になる子を産んだのが我だよ。もうかれこれ千年ほど前になるのかな?」
「……千年」
「そう、千年前の存在なのさ、我はね」
くすくすと女性は笑う。
口元を手で隠しながら女性は笑う。
その仕草はタマモとはまるで違う。
それでも、どうしてかエリセは女性とタマモの姿が重なって見えた。
その理由が、遠い祖先であると言われれば、なるほどと思うしかない。
いや、そう思うほどに女性とタマモは似ていた。
妖狐族であれば、千年前というのはそこまでの大昔というわけではない。
が、人であれば、千年前は想像もできないほどの大昔だった。
その大昔の人物が目の前にいる。
タマモの遠い祖先であることはわかったが、いったい目の前の人物は何物なのだろうと、再び警戒心が擡げ始めると──。
「さて、そろそろ擬態はやめるとしようかな」
──女性がふぅと息を吐くと同時に、エリセはそれまで感じたこともないほどの圧力に襲われた。
全身が震え、髪や尻尾が逆立っていく。自然と呼吸は乱れ、体中ががんじがらめになったかのようにひどく重たかった。
それこそ大気ごと震えているのではないかと思えるほどに、エリセに襲いかかった圧力は凄まじく、エリセは気づけばその場で膝を突いていた。
傍から見れば女性に対して跪いているかのような態勢になりながら、エリセは荒い呼吸を繰り返し行っていく。
そんなエリセにと女性がやけに穏やかな声で呼びかけてきた。
「ふむ。妖狐族きっての神童であっても、さすがに無理か」
女性の声とともに、エリセの目の前に黄金の絨毯のようなものが広がった。
エリセは恐る恐ると顔をあげると、そこには「金毛の妖狐」だと思っていた女性が立っていた。
だが、その背にある尾を見て、エリセは息を呑み、自身の間違いに気づいた。
女性の背には九つの尾が見えた。ひとつひとつが煌めくような、美しい九つの尾を持つ者など、妖狐族には。いや、妖狐族の元となった存在としかいないのだ。
「……九尾様、どしたか」
「相違ない。我は九尾。そなたたちの大元となった者にして、この世界の神獣と謳われた者。そしてそなたの良人であるタマモの遠い祖母である」
九尾はそう言って笑った。その笑顔にエリセはただ跪くことしかできなかった。
「……これまでの無礼。どうかお許しいただきたく」
「よい。そなたは我が遠い孫娘の嫁御である。この程度のことは無礼に入るまいて」
かんらかんらと機嫌よさげに笑う九尾。それでもエリセは跪いていた。
本来なら直答など許されないほどの人物であり、直視などもっての外。
だが、この場にはエリセと九尾しかおらず、直答するしかなかった。それさえも本来なら許しを得た方がいいのだろうが、想像を絶した出会いゆえに、エリセは混乱の最中にあり、自身の言動の是非についてしか考えることができずにいた。
「ふむ。こういうところはエリザにはあまり似ておらんのぅ。あやつめは、我相手でもずけずけと物申したものであった。そういうところが我には好ましかったのだがな?」
九尾の声色が少し変わる。懐かしそうに、だが、とても悲しそうに九尾は語っていた。
「あ、あの、九尾様」
「ちなみにだが、直答の許可などという堅苦しいことは考えずともよい。この場には我とそなたしかおらんのだからな」
「それは、そうですが」
「あと畏まることはない。エリザなど、畏まっていたのは最初だけよ。あとはおざなりであったぞ? 我のことを九尾様と呼ばずに、本名の「玉藻」と呼んでいたよ」
「玉藻様、どすか?」
「うむ。そう呼んでくれていたよ。……懐かしいものだ」
九尾こと玉藻は懐かしむように目を細めていた。目尻にほんのわずかに涙を溜めながら。
「さて、少し本題はずれたが、我としてはエリセ、そなたにはできれば、我が孫娘からは、しばしの間離れていて欲しいと思っている。そなたはエリザの、我が友の直系の子孫であるからな。その子孫をみすみす死なせたくない。だが、そなたは我の言葉を肯んじてはくれぬのであろう?」
玉藻がまっすぐにエリセを見やる。エリセはその視線を浴びながら素直に頷いた。
「まったく。そういうところは、一度こうと決めたら頑ななところは、エリザにそっくりだよ」
玉藻は困ったように。だが、どこか嬉しそうに笑ったのだった。




