Ex-62 私の英雄
笑顔に包まれていた。
丸太のテーブルに腰掛けながら、誰もが笑っている。
プレイヤー、NPCという括りもなく、全員が笑って話をしている。
その顔には共通して笑みが浮かんでいる。
常に笑顔ばかりではなく、時折ケンカ腰になることもあるけれど、それでもすぐに笑いに包まれていく。
平和という言葉がこれほどまでに似合うこともないだろう。
和やかな雰囲気の中で、笑い合う「フィオーレ」と「一滴」の面々。
総勢十名からなるお茶会だが、いまは「フィオーレ」のヒナギクと「一滴」のフィナンが抜けていた。
ふたりはお茶会で出た試食用のパンケーキ等の食器を洗うために、「フィオーレ」の本拠地内で洗い物をしに行った。
その当のふたりは洗い物途中で、休憩するためだったのか、本拠地内のテーブルに腰掛けてそのまま眠ってしまっていた。
タマモたちはまだそのことに気づいていないようで、楽しそうに話をしているようだった。
目の前で繰り広げられるのは、そんな穏やかな光景だった。
その光景を眺めながら、ソラは「ふぅ」と大きな溜め息を吐きながら、椅子の背もたれに深く寄りかかった。
ギシという軋む音を立てながら、ソラはタマモたちの茶会の光景が映るモニターを、空中に浮かぶモニターを消した。
「……幸せそうでなによりね」
ふふふ、と楽しげに笑いながら、ソラはつい先ほどまでの光景を思い出す。
誰も彼もが笑顔を浮かべ、いまという時間を満喫していた。
産まれた時間も、場所も異なるというのに、全員がいまという時間を、穏やかで和やかな日々を過ごしていた。
もし、本当にゲーム内世界であったのであれば、クリエイター冥利に尽きるというものだっただろう。
だが、「ヴェルド」はゲーム内世界ではない。
ソラたちスタッフが結集して作り上げた唯一無二の作品ではないのだ。
「……クリエイターであれば、こんなときどう思ったのかしらね」
牛乳瓶の底のような眼鏡を、レンズの入っていない眼鏡を外し、ソラは掌でそれを弄びながら、ふとそんな取り留めもないことを夢想した。
いや、それどころか、本当にただのクリエイターであったら。
ただの人として、あの世界を作り上げ、その運営に携わることができていたら、どうだったのだろうかと思う。
……なんの意味もない行為であることは自覚していても、どうしても考えてしまう。思ってしまう。
もし、本当に私がただの人であったならば、と。
掌で弄んだ眼鏡を、そっと両手で包み込んで胸の内に掻き抱く。
レンズの入っていない伊達眼鏡であるけれど、それでもその眼鏡はソラにとっては宝物であった。
愛する家族がくれた贈り物なのだ。
十数年前に、家を出なければならなかったソラへと、子供たちが贈ってくれた宝物。
「……母さんは美人さんだけど、これを掛ければ美人さんだってわからないでしょう、だったかしら?」
産まれたばかりの双子のうち、男の子だけを連れていくソラにと、子供たちは「行ってらっしゃい」と声を掛けながら、ナンパなんてされないようにと瓶底の伊達眼鏡をプレゼントしてくれたのだ。
渡されたときは、「お父さん一筋だから大丈夫」と言ったのだが、子供たちは「それでも」と言って突き付けてきたのだ。
ちなみに、当の夫は「……おまえらな」と呆れていたが、「……待っているからな」とだけ言って、子供たちのような贈り物はくれなかった。
子供たちはそのことに不満を抱いていたようだったが、ソラにとっては夫の一言だけで十分だった。
なにせ、もう夫からは数え切れないほどの贈り物を貰っていたのだ。
愛おしい子供たち、帰るべき家、そして最愛の人を、夫はソラへと贈ってくれたのだ。
だから、それ以上の贈り物は、夫からの贈り物はいらなかった。
「待っていて」と返事をして、夫の頬に口づけて、ソラは家を出たのだ。
あれから十数年が経ち、産まれたばかりだった双子は揃って成長していた。
その双子の片割れであり、ソラにとっての後継者になる娘は、少々困った成長をしているものの、誰にでも優しい少女へと育ってくれている。
最後に撮った写真に映る娘は、ソラの腕の中に収まるほどに小さく幼かった。
それがいまは腕の中には収まりきらないほどに大きくなってくれている。
……まぁ、大きくなったと言っても、まだ幼いというか、小柄ではあるのだけど、それでも当時に比べれば、はるかに育ってくれた。
怪我もなく、なにかの障害があるわけでもなく、真っ当な人としてすくすくと育ってくれている。
それだけでも、ソラにとってはなによりも嬉しいことだった。
もちろん、大きな怪我を負ったり、障害があったりしたところで、ソラにとって娘を想う気持ちが翳ることなどない。
だが、五体満足ですくすくと育ってくれていることは幸運なのだ。
明日にはなにがあるのかもわからない。
そんな日々の中で、なんの問題もなく、育ってくれることがどれほどまでに幸運であるのかを、ソラは嫌というほどに知っている。
幾千、幾万、いや、幾億の人々の営みを眺め続けてきたのだ。
それまでの幸福が、ちょっとした切っ掛けで淡くも崩されるのをソラは数え切れないほどに見てきた。
当時はなんの想いも抱かなかった。
せいぜい「残念」と一言告げる程度。それ以上の感情なんてなかったのだ。
しかし、子を設け、親となってからは「もし、あの子たちの幸福が突然奪われたら」と思うようになってしまった。
「……変われば変わるものよね」
人は変わるものだ。
どんな悪人であろうとも、産まれてから死ぬまでずっと悪人なわけじゃない。
逆に善人も、最後まで善人でいられるわけじゃない。
どんな人物であろうと、なにかひとつの切っ掛けで変わるものだ。
それは人ならざる私であっても変わらないのか、とソラは自嘲しながら思った。
自嘲しながら、ソラは掻き抱いていた伊達眼鏡を眼鏡ケースに収めた。
裸眼となったソラの瞳が、紅い瞳が露わになる
露わになった紅い瞳でソラは、新しいモニターを表示させる。
そのモニターには、ひとりの女性が映っていた。
白い髪に、紅い瞳、そして禍々しく口元を歪めるひとりの女性がいた。
女性の見目は、ソラとうり二つ。
だが、ソラのように穏やかな笑みを浮かべてはいない。
自身とうり二つの女性を、ソラはじっと眺めていたが、不意に女性が振り向き、その口角を大きくあげた。
同時に、ソラはモニターを消した。モニターのなくなったそこには虚空が広がるのみであった。
「……さすがに気づかれるか。あの人らしいわ」
ふぅ、と溜め息を吐きながら、ソラは再び背もたれに深く寄りかかった。
「油断も隙もあったもんじゃない、か。わかっていたけれど、やっぱり執着が凄いなぁ、姉さんは」
ソラは目元を揉みながら、再度ため息を吐く。
だが、溜め息を何度重ねようとも、ソラの瞳からは強い意志の光が宿っていた。
「……あなたの思う通りにはさせない。勝負だよ、姉さん」
ソラは右腕を高く上げると、拳を強く握りしめる。
その瞳にはやはり強い意志の光が宿っていた。
ソラは再びモニターを表示させた。
画面は再び「フィオーレ」と「一滴」のお茶会の様子を映し出していた。
その中でソラが見つめるのは、上座に座るタマモと、その近くでなぜか詰られているレンだった。
特にレンを見つめるソラの横顔は、とても穏やかで、だが、とても辛そうなものだった。
が、その表情をすぐに消して、ソラはタマモを見やると──。
「決して挫けないでね、私の英雄よ」
──ソラはタマモに向かってそう呟いた。
その呟きに対する答えはない。
それでも、ソラは茶会で楽しそうに笑うタマモを、いつまでも見つめ続けたのだった。
次回から新章となります




