Ex-61 ある夫婦と姉妹の話
大きな部屋だった。
三十畳はあるだろう縦長の部屋。
平均的な教室の大きさよりもいくらか小さいが、部屋としては広大と言ってもいい部屋。
イメージとしては教室の黒板側に窓があると言えばいいのだろうか。
教室の窓側と廊下側は壁で、後ろの黒板側に部屋の入り口がある。そんな部屋だった。
その部屋の壁は、白で覆われていた。
白亜の城ならぬ白亜の部屋と言ってもいいほど。
そんな部屋の内部は、気品を感じられる調度品が所々に置かれていた。
調度品と言っても、アンティーク系のランプや花瓶などであり、そこまでの大きさのものは少ない。
しかし、複数ある花瓶には、白百合の花が生けられており、そのどれもが丁寧に世話をされているというのがわかる。
部屋の中央には来客用のテーブルとソファーがあり、そのテーブルの上にもやはり白百合が生けられている花瓶が置かれていた。
テーブルとソファーも年代物ではあるが、一目で高級品とわかるほどに、質素ながらに丁寧な造りをしていた。
全体的に見て、部屋の内部は気品のある執務室という出で立ちをしている。
が、その執務室はなかなかの問題があった。
それは部屋の全土を、それこそ床にまで及ぶほどに大量の本が直置きされているということである。
部屋の四隅には天井まで届くほどの本棚が置かれているが、その本棚にも本が上から下までぎっしりと詰まっている。
それでもなお、部屋の中には大量の本が置かれていた。
さすがに足の踏み場がないとまでは言わないものの、いずれそうなることは目に見えているレベルである。
大量の本が置かれる部屋。その主は窓際にある執務机に腰掛けていた。
部屋の主は、女性だった。
腰ほどはあるだろうか、長く美しい銀髪を持った、百人いれば百人が恋に落ちてしまいそうなほどの美しい女性。
絶世の美女という言葉がこれほどまでに似合う女性もそうはいないだろうと断じてしまうほどに、部屋の主は美しかった。
その美しい女性の頭部には、髪と同じ色の立ち耳があった。
そして女性の背面には、やはり髪と同じ色のふさふさの尻尾があり、その尻尾は高く上がってしきりに振られており、女性の内面がどういうものであるのかを饒舌に物語っていた。
そんな女性は現在両手を組みながらまぶたを閉じている。
一見寝ているようにも見える姿ではあったが、閉ざされていたまぶたは唐突に開かれ、まぶたの下で隠されていた紅い瞳が露わになる。
まぶたを開いた女性は、大きな溜め息を吐きながら、長く美しい銀髪を掻き上げながら、天井を眺めた。
「──はぁ、危なかったぁ」
女性にしてはなかなかのハスキーボイスを出しながら、女性はちらりと執務机に置かれていた眼鏡を取り、手の中で弄ぶ。
「まさか、ここまで大変だったとは」
やれやれと女性は再び溜め息を吐く。溜め息を吐きつつも、その顔はいくらか綻んでいた。
言葉の上では、呆れた様子ではあるものの、その内面がどういうものなのかは、高く上がったままで左右に振られている尻尾を見る限りで明らかである。
「……今後もあの時代に飛ばないといけないと思うと、気が重いなぁ」
女性が再度ため息を吐く。がしがしと後頭部を掻きむしりながら、いかにも面倒だなと言わんばかりの態度ではあるが、尻尾はいまだフルスロットルと言わざるをえないほどに振られていた。
が、尻尾とは違い、女性はいかにも面倒くさそうに顔を歪めている。
言動と内面のどちらが正しいのかは、言うまでもないであろう。
「お疲れやす」
女性が何度目かの溜め息を吐くと同時に、女性の前に紅茶が差し出された。
紅茶を差し出したのは、水色の髪に水色の瞳をした、素朴な顔立ちの和服の女性だった。
素朴ではあるものの、十分すぎるほどに和服の女性も整った顔立ちをしている。
が、さすがに部屋の主ほどではなく、隣り合っても部屋の主の引き立て役にしかならない。
こればかりは和服の女性よりも、部屋の主があまりにも美しすぎるのが問題であった。
ただ、それでも部屋の主は、和服の女性を見やると、顰められていた顔を大きく緩ませて笑った。
「ありがとう」
そうお礼を言って、部屋の主はティーカップを左手で取った。
部屋の主の左手の薬指には銀色の指輪が嵌められ、同じデザインの指輪を和服の女性もやはり左手の薬指に嵌めている。
「左手を使うのんは珍しいなぁ」
和服の女性は笑いながら、背面の尻尾をゆらりゆらりと揺らしていた。
和服の女性も部屋の主と同じく尻尾を持っていた。
その尻尾の数は五本であり、その色は髪と同じ水色だった。加えて和服の女性の頭の上にも、髪と同色の立ち耳があった。
「ん~? 今日はそういう気分なだけだよ」
「そう? ならええけど」
くすくすと和服の女性が笑う。和服の女性は、とても幸せそうに笑い、その笑みを見て部屋の主もまた嬉しそうに笑っていた。
「で、どうだったん?」
「うん?」
「いや、「うん?」やのうて。ヒナギク様とお話できたんやろう?」
「……できたと言えば、できたかなぁ」
「あら? なにやら不満そうやな?」
「そりゃねぇ。催眠状態にさせながらだもの。全然楽しくなかった」
部屋の主はいかにも不満げに、顔をこれでもかと顰めていた。
「あらら」と和服の女性は頬を搔きつつも、部屋の主の背後に回り、その両肩に手を置くと、ゆっくりと肩を揉み始める。
「ほんまにお疲れやす」
「……うん、ありがとう」
和服の女性が肩を揉み始めたことで、部屋の主は大きく息を吐く。
それまでのしかめ面から、いまにも寝てしまいそうなほどにその顔は蕩けたものへとなっていく。
「ねぇ、私はどれくらい飛んでいた?」
「ん~。一時間くらい?」
「そう。体感時間と同じかぁ。となると、あっちで一日過ごしたら、こっちでも一日過ぎるのかな?」
「そんなんになるねぇ。ようわからへんけど」
「まぁ、私の能力だからねぇ。さすがの君でもわからないと思うよ?」
「そうやな。さすがに時間移動については門外漢やわぁ」
和服の女性は、申し訳なさそうにしていたが、「でも」とにんまりと口元を歪めると、部屋の主に抱きついたのだ。
「最愛の旦那はんについては、一番の専門家やけどなぁ?」
そう言って、和服の女性は、部屋の主の頬に口づけをしたのだ。
部屋の主は、和服の女性の行動に顔を真っ赤に染めた。
「……いきなり、なにすんのさ?」
部屋の主は、頬を染めながら、和服の女性を睨む。
睨んではいるのだが、まるで小動物が必死に威嚇しているかのようで、誰の目から見てもかわいらしいとしか思えなかった。
「ん~? お疲れ気味な旦那はんを、いろんな意味で癒やしたろうかなぁ思いまして」
「い、いろんな意味って」
「そう、いろんな意味やわぁ」
にまにまと楽しそうに笑う和服の女性。その口元はいわゆる「猫口」となっており、部屋の主をからかっていることは明らかであった。
部屋の主は耳まで真っ赤になりながらも、「……いい度胸だねぇ?」と和服の女性を睨み付けると、瞬く間に和服の女性を抱きかかえた。
部屋の主に抱きかかえられた和服の女性は、慌てることなく、部屋の主にしがみついた。
「そこまでやったんだから、覚悟できているよねぇ?」
「……お疲れ気味な旦那はんを癒やしたい言うたわぁ」
「……かえって私が疲れるだけじゃん」
「そうとも言うなぁ」
「それしか言わないってば。まったく。……もうダメとか言われても止まらないからね?」
「……ほんでもええわ」
「本当にもう。……私のお嫁さんは困ったさんだよ」
部屋の主は、再び顔を真っ赤にしながら、執務机から仮眠用の部屋へと脚を向けようとした。そのとき。
「……ねぇ? お姉ちゃんたちのイチャコラを一部始終見せつけられたうえに、そのうえ放置プレイまでかまされそうになっている私がいる案件があるんですけど、この状況でどうしたらいいと思うって、全私内で絶賛会議中なんですけど?」
中央の来客用のテーブルに、いつのまにかひとりの女性が座っていた。
その女性は部屋の主によく似ており、髪は同じ銀髪で瞳も同じ紅、頭にはやはり髪と同じ色の立ち耳、背面にも同色のふさふさの尻尾があった。
ただ、部屋の主と比べると、いくらか年齢は下で髪も長いが、部屋の主とは違い、ルーズサイドテールにしていた。
部屋の主が二十代後半とすれば、テーブルに座る女性は二十歳前後くらいの女性であった。
その女性は来客用のソファーに脚を組みながら座ると、部屋中にある本のひとつを片手に読んでいた。
「いたの?」
「いたよ?」
「いつから?」
「お姉ちゃんが起きたときからずっと」
「……それ全部って言わない?」
「だから、一部始終って言ったよ?」
やれやれとルーズサイドテールの女性は、読んでいた本を閉じた。閉じた本には「海王国の歴史」というタイトルが書かれていた。
ルーズサイドテールの女性は、そのタイトルをそっと撫でつけながら、目をわずかに細めていた。
「その本、あげようか?」
「……いい。目についたから読んでいただけ。それに読みたいところは、もう読んだし」
「そう。なら、いい。でも、読みたくなったらまた読んでいいよ」
「……気が向いたらね」
ルーズサイドテールの女性は、そっとテーブルに「海王国の歴史」を置くと、ソファーから立ち上がった。
「それよりも、イチャコラはいいけれど、伝令」
「ん?」
「魔王陛下がお呼びです。ただちに謁見の間にお越しください、代理殿」
「……了解したよ。というわけで、ごめんね」
「ええよ。気にせんと」
「……ごめんなさい、義姉さん。せっかくのイチャコラをお邪魔しました」
「気にせんといて。それよりも」
和服の女性は、じぃとルーズサイドテールの女性を覗き込むように見つめた。ルーズサイドテールの女性は「……なに?」と居心地悪そうな顔をしていた。
「昔みたいに「お姉ちゃん」って呼んでほしいなぁ」
「……私ももう子供じゃないので」
「そう? うちにとってはあの頃と変わらへんけどなぁ。かいらしい妹分のまま」
ふふふ、と和服の女性は笑う。その笑みにルーズサイドテールの女性は顔を背ける。
「……かわいくなんか、ないよ」
「そう? かいらしい思うけどなぁ。またあの頃みたいな笑顔を見たいわぁ」
「……笑顔なんて、忘れたよ。そんなもの、なんにもならないもん」
ルーズサイドテールの女性は、天井を見上げた。天井を見上げる目はひどく虚ろとなっていた。
虚ろな瞳と同じで、女性の顔には一切の表情がない。まるで精巧な人形のようであった。
女性の様子に部屋の主と和服の女性は、揃って痛ましそうに顔を歪めていく。
「……とにかく、伝令はしたよ。またね、お姉ちゃん」
ルーズサイドテールの女性はそう言うと、足早に部屋を出ていった。
静かに閉じられたドアをふたりはじっと見つめていた。
「……とりあえず、お呼び出しを受けたし、行ってくるね」
「うん。頑張ってね。旦那はん」
「はいはい」
部屋の主は、和服の女性を下ろすと、身支度を始める。その身支度を和服の女性は手伝っていく。
数分後、部屋の主は身支度を調えると、和服の女性に「行ってきます」と言って、部屋を出た。
部屋を出ると、長い廊下と真っ赤な絨毯、高い天井と、そこから差し込む太陽の光が、部屋の主を待ち受けていたように飛びこんでくる。
「眩しいなぁ」と呟きつつ、部屋の主は長い廊下を一人歩いていった。
その足取りはいくらか軽く、鼻歌交じりだった。そんな部屋の主の姿に、行き交うメイドなどの使用人たちが見かけ、誰もがおかしそうに笑っていた。
が、笑われていることに気づくことなく、部屋の主は楽しげに歩いて行った。
「さぁて、なんのご用命なのかなぁ」
ふふふ、とやはり楽しげに言う部屋の主。その顔は満面の笑みに染まっていたのだった。




