Ex-60 また話をしようね
水の流れる音がした。
ゆっくりと流れていく水の音。捻られた蛇口から流れる水は、柱のようにまっすぐにシンクへと吸い込まれていく。
シンクへと吸い込まれた水は、今度は少し大きめの音を立てて排水溝へと呑み込まれていく。
蛇口を閉めていないため、蛇口の水は次々に排水溝へと注がれていた。
だが、そのことをヒナギクは気にも留めていないようだった。
普段のヒナギクであれば、すぐにでも蛇口を閉めるであろうはずなのに、いまは蛇口が開きっぱなしであるのに、フィナンをまっすぐに見つめていた。
フィナンを見やるヒナギクの目は、普段とは違い、ぼんやりとしていた。
ぼんやりとしているのは目だけではなく、その口調も普段のハキハキとしたものではなく、気の抜けたような声になっていた。
まぁ、そうなるよねとフィナンは口元に笑みを浮かべながら思っていた。
「とりあえず、座りましょうか、ヒナギクさん」
「……そう、だね」
「あぁ、そうだ。蛇口を閉めておきますね」
「うん、ありがとう」
ヒナギクはフィナンの言葉に素直に頷き、普段のヒナギクが座る席へと腰掛けていた。
ヒナギクが座るのを確認してから、フィナンは蛇口を閉めた。
現実世界ならともかく、この世界では蛇口を開きっぱなしにしていても問題はない。
それでもなお、蛇口を閉めたのは、もう蛇口を開けている理由がないためであった。
ニコニコと笑いながら、フィナンは「さてと」と言って、ヒナギクの対面に腰掛ける。
ヒナギクの目は相変わらずぼんやりとしていた。
フィナンを見やりながらも、フィナンに焦点を当てているわけではなかった。
試しにヒナギクの視界で、手を振るもヒナギクの視線がフィナンの手を追うことはない。
まずまずだなとフィナンは笑みを深めた。
「そういえば、ヒナギクさん?」
「なに?」
「私が誰なのかはわかる?」
「……フィナンちゃん」
「あぁ、やっぱりその認識なんだ? まぁ、当然だよねぇ。私とは会ったことなかったもんなぁ」
やれやれと溜め息を吐きながら、肩を竦めるフィナン。
肩を竦めながらも、フィナンは少しだけ寂しそうに笑う。
が、その笑みもすぐに引っ込み、フィナンは不敵に笑っていく。
「……まぁ、私のことはどうでもいいか。いまはヒナギクさんたちのことですよね」
フィナンはトントンとテーブルを叩く。
その音に反応して、ヒナギクが焦点をフィナンに合わせていく。
焦点が合っているものの、ヒナギクがフィナンを見る目にはなんの感情も彩られていなかった。
その目は茫洋としており、フィナンどころか、その瞳にはなにも映っていない。
そのことを改めて確認し、フィナンは少しばかり表情を歪める。
が、すぐに息を吐ききり、再び笑みを浮かべた。
「最初に言っておきます。あなたはいまの状態になってからの出来事はすべて忘れます。あなたがどんな想いを抱いているのかを吐露したことも、そしてその吐露した想いに向き合ったかも忘れます」
「……うん」
「よろしい。では、ここからは口調を変えさせて貰うね?」
「うん、いいよ」
「うん。ありがとう。……本当ならあのバカ姉がどうにかする案件なのだけど、今回ばかりは私がどうにかしないといけないっぽいし。……本当にあのバカ姉はどこほっつき歩いているんだか。私にも仕事があるってのに」
ぶつぶつとフィナンは溜め息を吐いた。フィナンの口調は普段のフィナンとはやや異なるものだった。
が、フィナンは気にすることなく、ヒナギクを見やりながら続けていく。
「で、本題だけど、ヒナギクさんはタマモさんがマドレーヌさんと話しているのを見て、気付いちゃったんでしょう?」
フィナンが口にした内容に、ヒナギクは静かに頷いた。
「……気付いたってわけじゃない。姉様と重なって見えただけ」
「それを気付いたって言うと私は思うけどねぇ? まぁ、ヒナギクさんにしてみれば、「姉様」と呼ばれるタマモさんを見て、自分と重ねてしまったってだけなんだろうけれど」
「……でも、タマちゃんと姉様は違うよ」
「そう? 私が知る限り、あの人の「姉様」モードと素のあの人ってそこまで変わらないよ?」
「そんなことは」
「いや、あるってば。何十年か前に、一度してもらったことがあるけれど、ほぼほぼ変わらなかったし」
「……え?」
「あ、いや、こっちの話だから気にしないで」
あははは、とフィナンは笑う。笑いながら、「ヤバ、つい言っちゃった」と頬を搔くフィナン。
頬を搔きながら、焦っているのか、それまでとはフィナンの様子が変わっていく。いや、変わるのは様子だけではなく、その見目も徐々にうっすらと変わっていった。
薄茶色の瞳は赤みを帯び、髪の色もどういうわけか白く脱色され、背中にある二本の尾もひとつに重なっていった。
「あ、まずい、まずい、まずい」
フィナンは慌てた。慌てながら引き締めるように、「ふん」と力を込めると、フィナンの見目は元通りに戻っていく。
「あー、危なかったなぁ」
ほっと一息を吐きながら、フィナンは後頭部を掻きむしる。
「……この体、都合はいいんだけど、使いづらいなぁ。ついでに思想もわりかし危険だし。いい子風な見た目をしているのに、なに、この腹黒っぷりは。ぶっちゃけ怖いよ、マジで。私相手でも意識を引っ張ろうとしているし。無意識でそれって怖すぎだよ」
ぶつぶつとフィナンはまたもやぼやくが、その内容を聞いてもヒナギクはぼんやりとフィナンを見つめている。
ヒナギクの視線に気づいたフィナンは、「ああ、いや、大丈夫。こっちの話だからね?」と取り繕った。
ヒナギクは「……そう?」と首を傾げているが、すぐに「わかった」とだけ頷いたのだ。
ヒナギクの返答にフィナンは胸をなで下ろしながら、ほっと一息を吐くと、「じゃあ、続きだね」と佇まいを直した。
「ヒナギクさんが認識する「姉様」がどういう振る舞いをしているのかはわからないけれど、私が知っているタマモさんは、マドレーヌ、いや、マドカさん相手に同じ振る舞いをしているよ? それはこの時代でも変わらないみたいだけど」
あっさりとフィナンはヒナギクの言葉を否定する。
ヒナギクは「でも」と納得していないのか、不服そうに首を振っていた。
「……まぁ、言いたい意味もわかるよ? 私も子供の頃は厳しく指導されたしなぁ。でも、その厳しい指導はヒナギクさん譲りなんでしょう? タマモさんが以前に言っていたし」
「タマちゃんが、指導?」
「あぁ、そのことは気にしないでいいや。少し先の話だもの」
「……うん、わかった」
「ありがとう。それで私から言いたいことなのだけど、ヒナギクさんの言う「姉様」とタマモさんは同一人物だってことなんだよ。まぁ、タマモさん自身が、このときは気づいていなかったって言っていたから、ヒナギクさんが気づいていなかったというのもわかるんだけどね」
「このとき?」
「うん。このとき。いまはわからないと思うけれど、そう遠くないうちにわかると思うよ? えっと、たしかいまが、ふたりが十三、四歳だったっけ? であれが、十六、七? あ、いや、十八歳になる頃だったっけ? とりあえず、最低でも三年くらい先のことだから、いまは気にしないでね?」
「……よくわからないけれど、わかった」
「ごめんね。本当はいろいろと話したいところなのだけど、私だとできるのはここまでだからさ。あのバカ姉であれば、もっと根本的なところまで触れられるのだけど、あのバカ姉、本当にどこほっつき歩いているんだか。私とヒナギクさんじゃ、繋がりが薄いってのわかっているはずなのになぁ」
本当に困ったものだよ、と呆れるフィナン。そんなフィナンをヒナギクはじっと眺めながら、「ねぇ」と声を懸ける。
「うん?」
「……フィナンちゃんのお姉さんって、どんな人?」
「あぁ、あれのこと? ん~。そうだなぁ。どこまで言っていいのやら。まぁ、いいか。えっとね。パパたち曰く、ツンデレさんだね。実際、パパ相手にはとんでもなくツンデレだもの。もっと素直に甘えればいいのに、立場とかあるからなのかなぁ? ツンケンしすぎているんだよねぇ。だから、私や妹たちが甘えていると、すぐに不機嫌になって、本当に困った姉なんだ」
くすくすとフィナンは笑う。笑っているが、その声は本来のフィナンのものとは違い、大人びたものへと変わっていく。
同時に、フィナンの背後に、いや、フィナンに重なるようにして長身の女性の姿が見え隠れしていた。
ヒナギクの目は自然と、フィナンの背後で見え隠れるする長身の女性へと注がれていた。
「フィナンちゃん、後ろに誰かいるよ?」
「……え? あ、ヤバい! 実体出ちゃっている! この時代のばぁばに気づかれる!」
フィナンは慌てた。慌てながら、再び気を引き締めると、フィナンの背後で見え隠れしていた長身の女性はふっと消えてなくなった。
「……むぅ、これ以上の接触は控えておこうかなぁ。あのバカ姉だけじゃなく、私もヒナギクさんとも話がしたかったんだけど、まぁ、この時代じゃ無理だよねぇ」
やれやれと溜め息を吐くフィナン。その顔はいまにも泣きそうな表情に変わっていった。
「とにかく、今日はここまでにするね。そのうちまたお話ししよう。いいよね?」
フィナンは笑う。いや、フィナンだけじゃなく、その背後で見え隠れしていた女性も笑っていた。
「……あなたはフィナンちゃん、なの?」
「ありゃ、まぁた出ちゃっているなぁ。まぁ、今日のところはこれで終わりだからいいや」
困ったなぁとフィナン、いや、背後の女性は笑っていた。笑いながら女性はヒナギクの問い掛けに答えた。
「私はフィナンじゃないよ。まぁ、この体の持ち主はフィナンだけど、いまこの体を使っているのはフィナンじゃないからね」
「……どういうこと?」
「本名を名乗ってもいいんだけど、パラドックスっていうのが起こりそうだからなぁ。ん~。えっと、たしかぁ。あぁ、そうだ。うん、これで行こうかな?」
「なにを言っているの?」
「ん~、名前のことだよ。私の名前はセイリオス。このフィナンって人の体を一時的に使わせてもらっているよ。でも、いまは憶えてなくていいよ」
女性ことセイリオスは、フィナンの体を操りながら、ヒナギクへと向けて右手を伸ばすと、指を鳴らした。
その音とともにヒナギクはまぶたを閉じ、テーブルにゆっくりと伏していく。
「おやすみ。また今度お話しようね、ノゾミママ」
くすくすと笑うセイリオス。そのセイリオスが繰るフィナンの体もゆっくりとテーブルに伏していった。
同時に、セイリオスはフィナンの体に重なり、その姿をふっと消した。
残るは静かな寝息を立てるヒナギクとフィナンだけ。
それ以外の物音は、外で先ほどまでと同じように騒ぐタマモたちの声だけだった。




