40話 溺れゆくとき
二又の尾がゆらゆらと揺れていた。
黒みが掛かった緑色の尾が、目の前でゆらゆらと揺れている。
普段なら垂れ下がっているはずの尻尾が、いまは尻尾の持ち主の感情を表しているかのように、激しく逆立っていた。
まさに「私は怒っています」と言わんばかりの態度である。
それこそ逆立った尻尾で、いまにも地面をドラミングしそうだ。
そんな尻尾をタマモは見やりながら、小さな体をより小さく縮ませていた。
「──まったく、もう」
鼻息を荒くして、不満げな声を漏らすのは、アンリ。
タマモの最初の世話役であり、「武闘大会」の優勝を目指した切っ掛けとなった少女にして、エリセと並んでタマモの最愛の女性のひとり。
そのアンリはいま非常に不機嫌そうな声を漏らしながら、タマモと供に畑仕事を行っていた。
上衣をたすき掛けし、腰ほどまである長い髪を、尻尾と同色の、黒みが掛かった緑色の髪を上の方で纏め上げながら、アンリはぶつぶつと文句を口にして農作業をしてくれていた。
タマモはそんなアンリを後ろから眺めながら、供に農作業を行っているものの、アンリは不満を口にするだけで、それ以上のことをなにも言っていない。
というよりもだ。
農作業が始まる前から、アンリはタマモに必要以上の言葉を投げ掛けていないのだ。
そうなったのもすべてはタマモに原因がある。
アンリがフブキとともに外出している間に、もうひとりの世話役であるエリセとそういうことをしてしまっていたのだ。
しかも、アンリが帰ってくるのに気付かずに、そういうことをし続けてしまったのだ。
結果、アンリの怒りを買うことになったわけである。
タマモはアンリとも閨を供にする関係ではある。
どちらか一方だけという偏りが出ないように、誘う頻度に関しては注意を払っているほどだ。
が、今回に限って言えば、たまたまアンリがおらず、エリセだけだったため、エリセを誘っただけのこと。
それ以上の意味はなかった。
そう、なかったのだが、アンリは怒りに怒ってしまっていた。
いつもであれば、次に誘うべきなのはアンリだったのだ。
前回はエリセを誘ったため、順番的に言えば次はアンリを誘うべきだった。
なのに、アンリではなく、連続でエリセを誘ったこと。そのことにアンリは怒ってしまっているわけである。
決してアンリを蔑ろにしているつもりはないし、アンリよりもエリセに情を向けているというわけでもない。
若干の不誠実さを感じつつも、タマモとしてはアンリもエリセも等分の愛情を向けているつもりである。
が、今回ばかりは単純に運が悪く、アンリの番をすっ飛ばしてエリセを誘ってしまったというだけのことである。
それだけのことであるのだが、アンリ当人にとっては、「それだけのこと」とは言い切ることはできなかった。
そのことはタマモも痛いほどに理解している。
理解しているが、今回ばかりは決して悪気があったわけではないのだ。
しかし、悪気があろうとなかろうと、順番を無視してしまったことは事実であるし、アンリが帰ってきたことに気付かずに続けてしまっていたこともまた事実なのだ。
ふたつの相乗効果によって、アンリの機嫌は非常に悪かった。
そのことをタマモは理解しているがゆえに、アンリになにも言うことができないまま、黙々とルーチンワークをこなしていた。
なお、本来であればログイン限界を超過しているはずの時間帯に農作業を行っているという状況を怪しまれないために、タマモは「幻術」を用いて透明化している。
透明化したことで、ぱっと見ただけでは、アンリがひとり黙々と農作業をしているように見える。
……見えるのだが、よく見れば誰もいないはずの場所が、ひとりでに耕されているという怪奇現象ばりの光景が繰り広げられていた。
だが、この時間帯にログインしているファーマーたちは、自分たちの作業に集中しているため、怪奇現象ばりの光景に気付く素振りもない。
たまに違和感に気付くファーマーもいるものの、見間違いかなにかかと思い、すぐに目を逸らして自身の作業に没頭していた。
結果、誰の目にも捉えられることなく、タマモはアンリとともに気まずい空気の中での農作業を行っていたのだ。
その農作業だが、ひとりでも行えることをふたりで行っているため、あっという間に今日のルーチンは終了した。
「……お疲れ様、アンリ」
「……はい。お疲れ様です」
たすき掛けと束ねていた髪を解くアンリに声を掛けるタマモ。
アンリは声を掛けられても、相変わらず憮然とした表情を浮かべている。
アンリの雰囲気に居たたまれなくなるタマモ。が、アンリは気にすることなく、「ふんだ」と言ってずんずんと本拠地へと向かっていく。
その後をタマモは付き従うように、おずおずと着いていく。
まるで浮気がバレた夫のような光景であった。
そんな光景だが、「幻術」の効果中なため、周囲のファーマーはタマモがいたたまれなさに苛まされていることに気づくことはなかった。
なんとも言えない微妙な空気のまま、タマモはアンリとともに本拠地内へと入っていた。
本拠地内には誰もいなかった。
あえて言えば、ヒナギクとレンがログアウト中であることくらいだろう。
アンリを怒らせた原因であるエリセは、従者であるフブキとともに農業ギルドの宿泊施設にいる。
理由は単純で、エリセに無理をさせすぎたからである。
途中からはもはやタマモにされるがままになっていたエリセ。当然、そこまでされれば、支障のひとつやふたつは出るものである。
はっきりと言えば、軽微な腰痛になってしまったのだ。
重度ではないものの、動きがかなり緩慢になっていたエリセ。
そのままで、農作業等などできるわけもなく、あえなくフブキに連れられて農業ギルドの宿泊施設送りになったのである。
なお、その際、エリセは「旦那様がすごすぎて」と余計なことを言って、アンリの怒りをより増長させてしまっていたのだが。
ちなみにだが、アンリの怒りの矛先はエリセにも向いていたが、当のエリセは「旦那様に求められて応じないなんてありえない」と言い切り、アンリの怒れる視線をあっさりと受け流していた。
怒れる嫁に勝てるのは、同じく嫁の立場の存在だけなのだろうか、とタマモが思ったのは言うまでもない。
とにかく、エリセが不在であるのはそういう理由である。
本拠地内にはタマモとアンリしかいない。発端となったエリセを誘ったときのようにだ。
だが、そのときとは違うのは、アンリは怒っているということである。
誘ったときのエリセは若干の困惑を見せていたものの、怒ってはいなかった。
が、いまのアンリは非常に不機嫌である。
この状態で誘うなんてのは、さすがにありえないというか、ダメだろうとタマモは思いながら、どうやって機嫌を直すべきかと思考を巡らそうとした、そのとき。
「……旦那様」
不意にアンリが声を掛けてきたのだ。
「なに?」と返事をするのと、アンリが自身の服に手を掛けたのはほぼ同時だった。
タマモの目に映ったのは、いつもの丈の短い巫女服を着崩して、頬を赤らめたアンリの姿だった。
「……アン、リ?」
タマモは思考を固まらせながら、アンリの名を紡いだ。
当のアンリは恥ずかしげにタマモに肌を見せながら、ぽつりと呟いた。
「エリセ様だけは、ずるいです」
頬どころか、頭の上にある立ち耳さえも真っ赤に染めながらアンリは言った。
言葉を捉えるだけでは、アンリがなにを言いたいのかはわからない。
だが、現状を踏まえれば、アンリがなにを言いたいのかは明らか。
アンリなりのお誘いであった。
根が引っ込み思案なアンリにしては、最大限の努力の結果。その姿にタマモは堪らないほどの愛おしさを憶えた。
「……わかった」
タマモはただ一言だけ口にすると、アンリの手を取り、自室へと向かった。
ほどなくして、パタンという小さな音が静かな本拠地内で響く。
次いで、ドサッという重めの音が響く、続いて水音のようなものとくぐもった声が聞こえた。
水音とくぐもった声は、いつまでも本拠地内でこだましていったのだった。




