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37話 怒りを力に

 現実に戻ると、すでに日は暮れかかっていた。


 窓の外から差し込むのは、優しい夕焼けの光。


 夕焼けの光は、円香の部屋の中をオレンジ色に染めていた。


 オレンジ色に染まった部屋の中はまるで燃え盛っているかのよう。


 激しく燃え盛る炎ではなく、静かに燃える炎。


 だが、静かに燃えているからと言って、温度が低いわけではない。


 赤く燃える炎は、実際のところ温度としては低い。


 かといって、部屋の中を染めるオレンジ色というわけでもない。


 円香の心に宿った炎の色は青。


 白を超えた、もっとも熱い炎の色。青の炎がいま円香の胸には宿っていた。


 だが、宿っていても、その炎は静かに燃えていた。


 決して燃え盛っているわけではない。


 静かに燃えていたのだ。


「……スカイ、ディア」


 口の中で決して忘れまいとする名前を口ずさむ。


 その瞬間、青の炎が勢いよく燃えていくのを円香は感じた。


 胸の内に宿った炎は、円香の身を焦がさんとばかりに燃えていく。


 が、あるところで、円香は息を吐いた。


 心の内で燃える炎を抑制するために、怒りに我を忘れないために。


 なによりも、炎を消さないために。


「……怒りをコントロールすること」


 ぽつりと円香が呟いたのは、昔祖父に教わったことだ。


 祖父は言っていた。


 怒りの感情はとても強く、各上相手にも届きうるほどの力を与えてくれる、と。


 が、その分脆く、ゆえに危ういのだとも。そう教わったときのことを円香は思い出していた。


『よいか、円香。怒りのままに振るう刃は強い。だが、その分脆いのだ。言うなれば強さだけに配分をしてしまい、その他がおろそかになってしまっているのだ。ゆえに攻撃に転じているときは強いが、防御に回れば脆さを見せることになる』


 祖父は淡々とした口調で、円香をまっすぐに見つめていた。


 黒い瞳は茫洋としていた。


 いや、茫洋としていたのは祖父自身だった。


 それこそ風が吹けば、そのままどこかへと攫われてしまいそうなほどに、そのときの祖父はどこか弱々しそうに見えていた。


『神威流抜刀術の基本型は後の先を取ること。徹底的に固めた構えから、必殺の逆撃を放つこと。それが神威流抜刀術の基本にして要である。それゆえに我らが流派と怒りは根本的に相性が悪い』


 祖父は続けながら、構えを取った。


 円香は「行きます」と言って、祖父に向かっていき、竹刀を振るった。


 その次の瞬間、円香の手からは竹刀が飛んでいた。代わりに目の前に祖父の竹刀が突き付けられていた。


 当時もいまも祖父の剣を目視することはできなかった。


 あまりにも速すぎる剣。


 それこそ閃光のような、日の煌めきのような一瞬の剣。

 

 それが祖父の剣であり、神威流抜刀術の当主の剣であった。


『いずれはおまえも放てるようになる。まぁ、おまえであれば、おそらくはわしとは違って、そこまで修行は必要なかろう。せいぜい十年もあればできるかな?』


『十年も掛かるの?』


『十年しかだ。本来ならそれこそ一生を懸けて極められるかどうかのものだ。素質があるものでそれだ。素質がなければ、一生を懸けたところでその入り口にもたどり着けん』


『そうなの?』


『そうだ。それをたった十年で極められるかもしれないのだ。それほどの素質がおまえにはある。本来なら剛毅のところに通わせたいところなんだがな』


 祖父は竹刀を引きながらため息を吐いた。その顔はひどく無念そうなものだった。


 剛毅。祖父が時折口にする人物。その名は神威流の使い手であれば、誰もが知っている。


 神威流宗家における中興祖にして、天下無双と謳われた鈴木剛毅。


 祖父とは年齢が近しいこともあり、若い頃はよく切磋琢磨したものだと祖父は語っていた。


 ただ、切磋琢磨したものの、一度も剛毅師に勝ったことはないと祖父は言っていた。


 よくても引き分けがせいぜいだったとも。


 それでも、祖父は剛毅師に対して、悪い感情を抱いてはいなかった。


 むしろ、どこか憧れのような感情を向けていたようだった。


 その剛毅師は、その頃にはまともに剣を握れなくなっていた。


 いや、それ以前に自身が誰なのかもわからなくなってしまっていたそうだ。


 剛毅師がそうなったのも、すべては奥方を亡くされてからだった。


 奥方を亡くされたことで、心因性の病を得てしまい、その結果自分が誰なのかも思い出せなくなってしまったそうだ。


 かつての天下無双も、庭先で日長一日ぼんやりとしていることしかできなくなった。


 そのことを祖父はいまでも残念に思っているようだった。


 人である以上必ず老いる。そしていつかは必ず死ぬ。


 体の中に血潮が流れる以上、その理から逃れることはできない。


 そればかりはどれほど強くなっても、どうしようもないことだった。


 人の世において、抗うことのできない最大の理不尽とも言えることだった。


『人の怒りは、常に理不尽に対してのものだ。だが、理不尽に対してそのまま拳を振るうのは、ただの獣のやること。人としてあるのであれば、その怒りを飼い慣らせ』


『飼い慣らす?』


『うむ。怒りを飼い慣らし、それを力に変えよ。だが、決して怒りに呑まれることないようにな。怒りに呑まれれば、それはそのまま獣に堕ちるということだ。ゆえに、円香。おまえは獣になるな。人として在り続けろ』


 祖父は笑っていた。笑いながら、頭を撫でてくれた。


 祖父の手は竹刀だこでごつごつとしていた。だが、その手が円香は堪らなく好きだった。


 だからこそ憶えている。


 祖父の言葉を。


 怒りを飼い慣らせという言葉を、いまでも円香は憶えている。


 会ったこともない相手。


 清香の記憶を改ざんした相手。


 スカイディア。


 その名を口にするたびに、怒りが沸き起こる。


 だが、怒りを沸き起こらせても、その怒りに突き動かされることはない。


 いや、突き動かされてはいけなかった。


 獣に堕ちてはいけないのだ。


 だが、獣に堕ちないためには、どうすればいいのか。


 祖父は飼い慣らせとかつて言っていた。


 では、その飼い慣らし方はどうすればいいのか。

 暮れなずむ夕日を眺めながら、円香はぼんやろと考えていた。


 が、答えは出ない。


 出ないのであれば、行動に出るしかなかった。


 円香は立ち上がると、そのまま部屋を出た。夕暮れの影響からか、家の廊下は少し鬱蒼としていたが、構うことなく階段を駆け下り、リビングを覗き込む。


 リビングではテーブルに突っ伏した父がいた。キッチンでは母が夕飯を作っている真っ最中だった。


「母さん」


「あら、おはよう、円香。ずいぶんとお寝坊さんね?」


 母はおかしそうに笑っていた。いつも通りの母であるが、父はどうにも様子がおかしい。


「父さん、どうしたの?」


「ん~。昼間から浴びるように呑んでいただけ。でいまは寝ちゃっているだけね」


「珍しいね?」


「そうね。でも、まぁ、こういう日もいいんじゃないかしら?」


 いびきを搔く父を見て、母はまたおかしそうに笑う。


 円香は「ふぅん」と頷きながら、リビングを見渡す。いるはずのない祖父がどこにも見当たらなかった。


「おじいちゃんは?」


「「少し体を動かしてくる」と言われていたから、たぶん道場じゃない? そろそろ夕飯ですよと呼んできて貰える?」


 母はリビングのソファーに置かれたタオルを指差した。呼びに行くついでにタオルを届けるようにということだった。


 円香は父が眠るソファーへ向かい、祖父へと渡すタオルを手にした。


 母は「お願いね」と言って調理に戻ったが、その母の背中にと円香は呟いた。


「……夕飯、たぶん遅くなるよ」


「え?」


「とりあえず、行ってくる」


「あ、うん」


 円香はそう言ってリビングを出ると、庭の隅にある道場へと向かった。


 道場と言っても極小規模のものであり、使うのも祖父と円香くらいしかいない。


 それでも祖父からの手解きを受けるには十分な広さはあった。


 その道場へと円香は向かった。


 その際、母は少し戸惑っていたが、円香は構わず道場へと足を向けた。


 そうして向かった道場では、祖父が竹刀を手にして構えていた。


 目の前には誰もいない。


 それでも、祖父は見えない誰かと対峙しているような気迫を纏っていた。


 だが、その気迫も不意に薄れ、祖父は竹刀を下げたのだ。


「起きたか、円香。ずいぶんとお寝坊さんだったな?」


 祖父は笑っていた。


 笑う祖父にタオルを差し出しながら、円香はじっと祖父を見つめた。


 すると、祖父の笑顔が忽然と消えた。


「……ふむ。怒りを飼い慣らそうとしているようだな?」


「わかるの?」


「うむ。さすがにどんな理由があるのかまではわからんがな。では、少し手解きと行こうか」


「お願いします」


「うむ。あぁ、だが、夕飯が遅くなることを」


「もう伝えてある」


「……ならば、問題はないな。竹刀を取り、構えろ」


「はい!」


 円香は祖父の言葉に頷き、壁に立てかけてある竹刀を取り、祖父の前で構えた。


「では、行くぞ」


「はい、お願いします!」


 祖父の言葉に力強く答えた。


 円香は竹刀を握りしめながら、祖父へと向かって行った。

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