35話 その名は
フクロウの鳴き声がこだましていた。
一定の間隔で鳴き続けているフクロウの声を、マドレーヌはどこかぼんやりとしながら聞いていた。
間近で交わされている会話とともに。
マドレーヌの目の前でタマモと焦炎王が語っているのは、クッキーの記憶の改ざんについてだった。
焦炎王自身ははっきりと「この世界の神々には、クッキーの記憶を改ざんする者はいない」と言っていた。
そう言われたときには、絶望の底に突き落とされたような気分だった。
事情通であろう焦炎王でさえも知り得ない相手。
そんな相手をどう探せばいいのか。
そして、その相手が施したであろう術から、どうやってクッキーの記憶を取りもどせばいいのか。
そんな後ろ向きな疑問から、マドレーヌは絶望へと陥っていた。
絶望していたからこそ、掴みかかる勢いで焦炎王に噛みついてしまっていた。
焦炎王自身は気にも留めていないことだろうけれど、マドレーヌは必死だった。
あなたが知らなければどうやってクッキーを元に戻せばいいのか。
いまにも泣いてしまいそうなほどの激情に駆られながら、マドレーヌは焦炎王に噛みついていたのだ。
だが、それもタマモによって、「姉様」と慕うタマモによって止められた。
止められたことで少しだけ冷静にはなれた。
でも、冷静になったところで、手がかりなんてなにもなくて、どうすればいいのかさえも、マドレーヌにはわからなかったのだ。
だが、それもタマモの一言で、明確な指標を得ることになった。
「──つまり、クッキーちゃんの記憶を改ざんしたのは、この世界の神々ではなく、別の世界の神だということですか」
タマモが口にしたのは、マドレーヌが思ってもいなかった内容だった。
そして、その内容に焦炎王も頷いたのだ。
同じ場所で、同じときに、同じ内容を聞いたはずだったのに、マドレーヌとタマモでは焦炎王の話の受け取り方がまるで異なっていた。
その事実に衝撃を受けつつも、マドレーヌは恐る恐るとタマモが口にした内容を反芻した。
「別の、世界の神?」
タマモは「別の世界の神」と言った。つまりは、「ヴェルド」とは異なる世界の神。「ヴェルド」以外の異世界の神の手によるものだ、と。
が、どうしてそういう結論に至ったのかは、マドレーヌにはわからなかった。
タマモは、マドレーヌと一緒に焦炎王の話を聞いていた。
その内容は一言一句変わらないはずなのに、どうしてタマモには、「姉様」にはその結論に至れたのか。
マドレーヌは状況が理解できず、困惑していた。
困惑するマドレーヌを見て、タマモは優しく微笑みながら、マドレーヌの頭を撫でつけてくれた。
「いいかしら、円香? 焦炎王様のお言葉をよく思い出しなさい」
「思い出す、ですか?」
「ええ。焦炎王様は仰っていたでしょう? 「この世界の神々にはいない」とね」
「……はい。でも、それは焦炎王様もご存知ではないということで」
「たしかにそう捉えることもできるわね。でも、実際はその逆ね」
「逆、ですか?」
「くり返すけれど、焦炎王様が仰られたのは、「この世界の神々にはいない」だったわ。円香が捉えたように「焦炎王様でもご存知ではない」という風にも聞こえるけれど、実際のところは「この世界の神々ではないが、違う世界の神ならば可能性はある」ということなのよ」
「そう、なんですか?」
タマモの説明に、マドレーヌは目を見開きながら焦炎王を見やる。焦炎王は腕を組みながら「相違ない」と頷いていた。
同じ話を聞いていたはずだったのに、こうも真逆に話を捉えていたことに、マドレーヌは驚きを隠すことができなかった。
驚くマドレーヌを見て、タマモも焦炎王も穏やかに笑っていた。
「まぁ、焦炎王様の言い方も悪かったとは思うけどね?」
「え?」
「だって、そうでしょう? 円香が勘違いしやすいような言い方だったもの」
タマモは肩を竦めながら、半眼で焦炎王を見やる。その目に焦炎王は困ったように笑っていた。
「そもそも、焦炎王様のご性格を踏まえたら、ご存知でないのであれば、はっきりと「知らぬ」と仰るわ。知らないことをあたかも知ったように振る舞われるような方ではないもの」
「言われて、みれば」
タマモの言い分には納得しかなかった。
まだ会ったばかりのマドレーヌでも、焦炎王が竹を割ったような人であることはなんとなく窺えていた。
タマモの言うように、焦炎王であれば、知らないことははっきりと知らないと言い切るはず。
なのに、焦炎王が口にしたのは「知らない」ではなく、「この世界の神々にはいない」であった。
言葉の意味をそのままで捉えれば、下手人がこの世界の神ではなく、異世界の神であると焦炎王が語ってくれているということに気づけたということだ。
そのことにようやく気づいたマドレーヌは、自身の言動を振り返って恥ずかしくなった。
「……申し訳ありません、焦炎王様。お言葉の意味を履き違えただけではなく、御身への無礼を働いたこと、ひらにご容赦を」
マドレーヌはその場で跪きながら、誠心誠意の謝罪を行った。
祖父に子供の頃から丁寧な言葉遣いについて学んでいた。
子供の頃は楽しかったけれど、成長するにつれて面倒だなぁと思っていたが、こうして思いがけないところで役に立ってくれた。
起きたら「ありがとう」ってお礼を言おうと、マドレーヌは思いながら、焦炎王と向き合っていた。
「いいのよ、円香。悪いのはぜーんぶ焦炎王様なのだから。人をからかうのが大好きなこの方が悪いのだからね?」
焦炎王と向き合っていると、タマモが助け船というか、苦情を焦炎王に対して告げていく。
タマモからの苦情を受けて、焦炎王は困ったように頬を搔いていた。
「そう言ってくれるな、タマモや。我とてかなりギリギリのラインを踏んでいるのだ」
「と言いますと?」
「「彼の方」については我が君からは手出し無用というお達しを受けている。ゆえに下手な発言は我らとてできぬのだよ。中間管理職ゆえの悲哀という奴さ」
困ったものだよとため息を吐く焦炎王。焦炎王の様子にタマモは同情するような目を向けていた。
「……その「彼の方」がクッキーの記憶を改ざんした、んですか?」
だが、焦炎王の様子は、マドレーヌには関係のないことだった。
マドレーヌは鋭い視線を焦炎王へと投げ掛け、焦炎王はマドレーヌの視線に小さくため息を吐くと、静かに頷いた。
「その通りじゃ。繰り返しになるが、この世界の神々が、我が君こと主神エルドが求める英雄候補たちに手を出されることはありえぬ」
「……はい」
「今回の記憶の改ざんはどう考えても、神々の手によるもの。でなければ、人の記憶など普通は改ざんできぬよ。それも英雄候補の記憶などな」
「……」
「だが、この世界の神々にとって、主神エルドが求める英雄候補に手を出すということはない。どれほど主神が英雄候補を求めているかをご存知だからな」
淡々といままでの事実を積み重ねていく焦炎王。その言葉をマドレーヌはタマモとともに黙って聞いていた。
焦炎王の話は徐々に佳境へと、マドレーヌの知りたがっている下手人──「彼の方」へと向かって集束していった。
「それでも、あえて英雄候補へと手を出したということは、この世界の神々の仕業ではない。別の世界の神の手によるものと考えるのが妥当であろう。そして別の世界の神々がわざわざ、よその世界の主神が手ずからに育てている英雄候補に手を出すはずもない。となると、じゃ。クッキーとやらの記憶を改ざんしたのは「彼の方」以外に考えづらい」
焦炎王の話は、あくまでも予測だった。だが、焦炎王自身は確信を抱いていたようだった。
その確信とともに焦炎王はその名を告げた。
「「彼の方」とは、主神エルドのご息女であらせられるお方。その名はスカイディア。こことは違う世界の「母神」と呼ばれるお方じゃよ」
焦炎王が口にした名前を、マドレーヌは口の中で反芻した。
決して忘れないとばかりに、その名を何度も何度も反芻していった。




