32話 食い違い
世界樹の葉が揺れていた。
天上から吹き込む風によって、揺れ動く世界樹の葉。
風の音と供に奏でられる音はとても聞き心地のいいもので、自然とメロディーを口ずさんでしまうほど。
そのメロディーに示し合わせたように、けたまましい蝉の声が聞こえてくる。
夏というには、まだいくらか早い時期であるのに、すでに気の早かった蝉たちが集まって、合唱を行っていた。
蝉たちの合唱の前では、いくら世界樹と言えど、葉の揺れる音はかき消されてしまうかと思ったが、世界樹の葉の音はかき消されることはなかった。
それどころか、蝉たちの合唱が、統一性がなく、騒がしいとさえ感じそうになる合唱が、葉の音によって不思議と一体感をかもちだしていた。
まるで世界樹の葉が揺れる音が、蝉たちにとっての指揮者であるようだ。
気分はさながら自然界のオーケストラのよう。そのオーケストラの聴衆になりながら、マドレーヌはひとり項垂れていた。
「……はぁぁぁぁぁぁ」
ひとり項垂れながら、長く重たい吐息をくり返すマドレーヌ。
その顔色は暗く、かなり落ち込んでいるものであった。
目尻には若干の涙が溜まっており、普段のマドレーヌには考えられない姿である。
マドレーヌがいまの状態になった理由。それはひとえにクッキーとの関係がおかしなものへとなっているからであった。
「……憶えてない、とか、そんなのありぃ~?」
がくりと肩を落とすマドレーヌ。
そう、クッキーとの関係が変化したのは、先日の事件が切っ掛けであった。
ただ、切っ掛けではあるのだが、問題なのは当のクッキーが先日の事件を忘れてしまっているといことなのだ。
とはいえ、すべてを忘れているというわけではなく、記憶が書き換えられているというか、マドレーヌの憶えている事件とは別物に置き換わっていたのだ。
曰く、いつものようにケンカをした結果、湖までの徒競走で決着を着けることになり、同時にゴールしたまではいいものの、クッキーが誤って足を滑らせて湖に落下してしまう。
マドレーヌは慌ててクッキーを助けようとしたが、そこに件の巨大イカが現れて、クッキーを湖底へと攫おうとしたという。
その後のことはクッキーはいまいち憶えていないものの、マドレーヌが頑張って助けてくれたことは憶えているそうだ。
クッキーの口から語られた内容は、マドレーヌにとっては、まさに寝耳に水というところであった。
クッキーがなにを言っているのか、さっぱりとわからずに呆然としていると、当のクッキーからは頬を染めつつ、「ありがとう」と言われたのだ。
マドレーヌは状況を理解できぬまま、「え、あ、うん」となんとも言えない返事をした。
そんなふたりの様子にユキナとフィナンは手を叩いて喜んでいた。
曰く、「これでようやく冷戦が終わりだねぇ」や「また昔みたいに仲良くできるね」など。ふたりはいくらか態度が軟化したクッキーを見て、喜んでくれていた。
が、当のクッキーは「別に絆されたわけじゃないし。ただ、お礼は言っておくべきかなって」といかにもなツンデレっぽいセリフを口走っていた。
テンプレートな反応を見せるクッキーを見て、フィナンもユキナも「素直じゃないなぁ」と弄り、その言葉にクッキーが過敏に反応していた。
その光景はある意味夢のようなもの。
かつての光景とは違えど、いがみ合うことが多かった以前よりも、はるかに改善された光景であった。
だからこそ、気味が悪かった。
もっと言えば、得体の知れない気色の悪さをマドレーヌは感じていた。
だが、それを口にすることは叶わず、マドレーヌは当たり障りのない反応をすることしかできなかった。
当たり障りのない反応をしたのは、そのときだけではなく、それ以降もだった。
いったいなにがあったのか。
そのことばかりを考えていると、自然と当たり障りのない反応をしていたのだ。
さしものユキナたちも、マドレーヌの変化には気づけなかったようで、かつてのように四人で仲良く過ごしていった。
そうして気付けば、あっという間にユキナたちのログイン限界は訪れた。マドレーヌもユキナたちに合わせてログアウトをした。
ログアウトをしなくてもよかったのだが、そろそろお手洗いに行きたくなっていたので、いったんログアウトをすることにして、その数分後に再び「ヴェルド」に戻ってきて、いまに至っていた。
「……はぁぁぁぁぁ、いったいなにがあったっていうの~?」
イチャイチャとまでは言わないものの、もう少し。
そう、もう少し、こう親密になれると思っていた矢先に、まさかの記憶がねつ造されているというショッキングな事実にマドレーヌは打ちのめされてしまったのである。
なんで記憶がねつ造されてしまっているのかは、マドレーヌにもわからない。
マドレーヌ自身も、自分の身に起きたことはすべて理解しているわけではない。
それでもすべてを理解できなくても、ある程度のところまで理解しているつもりではあったのだ。
が、今回のことはそのすべてを否定するようなもので、マドレーヌの心を痛めつけるも同然の内容であった。
いったいなにがあって、こうなっているのか。
マドレーヌにはさっぱりと理解できない。
この件に関しては、土轟王にとっても想定外だったようで、主神エルドに確認を取ると言っていた。
ヨルムもまたヨルムなりに、いろいろと調べてくれるそうだった。
が、ふたりがそれぞれに動くということは、マドレーヌの話を聞いてくれる相手が居なくなってしまうということでもあった。
それでも手を拱いているわけにはいかず、マドレーヌはふたりに今回の件についての確認をして貰い、その間にマドレーヌも心当たりを探るということになった。
が、心当たりを探ると言っても、具体的になにをすればいいのかがまるでわからない。
マドレーヌができたのは、ひとりため息を吐きながら、天然のオーケストラの聴衆になることだけだったのだ。
そうして聴衆になっていったいどれだけの時間が過ぎたのかの見当もつかなくなっていた。加えて、どれほどまでに重たいため息を吐いたのかもわからなくなっていた。
「……どうすればいいんだろう?」
マドレーヌは今日何度目かのため息を吐いた、そのとき。
「ずいぶんと落ち込んでいるわね? 円香」
不意に影が差したのだ。ぼんやりと顔をあげると、そこには見慣れた顔が、敬愛する「姉様」であるタマモの顔があったのだ。
「ね、姉様?」
「ええ。お師匠様に呼ばれてね。ちょっと相手をして欲しいってことだったのだけど……ずいぶんと深刻な悩みのようね?」
気遣うような視線を向けてくれるタマモ。その言葉とそのまなざしに、マドレーヌの涙腺はあっという間に崩壊した。
「ね、姉様ぁぁぁぁぁ」
「あららら、相当に辛かったのね。よしよし、私はここにいるから、ね?」
マドレーヌは涙腺を崩壊させながら、タマモに抱きついた。
抱きついてきたマドレーヌをそっと抱き留めながら、タマモはマドレーヌの髪を優しく撫でつける。
その優しい手つきに、マドレーヌの涙腺はより崩壊する。
が、同じ崩壊でも、意味あいはまるで異なっていた。
さきほどまでの崩壊は悲しみが主であったが、いまの崩壊は安堵感によるものである。
マドレーヌが安堵したのがタマモのぬくもりを感じたからなのは言うまでもないだろう。
「わたし、わたしぃ、どうしたらぁぁ」
「……うん。ちゃんと全部聞くわ。だから、一から説明してちょうだい」
「はぃぃぃ」
「……もう返事をするのか、泣くのか、どっちなのよ。まぁ、いいけどね?」
くすくすとおかしそうに笑うタマモ。その穏やかで優しい声を聞きながら、マドレーヌは今日に起きたことを一からすべて説明していったのだった。




