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23話 風吹きすさぶ中で

 小さな手だった。


 世間的には子供として扱われる時分の、いまのマドレーヌから見てもその手は小さかった。


 その小さな手を握りながら、マドレーヌは遠ざかったはずなのに、まだ大きく見える滝を横目に幼くなった清香とともに見知らぬ土地を歩いていた。


 滝壺周辺の土地だからだろうか、地面はやけに柔らかい。


 おそらくは群生する背の高い木々から落ちた葉が、腐葉土となり、その腐葉土が積もりに積もっているのだろう。


 鍛え抜かれているマドレーヌでも、腐葉土の地面を延々と歩くのは少しばかり苦労してしまう。


 しかも、いまはその腐葉土の地面が斜面となってふたりに襲いかかっていた。


 さすがのマドレーヌも、若干堪えそうになるが、幼い清香が必死になって斜面を登っているのを見ていて、弱音を吐くわけにはいかなかった。

 

「清香ちゃん、大丈夫?」


「だいじょー、ぶ」


 肩を上気させる清香に、声を掛けるけれど、清香は気丈に振る舞っていた。


「そっか。でも、辛かったら言ってね、おぶってあげるから」


 マドレーヌはできる限り優しく清香に笑いかける。清香は汗だらけになった顔で「ありがとう」と笑い返してくれた。


 その笑顔はとてもかわいらしくて、とてもではないが、あのクッキーのかつての姿だとは思えないものであった。


 むしろ、どうしたらこれがああなるのかと思えてしまう。


 普段のクッキーは非常に口うるさく、なにかとマドレーヌに突っかかってくる相手だった。


 はっきりと言えば、若干うざったいと思える相手なのだが、目の前にいる清香からは、そんなうざったさは皆無である。


 うざったいどころか、そのか弱さはマドレーヌの母性本能をこれでもかと刺激し、庇護翼を加速させてくれる。


「本当になんでああなったんだろうなぁ」としみじみと思うマドレーヌ。


 目の前にいる清香のままで成長してくれれば、それこそお姫様みたいだっただろうに。


 そう、それこそ清香が言うように「王子様」になってあげても──。


「──王子様、か」


 不意に口から言葉が漏れ出した。


 マドレーヌ自身は、口にしたつもりはなかったが、その口からはっきりと言葉を発していた。


 その言葉に清香は「え?」と首を傾げていた。


「マドレーヌおねえちゃん、どうしたの?」


「え? どうしたのって、なにが?」


「いま、おうじさまって言っていたの」


「え? 私そんなことを言っていた?」


「うん。言っていたの」


「そ、そっか」


 参ったなぁとマドレーヌは空いている手で後頭部を掻きむしる。


 だが、清香はまっすぐにマドレーヌをじっと見つめていて、その純粋な視線にマドレーヌは答えを窮してしまう。


 そもそもの話、「王子様」と言ったつもりはなかったのだ。


 たしかに関連するようなことは考えてしまっていた。


 しかし、それを口にするつもりなどなかったのだ。


 なかったはずなのに、気付けば口ずさんでしまっていたようだった。


 それもよりにもよって、かつての清香の前でである。


「やっちゃったなぁ」と思いつつも、興味津々な清香を前にして、下手なごまかしはできなかった。


「はぁ」とため息を吐きつつ、このままでいるわけにもいかないよなぁと考えていると──。


「わ、すごい」


「え? あ、ほんとうだ。すごぉい」


 ──ふたりは揃って脚を止めた。


 ふたりが目にしたのは、一本の桜の古木であった。


 それも大木と言っていいほどに成長した、枝垂れ桜の古木である。


 幹は苔むしているものの、枝葉は力強く天に向かって伸びていて、季節からやや外れた花が満開に咲いていたのだ。


 満開に咲き誇る桜の花を、マドレーヌと清香は息を呑みながら、しばらくの間見つめていた。


「すごいねぇ、清香ちゃん」


「うん!」


 清香は目を輝かせて頷いた。


 その様子に頬を綻ばせるマドレーヌだったが、ふと桜の下にちょうどよさそうな岩が、腰掛けるにちょうどよさそうな岩が鎮座していたのだ。


「清香ちゃん、ちょっと休憩しようか」


「え、でも」


「そろそろ辛いでしょう? それにお姉ちゃんもちょっと休みたいところだから、付き合って欲しいな?」


 清香が限界だからというわけではなく、自分が休みたいから付き合って欲しい。言い訳としては若干下手だなぁと思ったが、清香は少し迷った後に頷いてくれたのだ。


「じゃあ、ちょっとだけ」


「うん。ちょっとだけ休もうか」


 ニコニコと笑いつつ、マドレーヌは清香の手を引いて、岩へと向かい、そっと腰掛けた。


 すると、待っていましたとばかりに、ふたりの間を涼風が通りすぎていく。


 汗ばんだ肌を撫でつける柔風が、とても心地よくて、ふたりは揃って目を細めながら、肺に溜まっていた熱い吐息を吐きだした。


「気持ちいいねぇ、清香ちゃん」


 通りすぎる風に髪を弄ばれ、マドレーヌはそっと髪を撫でつけながら、清香を見やると、清香はなぜかほんのりと頬を染めながらマドレーヌを見つめていた。


「……どうしたの?」


 小首を傾げると、清香は慌てて手をぶんぶんと振って「なんでもないの」と言っていたが、次第に声を落としていき、そして──。


「……マドレーヌおねえちゃん、きれいだなぁと思っていたの。おひめさまみたい」


 頬を染めて、人差し指を突きあいながら、清香は言う。その言葉に一瞬とあ然となるマドレーヌだったが、すぐに「ありがとう」と笑った。


 清香に笑いかける笑顔は、年上らしい実に余裕に満ちたものであったが、その内面は「なに、この子かわいい」と駆け巡る衝動と戦っていた。


 その戦いに終止符を打ったのは、いまのクッキーの、実にうざったそうな顔で「うざい」と言う言葉である。


 その言葉に百年の恋も冷めそうと言わんばかりに、マドレーヌは一瞬真顔になるも、依然として目をきらきらと輝かせてマドレーヌを見上げる、清香の笑顔で、その笑顔に再び衝動が駆け巡るが、どうにか自分を落ち着かせてマドレーヌは「こほん」と咳払いをした。


「私から見たら、清香ちゃんの方がお姫様だね。さながら私はお姫様を守る騎士ってところかな?」


 ふふんと胸を張りつつ、清香をベタ褒めするマドレーヌ。


 そんなマドレーヌに清香は、きょとんと目を瞬かせるも、すぐに笑っていた。笑いながら、清香は恐る恐ると尋ねてきたのだ。


「あの、マドレーヌおねえちゃん」


「うん?」


「さっき言っていた、おうじさまって」


「あー」


 話題をぶり返されて、マドレーヌはどうしたものかと頭を悩ますが、下手なごまかしはできないかと悟り、ため息とともに清香に告げた。


「……あのね、私も円香ちゃんみたいに、昔王子様みたいなことをしていたんだ」


「え? マドレーヌおねえちゃんも?」


「そう。私にもね、円香ちゃんにとっての清香ちゃんみたいな子がいたんだ」


 少し強めになった風に、髪を煽られながらマドレーヌは遠くを見つめる。いまだ大きく見える音のない滝をぼんやりと眺めながら、マドレーヌは続けた。


「でも、いまはその子とは疎遠、あー、ちょっと仲が悪くなっちゃってね」


「どうして?」


「どうして、か。どうしてだろうねぇ? 私にもわかんない。いつからか、あの子は私に守れられるだけじゃなくなってしまった。それどころか、私の前に立つようになって、私に口うるさくお小言を言うようになった。最初はそれも悪くなかったんだけど、いつからか、それがうざったく感じるようになったからなのかなぁ」


 どうして、と言われて、振り返ってみると、やはり理由はわからなかった。


 表面上の理由ならいくらでも挙げられるものの、感覚的に「そうじゃない」と思ってしまった。


 どうしてそう思うのかはわからない。


 だが、少なくともその程度の理由ではないとは思ったのだ。


 もっと根本的な理由があって、クッキーとの関係は昔とは異なる形に変化してしまっている、と思った。


 では、その根本的な理由とは、と考えるが、思い当たる答えはなにもない。


 吹きすさぶ風に弄ばれた木の葉のように、マドレーヌはいまの自分が頼りなく思えてしまった。


 そっとまぶたを閉じて、吹き続ける風を浴びていると、清香が躊躇いがちに口を開いた。


「あの、ね。マドレーヌおねえちゃん」


「うん?」


「わたし、なんとなく、おねえちゃんのいう、おひめさまさんのきもちがわかるきがするの」


「……え?」


 思わぬ答えを口にする清香に、マドレーヌはあ然となりながら、清香を見つめる。


 清香は「えっとね」と言葉を選びながら続けた。


「きっとね、マドレーヌおねえちゃんの、おひめさまさんは、まもられたままじゃいやだったんだよ」


 清香はマドレーヌをじっと見つめながら、自身の考えを口にしていった。

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