22話 心を込めた一言を
滝が降りそそいでいた。
まるで天から降りそそいでいるのではないかと思うほどに、見上げられないほど高所から滝は降りそそいでいた。
降りそそぐものの、滝の音はなぜかしない。見上げられないほどの滝であれば、相応の音がするはず。
それこそ大瀑布と言ってもいいほどの滝であれば、当然その音は大きいはずだった。
だが、いまその滝からは音がしない。
音がするとすれば、滝壺へと伸びる木々から滴る水の音くらい。
ぴちょん、ぴちょんと滝壺の水面を揺らす一滴の水。
本来なら、滝壺であれば、滝から降りそそぐ水で常に波打っているので、水滴程度が落ちたところで水面を揺らすことなどあるわけがない。
しかし、滝壺へと降りそそいでいても、滝壺の水面は揺れていない。
音もしなければ、水面も揺れない。
本当にこの世のものなのかと思ってしまう光景であった。
そのくせ、降りそそぐ勢いで空中へと跳ねた水滴によって、ところどころで小さな虹が形成されていた。
何重もの小さな虹が架かる様はとても美しかった。
そんな滝と滝が織りなす絶景をマドレーヌは横目で眺めながら、声をあげていた。
「ま、まどちゃーん?」
「まどちゃーん、どこー?」
マドレーヌは頬を引きつらせながら、かつての自身の渾名を呼んでいた。
その傍らで同じかつての渾名を呼ぶのは、どういうわけか出会った頃の姿になった清香である。清香はマドレーヌとは違い、必死な表情を浮かべて、かつての円香を見つけるべく、やはり必死に呼びかけを行っていた。
しかし、清香の必死さとは裏腹に返答はない。そもそもあるわけがないのだ。清香の探し人は隣にいるのだから、返答なんてあるわけがない。
が、いまの清香にそれを言ったところで意味はないというか、信じて貰えそうにない。
「なんであーしは、あーしを探してんの?」と現状の意味のわからなさに黄昏れたいマドレーヌであった。
だが、どれほど黄昏れたくても、隣の清香にとってはまさに死活問題であるため、下手な反応はできず、かといって手伝わないという選択も取れなかったため、こうしてマドレーヌは意味のない呼びかけを延々と清香とともに行っている。
「……いないねぇ」
呼びかけを始めて数十分。マドレーヌは額の汗を拭いつつ、隣の清香を見やる。
清香は真っ白なワンピースを身につけているのだが、そのワンピースの裾をぎゅっと握りしめながら、清香はほろほろと涙を零している。
清香の泣き顔にマドレーヌは慌てて、視線を合わせた。
「な、泣かないで、清香ちゃん。円香ちゃんは見つかるから。だから、ね?」
希望的観測にもほどがあることを自覚しつつ、マドレーヌは必死に清香を励ます。
「あーし、なに言ってんの、マジで」と内心でため息を吐きたくなるマドレーヌだが、いまは嘆くよりも清香を励ます方が先決であったため、後ろ向きな気持ちをぐっと堪えてどうにか笑顔を作る。
しかし、清香の涙はそれで止まるわけもなく、両手で目元を擦りながら泣きじゃくってしまった。
しゃくり上げながら、「まどちゃん」とかつての自身を呼ぶ清香に、なにを言えばいいのか、マドレーヌにはわからなくなってしまう。
かといって、なにもしないという選択肢などマドレーヌには存在しなかった。
「……大丈夫だから」
マドレーヌはそっと清香を抱きしめながら、手櫛で髪を梳いていく。
清香はマドレーヌの腕の中で「マドレーヌおねえちゃん」と呼んでくれた。
「きよちゃんにお姉ちゃんなんて読んで貰うことになるなんてなぁ」となんとも言えない気持ちになりつつ、マドレーヌは優しく囁きかけた。
「円香ちゃんは絶対に見つかるよ」
「……でも、いないもん」
「ううん、絶対に見つかるから」
「……じゃあ、どこなの?」
「う、う~ん。そう言われると困っちゃうけれど、でも、大丈夫だよ」
「なにがだいじょーぶなの?」
徐々にマドレーヌは答えに窮しつつあったが、それでも清香を安心させるべく、どうにか返事をしていく。
「それまで私が清香ちゃんを守ってあげる。こう見えてマドレーヌお姉ちゃんは、とっても強いのです」
「そう、なの? まどちゃんとどっちがつよいの?」
「そりゃあ、私だよ。いまの清香ちゃんたちよりも年上のお姉さんなのだから、当然私の方が強いのですよ」
ふふんと胸を張るマドレーヌ。だが、清香はマドレーヌの腕の中からじっとマドレーヌを見やると一言告げる。
「……でも、まどちゃん、じょうきゅうせいのおにいさんにもかってたの」
「……そ、それは、うん。でも、そのお兄さんよりも私の方がもっともっと強いから。だから円香ちゃんよりも私の方が強いのです」
清香の言葉にかつての自身の行いをフラッシュバックさせられるマドレーヌ。
そう、ちょうどいまの清香くらいの頃に、何度か四年生くらいの上級生が清香を虐めていたことがあった。
その上級生を円香はこてんぱんにのしたことがある。
もっとも、同級生のときとは違い、円香もそれなりに殴られてしまったが、最終的に上級生をノックアウトしたのだ。
ノックアウトできたものの、円香もだいぶ傷付いてしまったため、その後は雪菜たちからだいぶ怒られてしまったし、当の清香には泣きつかれてしまったものだ。
そのうえ、家に帰れば両親と祖父からは大目玉であったのだ。
そのときの苦い思い出をマドレーヌは思い出し、言葉を詰まらせるも、それでも当時の自分よりかはいまの自分の方が強いことは確実なので、清香が探す「円香」よりも強いと断言した。
そこまでしてようやく清香も「ほんとう?」と驚いた顔を浮かべた。
マドレーヌは「そうだよ」と頷きながら、「なんであーしは昔の自分よりも強くなったアピールなんてしてんの?」と自身の言動になんとも言えない居心地の悪さを感じていると──。
「あの、マドレーヌおねえちゃん」
「うん?」
──清香が両手を握りながら、じっとマドレーヌを見上げたのだ。
マドレーヌは「どうしたの?」と尋ねると、清香は決意の灯った目で告げた。
「わたしを、でしにしてください!」
「……は?」
たっぷりと時間を掛けて、清香の発言を呑み込んだマドレーヌは呆然とした。
呆然となりながら、「は?」と返事になっていない一言を口にするも、清香は真剣な目で続けた。
「わたし、つよくなりたいの」
「え、っと。なんで?」
「もういじめられたくないもん」
「あー、でも円香ちゃんが強いんだから、守ってもらえば」
「ダメ」
「ダメって、なんで?」
「……だって、わたしがよわいから、まどちゃんは、このまえいっぱいいっぱいきずついちゃったもん。もう、まどちゃんがなぐられちゃうのみたくないの」
唇を真一文字に結びながら、清香はマドレーヌを見上げる。
見上げるものの、その目尻からは再びほろほろと涙がこぼれ落ちていく。
マドレーヌは懐からハンカチを取りだし、そっと涙を拭ってあげた。
それでも清香の涙は止まらなかった。涙を止めないまま、清香は続ける。
「わたし、まもられてばっかりはやだ。わたしだって、まどちゃんをまもりたいもん!」
「……そっか。守りたいんだね?」
「うん! いつも、いつもまどちゃんはわたしをまもってくれるの。まるで、おはなしのなかの、おうじさまみたいに!」
若干鼻息を荒くしつつ、清香は熱弁する。その熱量にどう返事をすればいいんだろうと悩みつつ、内容はともかく、その気持ちは嬉しいと思うマドレーヌだったが、清香の言葉はまだ終わっていなかった。
「でも、まどちゃんもおんなのこだもん。まどちゃんだって、おうじさまみたいにまもってばかりじゃなくて、おひめさまみたいにまもってもらいたいとおもっているはずなの」
「……あ~」
清香のその言葉はマドレーヌの反論を見事に封じていた。
お姫様みたいにとは思ってはいないが、守られてはみたいなぁとは思っている。ただしイケメンに、清香の言うイケメンな王子様っぽいタイプに限るが。
だからと言って、清香に守って欲しくないわけではないのだ。
いや、守ってほしいというよりかは、むしろ──。
「……あのね、清香ちゃん」
「なぁに?」
「円香ちゃんはたぶんね。守って欲しいとは思っていないんじゃないかな?」
「なんで?」
「ん~、私の勘かな? でも、合っていると思うよ?」
「なにせ、あーし自身のことだからね」と続けられたらどれほど楽かと思いつつ、マドレーヌは吐露した。
「むしろ、清香ちゃんには支えて欲しいと思っているかもだね」
「ささ、える?」
「そう。清香ちゃんは円香ちゃんに守られているのなら、清香ちゃんは円香ちゃんのここを支えてあげればいいんじゃない?」
そう言って清香の胸に触れるマドレーヌ。清香は首を傾げながら「おむね?」と言うが、マドレーヌは苦笑いしながら、首を振る。
「違う違う。心だよ。清香ちゃんは円香ちゃんの心を支えてあげて、ってこと。それはきっと清香ちゃんにしかできないことだから」
「わたし、に?」
「そう。清香ちゃんしかできないことなの」
清香の頭を撫でつつ、マドレーヌはかつてのことを、かつての自分が抱いていたことを思い出していた。
かつてマドレーヌは、清香をいつも守っていた。
でも、守る度にいつも大人からは怒られていた。
祖父からは守りたいと思う者を守るために振るえと言われていた。
だからこそ、力を振るった。
けれど、その結果がお説教なのだ。
どうして、と何度も思った。
なんで、ともやはり思った。
だけど、虐められて泣く清香を放っておくことなんてできなかった。
清香は助けるたびに、「ありがとう」と言ってくれた。「ごめんね」とも言われた。
その言葉だけで十分ではあったけれど、「守れはするけれど、守られることはないなぁ」とは思っていたのだ。
かといって、当時のか弱かった清香が守れるわけもない。
仕方がないかなと当時は思っていた。
でも、いま思えば、いや、いまは守り方にもいろいろとあることは知っている。
ひとつは当時のマドレーヌ、いや、円香がしていたように力で守ること。ある意味一番わかりやすい方法だ。
でも、もうひとつ。当時からでもできたことはあったのだ。
それこそが支えること。つまりは心を守ること。
当時の円香の心を守れるとすれば、それは清香にしかできないことだったし、実際一度だけ守ってもらったことがあったのだ。
それは件の上級生とのケンカが終わり、両親や祖父からも大目玉を受けた後のことだ。
大目玉を受けた円香は、家にあった倉の中に閉じ込められてしまったのだ。
倉の中は薄暗く、怖かった。
その中で円香は泣いた。泣いたが、両親も祖父も出してくれなかった。
ひとりぼっちの心細さに円香は延々と泣き続けていたとき。
「まどちゃん、だいじょうぶ?」
倉の窓から清香が倉の中へと入ってきたのだ。円香は「きよちゃん?」と泣きじゃくりながら、清香を見やると、清香は優しく微笑んでくれたのだ。
「おれいをいいにきたら、ここからまどちゃんのこえがきこえたの」
清香は泥だらけになった顔で「えへへへ」と笑ってくれたのだ。
その笑顔に、その言葉に、幼かった円香の心は温かくなった。そして続く言葉で、円香の心は救われたのだ。
その言葉はそれまで何度も言われた言葉でもあるけれど、そのとき以上に嬉しかったことはない言葉だった。
「まどちゃん、いつもありがとう」
泥だらけになった顔で清香はお礼を言ってくれた。たったそれだけ。それだけの言葉で円香の心は救われた。
そのときのことをマドレーヌは思い出しながら、幼い清香に語りかけていく。
「円香ちゃんはたぶんうんざりするかもしれない。それでも、「ありがとう」って言ってあげてほしい。心を込めて「ありがとう」って言ってあげること。それは清香ちゃんにしかできないんだ。ううん、清香ちゃんの「ありがとう」じゃないとダメなんだよ」
「……どうして?」
「そんなの決まっているでしょう? おはなしの王子様だって、最後にはお姫様に「ありがとう」と言って貰えるでしょう? それと同じ。清香ちゃんにとっての王子様である円香ちゃんに、「ありがとう」と言えるのは清香ちゃんだけなんだよ」
「なに言ってんの、あーし」と頬が熱くなっていくのを感じながら、マドレーヌは本心からの想いを告げる。
その言葉に清香は目を何度も瞬かせ、ほんのりと頬を染めると、「わかった」と頷いてくれたのだった。




