19話 お互いを見つめて
頭の中が真っ白になっていた。
目の前にはマドレーヌの、円香の整った顔があった。
それも、顔を真っ赤にしながら、まぶたを閉じた状態でだ。
目の前の光景をクッキー、いや、清香はすぐに理解することができなかった。
できないまま、ぼんやりとしていたが、それも息苦しさとともに終わりを告げた。
当の円香が距離を離したからである。
円香は肩を上気させていた。
円香は円香で古流の剣術流派の後継ぎとして、幼少の頃から鍛えられている。
当然、身体能力は、男女を合わせても学年一位
である。
そんな円香が肩を上気させていた。
肩を上気させながら、清香を鋭く見つめている。
そんな円香を清香は、自身の唇に触れながら見つめていた。
現状は、あまりにもありえない状況だった。あまりにもありえなさすぎて、清香の処理能力を現状は大幅に超過していた。
処理能力を超過していてもなお、清香の視線は円香から逸らされることはない。
円香もまた清香から視線を逸らさない。
お互いにお互いを見つめ合う。
字面だけを見れば、ロマンティックな雰囲気はあるだろうけれど、現状においてロマンという言葉は欠片も存在していなかった。
「……なんで、ダンマリなのさ」
ロマンという言葉を吹き飛ばすように、円香が唸るようにして言った。
「……耳まで、真っ赤」
「はぁ!?」
円香の問い掛けに対して、清香が答えたのは、だいぶ的外れなものだった。
というのも、離れたことで顔どころか、頭の上にある耳まで真っ赤に染まっているのが見えていたのだ。
その耳はまるで動揺を示すようにして、しきりにぴこぴこと動いている。
いや、立ち耳だけではなく、円香の背後にある二本の尻尾もまた左右にゆらゆらと揺れ動いている。
誰がどう見ても、円香が動揺していることは明らかであった。
だというのに、清香は円香の立ち耳が真っ赤になっていることを指摘していた。
それでは、「なんで動揺しているの?」と煽っているようなものだった。
事実、円香は清香の言葉を煽り文句と受け取ったようで、やや凄んだ声で返事をしていた。
清香は「あ、いや、違う」と慌てるも、円香の顔はどんどんと険しくなる。
険しくなると比例して顔や耳の赤みもまた増していき、そして──。
「あーしだって」
「え?」
「あーしだって、わけわかんないんだから仕方がないでしょうが!」
両手を掲げながら円香は勢いよく立ち上がる。立ち上がるが、勢いだけで立ち上がったためか、すぐに座り込んでしまった。
それどころか、しきりに自身の唇を触れ始める円香。
「あー、もう。どうしよう。あーしのファーストキスがぁ~」
円香は涙目になりながら、自身の唇に触れている。
どうやらいまさらながらにファーストキスを清香に捧げてしまったことを後悔しているようだった。
その姿にずきんと胸の奥が痛くなる清香だが、同時にふつふつと喜びが沸き起こる。
「……はじめて、だったの?」
恐る恐ると、清香は円香に尋ねていた。すると、円香は「当たり前でしょうが!」と叫んできた。
「あーしはねぇ! 「将来の旦那様」としか、そういうことはしないって決めているの!」
「……でも、武闘大会のときに、レンさんに「ちゅーする」とか言っていなかった?」
「あ、あれは違う! あれはただのジョーダンだもん! 本気で言っていない! そんな誰に彼にもちゅーなんてしていたら、ただの痴女だもん!」
より顔と耳を真っ赤にしながら叫ぶ円香。ギャル系ファッションやそういう口調をしつつも、意外と身持ちは固かった。
むしろ、ギャル系だからと言って、みんながみんなその手のことに遊びなれているわけではないという証左とも言える。
とはいえ、円香の場合は若干いきすぎなところもあるものの、まだ小学生という年齢でいろいろと済ませてしまっている方がはるかに問題である。
むしろ、円香の年齢でその身持ちの固さを持っていることの方が当たり前と言えよう。
そんな当たり前のことを言われて、清香は喜ぶ自分に気付き、ひどく自責の念に囚われた。
「……ごめん、ね」
「え?」
「……大切にしていたものを、私なんかのために失っちゃって」
「……ん、まぁ、それはそうだけど」
困ったように後頭部を掻きむしる円香。それだけ円香にとって大切なものを、自暴自棄になった清香のせいで失ってしまった。
とてもではないが、清香では償いきれないものであった。
そもそも、その手のものを償い方などそうあるわけもない。
そのそうあるわけがないものを、どうやって償えばいいのかと清香は本気で考え込んでいた。
その顔はまさに悲壮と言っていいほどに蒼白なものとなっていく。
清香の変化に円香はどうしたものかと言葉を失う。
が、言葉を失ったのはわずかだけ。
「どうすればいいか」なんて考えている時間があるのであれば、いま目の前にいる大切な親友を立ち直らさせる方が先決である。
もちろん、「将来の旦那様」のために捧げるはずだったファーストキスを失ってしまったのは、痛恨事ではある。
だが、逆に言えばだ。
失ったのはそこまで。ファーストキスを軽んじるつもりは到底ない。
到底ないが、失ったのは清香も同じことである。
要は、お互いにファーストキスを交換し合った。そう思えば、円香自身のダメージはそこまで大きくはない、とも言えなくはない。
いや、むしろ、そう思うようにすれば、ダメージは皆無となるのではないか?
円香はそう考えた。
であれば、である。
もはや悩む必要などない。
円香はそう自身に言い聞かせながら、清香の肩を強く掴んだ。そう、強く掴んでしまったのだ。
「……あぇ?」
その瞬間、円香の視界は大きくずれた。
清香の肩を掴んだ円香。だが、円香は失念していた。
清香も円香も全身が濡れているということをだ。
そのうえ、円香はハーフフィンガーグローブを身に着けていたのだ。
つまるところ、より滑りやすくなっていたということ。
ゆえに、当然のように円香は大きく体のバランスを崩してしまう。
もっとも、それだけであれば、そのまま清香を押し倒すだけで済んだ。
……まぁ、押し倒す時点ですでに問題と言えば問題である。
だが、円香の不運はそこで終わらなかったのだ。
「本当に、ごめん!」
まるでタイミングを読んでいたかのように、俯いていた清香が顔を上げてしまったのだ。
そのときの清香は自己嫌悪に襲われていたため、円香の言動に気付いていなかった。
それはまさに偶然の悪戯と言うべき状況へとなっていった。
「き、きよちゃん!? なんで顔をあげて──ってどいて、どいて、どいてぇぇぇ!?」
「え? ちょ、ま、まどちゃ──んんっ!?」
バランスを崩した円香は、自分で自分を止めることはできなかった。
それはタイミングよく顔をあげてしまった清香もまた。
清香にしてみれば、本気の謝罪を口にしようとした矢先のことである。
目の前に円香の顔がいきなり迫ってきていたのだ。
それも円香は大いに慌てながらでである。
あまりにも唐突な状況すぎたうえに、自責の念に駆られていた清香にとって、その状況は回避不可能な状況であった。
加えて、ちょうど背後は湖だった。
円香を再び湖に落とすなんて、清香にはできないことであった。
結果、それは必然となった。
ふたりの距離は一気に縮まると、そのままゼロになった。
お互いの驚いた顔がすぐ間近にあった。
驚く顔をお互いに見つめ合いながら、ふたりはそのままの勢いで湖へと再び落下するのだった。




