18話 出会いとお礼
まるで方向はわからなかった。
灯りのない水中は、方向感覚を狂わせてくれた。それこそ見事としか言いようがないほどに。
だからと言って、諦めるという選択肢はマドレーヌには存在しない。
たとえ周囲が暗闇に覆われていても、たとえしうぐに近くに危険生物がいて、その存在を判別することさえもできなかったとしても。
マドレーヌには諦めるという選択肢は存在しなかった。
現実よりも聞こえのいい頼りになる耳も、水中ではなんの役にも立たないし、普段よりもよく見える目も水の屈折によってまともに見えなかった。
視覚も聴覚も役に立たない状況だったが、口から漏れ出た空気のお陰で唯一上だけでは判別できた。
マドレーヌはクッキーを抱き留めたまま、どうにか水面へと向かって泳いでいった。
「ぷはぁっ!」
水面に出ると胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
呼吸は自然と荒くなっており、視界もわずかにちかちかと点滅していた。
それでも、まずは岸へと向かおうとして、近くの岸辺へと向かい、力を振り絞ってクッキーとともに岸へと上がった。
そうして岸に上がってすぐ、マドレーヌは倒れ込んだ。
清香ことクッキーを下敷きにしないように注意して。というか、マドレーヌ自身が下敷きになるようにして倒れ込んだ。
「ぐぇ」
気絶したクッキーの体重がすべてマドレーヌに掛かってきて、マドレーヌは潰れたような声を上げる。
だが、それでもクッキーは静かな呼吸をくり返すだけで目覚めてくれそうにはない。
それどころか、若干幸せそうに見えた。
「……本当にこういうところは変わっていないなぁ」
ふぅとため息を吐きつつ、マドレーヌは何気ない仕草で前髪に触れた。
どうにも水が滴ってきて落ち着かないのだ。
あまりしたくないが、前髪を少し絞ろうかと思い、前髪を上げているヘアゴムをまず外そうとした。
「……あれ?」
そうしてヘアゴムを外そうとして違和感に気付いた。
「あ、ヘアゴムが、ない」
普段であれば、前髪を上げているはずのヘアゴムがないのだ。
おかげで普段よりもだいぶ低い位置に前髪があった。
水に濡れたせいで額に張り付いていたので、すぐにそのことに気付けなかったのだ。
さぁと血の気が引く音がはっきりと聞こえてきた。
「ど、どどどうしよう」
マドレーヌは慌てて起き上がろうとしたが、クッキーが体の上に乗っていることを思い出し、ゆっくりと起き上がると、静かにクッキーの下から這い出た。
「……そーっと、そーっと」
口に出しつつ、マドレーヌはクッキーを地面の上に寝かせた。
クッキーはまだ目覚めず、静かに呼吸を続けていた。
「……安心すればいいのか、ちょっと微妙だなぁ」
困ったものだなぁとマドレーヌはため息を吐く。が、いまはクッキーに関わっている余裕はない。
「……この暗闇の中で、ヘアゴム探しって」
すでに夜のとばりは落ちて、周囲には灯りはほとんどなく、そのうえでおそらく落としたのは湖の中という、探し物をする上ではわりと絶望的な状況であった。
「……でも、探さないわけにはいかないし」
はぁとため息を吐きつつ、マドレーヌは「さて、どうしたものか」と腕を組んで考えていた。
そこに突然クッキーの声が聞こえた。……とても辛そうな声で、だ。
「……ごめんね、まどちゃん」
「は?」
いきなりの謝罪を受けて、マドレーヌは思わずクッキーを見やる。
が、まだクッキーは目覚めていないようだった。
「なんだ、寝言か」とマドレーヌはクッキーから視線を外し、再び湖を見やろうとしたのだが、そのとき、ふとクッキーの右手になにかが握られているのが見えた。
「……あれって、もしかして」
恐る恐ると、クッキーに近寄り、右手を見やると、見慣れたヘアゴムが握られていた。
「あ、あった~」
よかったぁとマドレーヌはその場で腰を抜かして、へなへなと腰を落とした。
もしかしたら、もう回収できないかもしれないと、本気で思っていただけにクッキーが回収、というか、握ってくれていたことに安堵した。
安堵しながらもマドレーヌはふとかつてのことを思い出していた。
「……そういえば、最初もこんな感じだったね」
くすくすと笑いながら、かつてのことを、クッキー、いや、清香たちと出会ったときのことをマドレーヌは思い出していた。
三人と出会ったのは、小学校に入学してすぐの頃だ。
入学して最初の授業が終わり、中休みの最中のことだった。
当時、マドレーヌ、いや、円香はいまのように前髪を上げてはいなかったのだが、いろいろと事情があり、前髪がかなり伸びていたのだ。
元々は入学前に髪を切る予定だったのが、いろいろと都合が合わず、結局髪を切ることができないまま、入学式を迎えた。
入学した後も、どうにも都合が合わないまま、前髪が長いままで過ごしていた。
前髪が長いと言っても目が隠れる程度だったため、少し掻き分ければ授業を受けること事態は問題なかったのだ。
それでも見づらいなぁと思いながら授業を受けている際に、円香は自分と同じように前髪が長い子を見つけたのだ。
それが清香だった。
ただ、清香の場合は円香以上に前髪が長く、まるでお岩さんのように顔を隠せるほどだった。
そしてそんな状態の子を見つければ、小学一年生の男児がからかわないわけもなく、数人の男子生徒が清香を囲んで「おばけー」とからかい始めたのだ。
当時の清香はいまほど精神的に強い子ではなく、だいぶ引っ込み思案だった。
そのこともより男子たちのからかいに拍車をかけることになってしまったのだ。
その男子たちのやり口に円香が怒りを覚えたのは言うまでもなく、その怒りに突き動かされて円香の鉄拳が男子たちのひとり、中心となっていた男子の頬に突き刺さったのだ。
「女の子ひとりを囲んでからかうとか、最低でしょ!」
ふんと鼻息を荒くして宣言した円香に、殴られた男子とその取りまきみたく行動していた男子たちは当然反発する。
「……ふーん? 反省していないんだぁ~。じゃあ、「オシオキ」だね?」
特に殴られた男子はかなり怒っていたのだが、円香は気にすることなく、その男子に追い打ちとばかりに蹴りをいれたのだ。
それも一度だけじゃなく、何度も何度も蹴りつけていた。
途中から周りの男子が止めたが、円香は制止を振り切って、中心となっていた男子が泣き出すまで殴り続けたのだ。
当時の円香は、すでに祖父の手解きを受けていたため、同年代の男子では太刀打ちできないほどの実力を持っていた。
だが、それゆえに祖父や両親からは、自分からは決して手を出してはいけないと厳しく言い聞かされていた。
しかし、その言いつけを円香は初めて破ったのだ。
ただ、円香なりに事情はあった。
それに祖父のもうひとつの言いつけを護っていたのだ。
祖父は言っていた。
自分のために力を振るってはいけないと。力を振るうときは、必ず誰かのためだけだと。
ゆえに円香は力を振るった。
男子にからかわれて泣きじゃくっていた清香のために、円香は自分の力を振るったのだ。
……まぁ、そのせいで当時の担任だったティアナには大目玉を食らうことになったわけなのだが。
加えて、泣かした男子の両親や自身の両親と祖父が呼び出されてしまい、相手側の両親にかなりグチグチと嫌味を言われることにもなってしまった。
相手の男子はPTAの会長の息子だったこともあり、嫌味は延々と続いた。特に会長である母親は激高し、円香を乱暴者だと罵っていた。いったいどういう教育をしているのだとも。
会長の言葉に両親と祖父は円香が手をあげたことに関しての謝罪はしたものの、円香の行為を間違ったものだとは言わなかった。
「この子にはいつも自分から手を出さないように言いつけています。同年代の男の子よりもはるかに強いから、ケンカをしたら確実に勝ってしまうんだから気をつけなさい、と」
「それでも、この子が手を出したということは、私たちの言いつけを守らなかったということは、それだけの理由があるということです。つまりはそちらのご子息に問題があったということです」
「そもそも、この子が言うにはそちらのご子息が別のお宅のご息女を数人で囲んでからかったというではありませんか。それもそのご息女が泣きじゃくってもやめなかったと。たしかに暴力という手段を取ってしまったこの子にも非はあります。ですが、その大元となったのはそちらのご子息でしょう?」
両親が立て続けに言い募り、最後は祖父が薄ら笑いを浮かべながら、会長を見下すようにして言い切った。
その言葉により会長は怒り狂ったものの、そこに当のいじめられた清香たちがやってきたのだ。
「まどかちゃんは、わるくないです。わるいのはそっちのこです」
「わたしもみました。そっちのこが、きよかちゃんをからかっていじめていました」
最初に円香を庇ったのは、関係のなかったはずの雪菜だった。続いたのは雪菜の幼なじみであるフィナンこと聖奈もまた円香を庇ってくれたのだ。
その背後にはおどおどとしていた清香が立っていたが、雪菜と聖奈は清香を守るようにして立ちながらPTA会長にはっきりと告げたのだ。
「「おれのママはかいちょーだから、えらいんだ。だからおれもこのクラスでせんせいのつぎにえらいんだ」っていっていました」
「「おれのクラスにはおばけはいらない。おばけはでていけー」っていっていました。ね、きよかちゃん」
「……わたし、おばけじゃない。なのに、そのこはおばけって、いった」
会長に向かって清香たちは件の男子が言っていたことをもれなく伝えた。その言葉を聞いて会長の顔は信じられないと驚愕としていた。
そして件の男子は見る見るうちに顔を真っ青にしてしまった。
その変化に会長は自身の息子の過ちを理解したようだった。
「……まさしく、「どういう教育をしているんですか」ですなぁ?」
そして最後に祖父がにやりと笑いながら告げたことで、会長夫婦は息子を連れ帰った。円香への罵声を詫びることもなくだ。
それが円香と清香たちが知り合う切っ掛けとなった。
そしてその際に清香から送られたのが、いま清香が握っているヘアゴムだった。
元々は、清香の母親が、前髪が伸びすぎている清香のために渡していたものがふたつあったのだが、そのひとつを清香は円香にとくれたのだった。
曰く「たすけてくれたお礼」として。そのお礼を円香はいまもずっと大切に使っているし、「マドレーヌ」のアバターにもヘアゴムは反映されていたのだ。
そのヘアゴムをまさか清香のアバターである「クッキー」が回収してくれていた。
「また、きよちゃんから貰うってなんか運命感じちゃうなぁ」
おちゃらけながら、マドレーヌはクッキーの手からヘアゴムを取ろうとした。そのとき。
「……すきになって、ごめんね」
気を失っていたクッキーが想定外の一言を口にしたのだ。
その一言を聞いて、マドレーヌは自分でも驚くくらいに激高した。
ふざけんなと大気が震えるほどに叫んだ。その叫びでクッキーが目を覚ましたが、それでもマドレーヌの怒りは納まらず、気付いたときにはクッキーの唇を奪っていた。
(あー、もう、なんでこうなるわけぇっ!?)
まったく状況がわからない。わからないけれど、不思議と後悔はしなかった。
どうしてだろうと思いながらも、マドレーヌは目を見開くクッキーをぼんやりと眺めていたのだった。




