17話 醜い心
揺蕩っていた。
流れに乗っている木の葉のように。
ゆっくりと。
だが、確実に時は流れていく。
それでも、決心をつけることはできないまま、揺蕩っていた。
それはいまも同じだと清香は思っていた。
(……あぁ、いつもこうだ)
「クッキー」と命名したアバターも、現実の自分と同じように揺れ動いていた。
ずっと、ずっと揺れていたのだ。
マドレーヌ──円香を見る度に、清香の心はいつも頼りなく揺れ動いていた。
いつからこうだったのだろうか。
思い出そうにも、そのいつかがどうしても思い出せなかった。
気付いたときには、いまのようになっていた。
円香を見る度に心を落ち着けることができなくなったのは。
円香を恋しく思うようになったのは、いったいいつからだっただろうか?
自身に問い掛けても答えは出ない。
出ないまま、いまを迎えてしまっていた。
唯一言えることがあるとすれば、それはこの想いは決して表に出してはいけないものだということだった。
この想いは普通じゃないから。
どう考えても「普通」という言葉から逸脱したものだった。
そんな想いを円香に伝えるわけにはいかなかった。
拒絶されるのが怖かったというのも、もちろんある。
だが、それ以上に円香を困らせたくなかったのだ。
円香は優しい子だ。
若干言葉使いは荒いものの、その心根は誰よりも優しい子だった。
だからこそわかるのだ。
わかってしまうのだ。
清香が秘めたる想いを、円香に伝えれば、円香が悩み苦しむことを、清香は誰よりも理解していた。
ずっと、ずっと想い続けて、ずっと見つめ続けてきた人なのだ。
その心の有り様がどのようなものなのかなんて、考えるまでもないことだった。
そもそもの話、円香は決して清香の想いを受け入れることはない。
あるわけがないのだ。
円香が女性同士の恋愛に興味があるとかないとかの問題ではなく、円香の立場上、清香の想いを受け入れられるわけがないのだ。
清香は知っている。
円香には使命があることを。
実家の道場、いや、実家が受け継ぎ続けてきた流派を存続させるという大事な役目があるのだ。
円香の流派がどれほどまでに長く続いてきたのかは詳しくは知らない。円香もきっと知らないだろう。
それでも円香は流派を受け継ぐことを決めている。
そして受け継ぐということは、自身の後継者を作らなければならないということでもある。
自身の次代を作るということは、円香は誰かと子供を為さねばならないのだ。
そしてその子供を為すことは清香にはできない。清香は子供を宿すことはできても、円香に宿すことはできないし、円香の子供を清香が宿すこともできない。
つまり、円香の使命を全うするためには、清香では不十分だということだ。
円香もそんなことは十分にわかっている。
だからこそ、円香が清香の想いを受け入れることなどありえないのだ。
だが、円香はそれでも悩み苦しむだろう。
だって、それが円香という人だからだ。
そんな円香にいつから恋をしていた。
どうして、と思った。
なんで、とも思った。
それでも、心に宿った想いをなくすことはできなかった。
一度点いた恋という名の情熱の炎を消すことはできなかったのだ。
できたのは、ごまかすことだけ。
それも円香に当たり散らすようにして騒ぎ立てるという、情けない方法でしか清香は自分の気持ちをごまかすことができなかったのだ。
円香とはいまは所属するグループが異なっていたのも幸いだった。
清香が所属するのは、いわゆる優等生グループだった。
グループ内のメンバーで、誰がクラス委員になってもおかしくないし、立派にこなすことができるであろう顔ぶれが揃っている。
対して円香の所属するグループは、問題児とまでは言わないが、斜に構えた子たちが多いグループであった。
もっと言えば、ギャル系っぽい子たちが多い。もちろん、ギャル系だからといって、全員が不真面目というわけではない。
ギャル系であっても真面目な子たちで集まっているグループもあるが、円香の所属するのはギャル系でも若干不真面目なグループであった。
そしてそういうグループに対して、清香の所属するグループの面々は当たりが強めなのだ。
当然、そんな相手に円香のグループの面々が反発しないわけもなく、清香と円香のグループは対立するほどに仲が悪かった。
だからこそ、清香が円香に当たり散らしても、それをおかしく思われることはなかったのだ。
むしろ、そういう状況を利用するようにして、清香は円香を非難し続けてきた。
鬱憤を晴らすようにしてだ。
「私の気持ちに気付いてくれない円香が悪い」と思えるようになったのは、いったいいつからだろうか?
いつから、自分の気持ちを逆手に取って円香を責められるようになったのだろうか?
……本当に責められるべきなのが誰なのかなんて考えるまでもないことなのに。
(……あぁ、醜いなぁ)
こうして自分の気持ちと向き合うとはっきりとわかってしまう。
自分の心はとても醜い、と。こんなにも醜い心の持ち主なんて、そうそういない、と。そう清香は思えてしまう。
まさに名前負けと言っていいだろうとさえ清香は思ってしまっていた。
(……あははは、こんなじゃますます受け入れて貰えるはずがないよ、ね)
涙が零れそうになる。
だけど、拭おうにも体は動かない。
もうぴくりとも動いてくれない。
頬を涙が伝っているのに、拭うことさえできはしなかった。
「……ごめんね、まどちゃん」
できたのは、たったひとつだけ。
恋しい円香に謝ることだけ。
もう直接声を掛けることなんてできはしない。
それでも。
それでも一度でいいから謝りたかった。
こんなにも醜い私が、あなたを好きになってしまってごめんなさい、と。
そう円香に伝えたかった。
「すきになって、ごめん、ね」
頬を伝う涙の熱を感じながら、清香は恋しい人に謝罪をし続けていた。
「……ふざけんなよ」
すると、不意に声が聞こえた。
円香の声がはっきりと聞こえてきたのだ。
幻聴かなと思いながら、清香は「ごめんね」と謝ると──。
「それがふざけているって言ってんでしょうが、バカ清香ぁ!」
──耳をつんざくような叫び声が聞こえてきたのだ。
その叫び声に清香は「ひゃぁっ!?」と慌ててしまう。
が、それからすぐに清香、いや、クッキーは自身の襟首を掴まれたことを理解した。
「ま、まどちゃん?」
理解するやいなや、目の前には怒り狂った円香、いや、マドレーヌがいた。
ぽたぽたと水滴を垂らしながら、いままでになく怖い顔をしたマドレーヌが睨み付けてきていたのだ。
いったい、どうしてとクッキーが思っていると、マドレーヌはさらに顔を近づけて一言告げた。
「好きになってごめんなさい、ってなんだよ!? ふざけんな、このバカタレ!」
マドレーヌは怒りに怒った表情でクッキーを叱りつけた。
その言葉に「え、で、でも」とクッキーは困惑するが、マドレーヌが止まることはなかった。
「あー、もう面倒くさい! こうすればいいんでしょう、こうすれば!」
マドレーヌは叫んだ。叫びながら、なぜか顔を近づけてきて、そして距離はゼロになった。
クッキーは顔に熱が溜まるのを感じながら、目の前の、顔を真っ赤にしたマドレーヌの顔をただぼんやりと眺め続けたのだった。




