EX-53 天上にて
雲が遠くにあった。
普段であれば、はるか上空に浮かんでいるからこそ、雲は遠くにある。
だが、いまのまりなから見れば、雲は普段とは真逆の意味で遠くにあった。
「どうしたんだい? まりなくん?」
まりなの対面側から声が聞こえる。
まりなはつまらなそうに頬杖を突きながら、対面側に座る燕尾服姿の女性を見やった。
「ん~? 雲が遠くにあるなぁ~って思ったの」
「それは当たり前のことじゃないかい?」
「そうねぇ~。でも、普段とは真逆でしょう? 普段なら雲は手を伸ばしても届かないほどに高くにあるけれど、いまははるか眼下にあるんだもの」
紅茶を啜りながら、まりなは眼下を見やると、そこには雲があった。普段であれば、見上げるべき場所にある雲が、いまはまりなのはるか眼下に存在している。
「そうだね。たしかにそういう意味では君の言うこともわかるかな。地上にいては、雲ははるか高くに存在するものだ。私にとっては、これが普段通りの光景ではあるんだけども」
「こんななにもない場所にいて、なにが楽しいの?」
頬杖を解いて、両腕を広げるまりな。両腕を広げながら、まりなが周囲を見渡すもいまある空間以外はなにも存在していなかった。
あるのはただ真っ暗な闇と青く美しい星、そしてはるか遠くの光だけ。
それ以外はなにもない。
いままりなたちがいる場所以外には、なにひとつとて存在していない。
初見であれば、雄大な光景に目を奪われるだろうが、まりなのように度々訪れていたり、目の前の人物のように毎日過ごしていたりしたら、アキが来てしまうのも当然ではあった。
「楽しいとか、楽しくないとかじゃないよ。ここであれば、地上のすべてを見渡せるからね。だからここに居城を作っているのさ」
燕尾服姿の女性は、淡々とした口調で告げる。楽しさの有無など女性にとっては、どうでもいいと感じているということは、その一文だけで十分に感じられた。
だからこそ、まりなにとってはつまらないのだ。
「つまんなーい」
「……つまんなーい、って。君、もうそんなこと言う歳じゃないだろうに」
「ひどーい。まだピチピチよ、私」
「……いまどき、ピチピチって言う若い子はいないと思うけど?」
「そう? あぁ、でも、藍那ちゃんがなんだか言いづらそうな顔をしていることがあったなぁ」
「……藍那くんも災難だね。いくら盟約があるとはいえ、無理矢理話を合わせているようなものだろう?」
「そうかしらぁ?」
「そうだよ。うちの世界に来ているときの彼女は、もっと溌剌としているからね。そうだろう、藍那くん?」
女性がちらりとまりなの背後を見やる。そこには和装姿の藍那が、長刀を背負った藍那がまぶたを閉じて佇んでいた。
が、女性に声を掛けられたことで、藍那はまぶたを薄らと開いた。
「……そのようなことはありませぬ。私は主様のおそばにいるときも、そちらの世界に参じているときも、私のままでおりますゆえ」
「そうかい? その割りには、まりもくんと私の世界で出会ったときテンションがおかしかった気もするけれど?」
「……キノセイデゴザイマス」
藍那が若干。そう、わずかに目を泳がせる。その様子にまりなも女性もジト目で藍那を見やるが、ふたり揃ってため息を吐いて「まぁいいか」と呟いた。
その言葉にほっと一息を吐く藍那。
まりなと女性は藍那の反応に、それぞれ肩を竦めた。
「それで、今日はなんの用なの? エルドさん」
「別に? 単純にちょっと女子会チックなお茶をしたいと思っただけだよ?」
まりなは女性──エルドを見やるが、エルドは紅茶を啜りながら、「なにを言っているんだろう」と言わんばかりに首を傾げていた。
「え~、なにそれ? 「緊急の用事がある」とか言ったから来てあげたのに」
「だって、そうでも言わないと君来ないでしょう? 壮一郎くんに丸投げして、私とは極力接触したくないみたいだし」
「そりゃそうよ。玉藻お祖母様にいまだに恋慕している相手なんて、どんなに淑女的な態度を取られたとしても、相手なんてしてらんないわ」
はっきりとまりなが告げると、エルドは困ったように後頭部を掻きむしる。
「……まったく、君って奴は。ずけずけと言うねぇ?」
「あら? 優しく言われた方がお好みだったかしら?」
ふふふと口元を押さえて笑うまりな。エルドは頭を痛そうに抑えながら、「全く困った子だよ」とため息を吐いた。
その様子を見て、まりなは「ふぅん?」と興味深そうにエルドを見つめた。
対するエルドは、怪訝そうに顔を歪めながら、「なんだい?」と尋ねた。
「玉藻お祖母様関連のことは地雷だって、壮一郎さんが言っていたから、私相手でもそうなのかしらと思っていたのだけど」
「あぁ、先日のことか。その節は申し訳ないことをしてしまったよ。どうにも触れて欲しくないことだったから、つい過剰に反応してしまってね」
「私にはしないの?」
「言ったろう? 過剰に反応してしまったと。普段ならあんな反応はしないんだけどねぇ」
ガシガシと後頭部を再び掻きむしるエルド。「お行儀悪いわよ?」とまりなが言うと、エルドは「頬杖突いていた君が言うかい?」と言い返した。
言い返された言葉に対して、まりなは「私はいいの」と胸を張る。「なんだ、それ」とエルドは呆れた表情を浮かべた。
「やれやれ、君の相手は疲れるなぁ。娘さんのまりもくん相手であれば、ここまで疲れることはしないんだけどねぇ」
「まぁ、まりもはまだ人だからね。あの子にとってみれば、私やあなたのような超常的な存在は、あの子の常識の範囲外の存在だもの」
「それを実の母が言うのか?」
「だって、事実だもの。あの子はまだ人の範疇だからね。そろそろ至れるかなぁと思っていたのだけど、どうにもうまく行かないものね」
ふぅとまりなが再びため息を吐く。
会話の内容に目を瞑れば、年頃の娘との接し方に悩む母と知人という風にも見える。
「いいところまで来ているんだけどねぇ。これ以上を促すためにはやっぱりアンリちゃんだけじゃダメかしらね」
「……おいおい、君って奴は、実の娘をどこまで追い込むつもりなんだい?」
「決まっているでしょう? ちゃんと至れるまでよ?」
なにを言っているの? と言わんばかりに今度はまりなが怪訝そうに顔を歪める。
まりなの反応にエルドはお手上げと言わんばかりに肩を竦めた。
「せっかく、取り戻したばかりなのに、また喪わせるつもりかい?」
「そうね。兆しが見えないのであれば、そうするつもり」
「……鬼か、なにかかな、君は」
「やぁね、私はまりものお母さんよ? すべては娘のためだもの」
まりなは笑いながら言う。その様子に本心から言っているということはエルドにもわかった。
だが、その言動の不一致さは不気味であった。不気味であるが、まりなが嘘を言っているわけではないことはわかった。
「とりあえず、すぐには厳しいだろう。もう少し時間を掛けてだね」
「じゃあ、一か月後で」
「……早すぎだろう」
「そう? でも、こういうことはさっさと終わらせた方がいいじゃない。それに、幸せな期間が長引くとかえって壊れちゃうもの。だから短めの期間でかつ、その期間中めいいっぱいに幸せになってもらうの」
「……それから奪うと」
「ええ。その落差こそがあの子の力になるの。だって、九尾とはそういう存在でしょう? 悲しみが深ければ深いほど、その輝きを増す。だからこそ、幸せの絶頂から深い奈落の底へと突き落とす。そうして初めて九尾は強さを得るのだから」
ニコニコと笑うまりな。
笑っているはずなのに、それを笑顔とはとてもではないが言えなかった。
「ふふふ、楽しみね。まりもはどこまで素晴らしい九尾になってくれるのかしらねぇ」
恍惚とした表情で語るまりな。その言動にさしものエルドも目を伏せながら、「そうだねぇ」と曖昧に返事をする。
まりなの背後に立つ藍那の表情が曇っていることに気付きながらも、エルドは藍那を視界から外した。
「難儀なものだ」とエルドは思いながら、楽しげに。それこそ恋する乙女のような焦がれるような顔を浮かべるまりなとの会話を続けた。
地上をはるか高くから見下ろす、天上での会話を続けた。
次回より11章になります




