EX-52 メイドたち その終わり
ようやく見慣れてきた天井だった。
学生寮の天井とは、古い木目調の天井とは異なり、染みひとつない純白の天井だ。
その天井を、やはり学生時代に使っていたものとは品質に差がある質のいいベッドに寝転がりながら、柚香はぼんやりと天井を見上げていた。
部屋の中は薄暗い。
備え付けられた電飾は、いまは稼働しておらず、充電ケーブルを差したスマートフォンくらいしか、部屋の中での灯りは存在しない。
例外があるとすれば、窓の外からの光くらい。
すこし前までは太陽の光が差し込んでいたのに、いまや夜のとばりを迎えており、窓から差し込むのは日の光から月の光へと移り変わっていた。
薄暗い部屋の中では、眩しいだけだった日光から、穏やかな月明かりを柚香は口をわずかに開けながら見つめていた。そのとき。
「……なんで夜なのに、灯りひとつ点けていないのよ、あんたは」
パチンという軽やかな音とともに、備え付けられた電飾が稼働し、夜闇に覆われていた部屋の中が瞬時に明るくなる。
「うっ」というわずかな呻き声とともに、柚香は右腕で強烈な灯りを遮る。
それでも唐突だったゆえか、もろに電飾の灯りが目に飛びこんできたことで、しばらくの間残光が焼き付いてしまう。
柚香が残光に晒されている間も、件の声の主は何事もなかったように、自身のパーソナルスペースへと移動して、「あー、疲れた~」とマイペースに振る舞っていた。
「……なにしてくださるんですか、深雪先輩」
残光が落ち着き、柚香はベッドから上半身だけを起こすと、唸り声を上げながら同室であり、ひとつ上の先輩である深雪を睨む。
が、当の深雪は気にした様子もなく、「あんたが灯りも点けずに寝転がっていたのが悪い」と一蹴する。
「いや、もしかしたら寝込んでいたかもしれないじゃないですか」
「寝込んでいたら寝息が聞こえているはずなのに、聞こえなかったうえに、スマホの灯りが見えていたからね。単純に灯りを点けずにぼんやりとしているだけって判断したのよ」
そう言っている間に、深雪は身につけていたメイド服から寝間着兼普段着へと着替えていく。
玉森家にはメイドたち用のロッカールームもあるにはあるが、濡れたり破れたりした場合の着替え用のメイド服に着替えるためであり、そこまで頻繁に使われているわけではない。
そもそも、ロッカールームがあるのは玉森家の本邸であり、柚香や深雪がいるのはメイドたち用の使用人寮である。
本邸とは同じ敷地内にあるものの、使用人寮は渡り廊下を通った先にあるうえ、そのロッカールームは渡り廊下からは少し離れた場所にあるのだ。
着替えて使用人寮に戻ろうとすると、当主一家と鉢合わせする可能性があることを踏まえると、ロッカールームでの着替えは非推奨されているのだ。
が、それはあくまでも使用人たちの観点であり、当主一家にしてみれば現代でも滅私奉公をしてくれる使用人たちが、私服姿で本邸を歩いていても咎めるつもりなどまったくない。
むしろ、日頃からもっと気軽でもいいと思っているくらいなのだが、そこはそれ使用人たちにも守るべき矜持もあるため、なかなか当主一家と使用人たちの観点の歩み寄りは行われてはいない。
実際、柚香もすでに寝間着兼普段着用のパーカーとスウェットパンツ姿であり、制服である燕尾服は個人用のクローゼットに仕舞ってある。
「……」
「なによ?」
「いや、先輩って相変わらず胸大きいなぁ~って、ごふっ!」
自身のクローゼットをちらりと見やった柚香だが、視線をすぐに着替え中の深雪へと戻し、じっとその着替え姿を見つめていた。
さしもの深雪も柚香のあけすけな視線に、憮然とした態度で尋ねるも、柚香のセクハラ発言を聞き、近くにあった目覚まし時計を投げつけるという暴挙に出た。
目覚まし時計はきれいな放物線を描きながら、柚香の腹部に着地した。柚香は咳き込みながらお腹を押さえてベッドの上で転がっていく。
「せ、先輩。さ、さすがにお腹に目覚まし時計は」
「セクハラ発言の代償には安すぎるでしょうに」
柚香はお腹を押さえながら、深雪にもの申すも、当の深雪はあっさりと柚香自身の責任だと断言する。
その言葉に柚香はぐうの音も出なくなってしまう。
そうこうしている間に、深雪は寝間着のファーパジャマへと着替え終えていた。
なお、柚香が言う大きな胸は、パジャマの胸部をこれでもかと押し上げており、その大きさをより強調させていた。
「……あんた、まだ投げられたいの?」
「ごめんなさい、私が悪うございました。勘弁してください」
「よろしい」
柚香の再びのあけすけな視線に、深雪が笑みを深めた。
柚香は即座にベッドの上で正座をし、平謝りを敢行する。その様子に深雪はため息を吐きつつも、一応許してくれていた。
同性であるものの、傍から見ればそのやり取りは、妻に頭が上がらないダメ夫そのものであった。……柚香が両性的な外見であるのも、その印象を加速させる要因であることは言うまでもない。
なお、同じメイド隊の面々の一部からも、密かに柚香と深雪はかけ算されているのだが、そのことを当人たちは知る由もない。
当人たちにとっては、学生時代の頃からの、深雪が卒業するまでルームメイトだったという程度の付き合いであり、それ以上の感情はないわけなのだが。
「で? 傷の具合は?」
「……お腹のことですか?」
「呉羽さんにやられた傷のこと」
「あぁ、そっちですか、ってなんで知っているんです?」
それまでのやり取りから、呉羽の暴行によって受けた傷の話になり、柚香は驚きを露わにしていた。
たしかに呉羽に暴行を受けたものの、その場面を深雪に見られたわけではなかったはずなのだ。
ちなみに、普段は同部屋であるため、一緒に出勤はするが、今日は深雪が通しで一足先に出勤していたのだ。
普段であれば、深雪が呉羽たちの凶行を食い止めてくれただろうが、残念ながら今日は深雪がいなかったため、柚香は朝から災難に遭うことになったのだ。
「そりゃそうよ。あんた、私のメイド隊の地位、わかっている?」
「……あー、そういえば、先輩十五席ですもんね」
「そうよ。本来なら「お姉様」と呼ばれる立場よ、私は」
「だけど、先輩は先輩ですし」
ジト目で見やる深雪に柚香は、そういえばという口調で深雪の地位を思い出す。
深雪は柚香のひとつ上の先輩ながら、メイド隊の地位は呉羽よりも五つ上の十五席である。
なお、年齢は呉羽の方が深雪よりも三つ年長であり、正式にメイド隊の一員となったのも呉羽の方が三年早い。
が、深雪は副長の藍那と同じく玉森家に代々使える家系の出であり、子供の頃から玉森家で仕える古参である。
ただ藍那とは違って正式にメイド隊の一員だったわけではなく、あくまでも夏休みなどの長期休暇の際に臨時として働いていたのだ。
さすがに藍那のようにまりも付きではなかったが、藍那とまりもの間の歳だったため、ふたりともよく一緒に遊んでいた仲である。
言うなれば、まりもにとってのもうひとりの姉という立場であり、そしてまりもの悪癖が発症した原因こそが深雪なのだ。
なお、まりもの悪癖を発症させたことに関して深雪は「私史上で最大のやらかし」と称している。
そんな深雪だが、先述のように当時はまだ臨時のメイドであり、メイド隊の一員として名を連ねていたものの、扱いとしては予備役のようなものであったため、正式なメイド隊の一員ではなかったのだ。
だが、それも大学を出て、正式にメイド隊の一員となったことで十五席という地位を得たのである。
ちなみに十五席は「席」で言えば最下位の地位であるが、「位」よりも上位であることには変わりない。
本来なら、柚香は深雪を「お姉様」と呼ばねばならないのだが、学生時代からのルームメイトである柚香にしてみれば、深雪を「お姉様」と呼ぶのは違和感しかなかった。
深雪自身も柚香から「お姉様」と呼ばれるのは違和感があったため、双方の納得の元、隊長である早苗や副長の藍那からも許可を得てそれまで通りの先輩と後輩の仲で落ち着いたのだ。
だが、それがかえってふたりをかけ算させる最大の原因となっているのだが、やはりそのことをふたりは知る由もない。
「それで? どうなの? 傷は痛む?」
「えっと」
「あぁ、取り繕わなくてもいいからね? 藍那姉さんから治療をしたって話は聞いているから」
さらりと藍那のことを「姉さん」と呼びながら、事情を察している深雪に、さすがは「席」なだけはあるんだなぁと納得する柚香。
柚香の様子と藍那からの話を受けて、いろいろと事情を察したのか、深雪はふぅとため息を吐く。
「その様子だと、「席」と「位」の違いはわかったみたいね?」
「ええ。正直まだ半信半疑ですけど」
「そう。まぁ、無理もないかな。あんたは私や藍那姉さんみたく生え抜きってわけじゃないし。いきなりファンタジーじみたことを言われたり、目の当たりにしても半信半疑なのは仕方がないよ」
「そう、ですかね?」
「そうよ。だから、私も「席」と「位」の違いに関しては説明なんてしなかったんだし」
「……だけど、今日は」
「まぁ、元からそのつもりだったというのもあるけど、治療が目的だったのも一番の理由ね。あまり深く考えない方がいいんじゃない?」
深雪は淡々としていた。
普段の深雪らしからぬ口調に、若干押され気味になる柚香だったが、そんな柚香に深雪は「それはさておき」と咳払いをする。
「二十位に昇格おめでとう、柚香。今後はより一層厳しくしていくから覚悟しなさいね? まりちゃんじゃなく、あんたがお嬢様をどれほど崇拝しているのか、これからも見定めさせて貰うから」
そう言って深雪は笑う。その笑みはいつも通りの笑顔であるが、同時に挑戦状のようなものだと柚香は察した。
まだいろいろとありすぎて、頭の中は混乱としている柚香だが、それでもここは退いてならないのだということは理解していた。
「望むところです。私のお嬢様への崇拝を見せつけてあげますよ」
「ふふふ、その言葉がどれほどの本気なのか、まさに見物ね」
「好きに言っていてください。目に物見せてあげますよ」
「そう。じゃあ存分に見せて貰おうかな」
くすくすと笑う深雪に、柚香は不敵な笑みを返した。
その後はいつも通りに取り留めもない話をしながら、消灯時間を迎えた。
メイド隊の一員として普段から濃い時間を過ごしていた柚香だが、今日はいままで一番濃い時間だったなぁとしみじみと思いながら、柚香は眠りに就いた。
明日は今日できなかった分までお嬢様に貢献するのだと息を巻きながら、明日への闘志を燃やしながら柚香は意識を手放すのだった。




