EX-49 メイドたち その3
血の気が引く。
昔から言われている言葉だが、その言葉の意味をこんな形で体感することになるとは思っていなかった。
柚香は心の底からそう思った。
そう思うことが、すでに柚香なりの現実逃避でもあった。
現実逃避をしたくなるほどに、現在の柚香は追い込まれていた。物理的に。
「ねぇ、どういうことかしら?」
現在の柚香は、廊下の一角に、どん詰まりの廊下の一角に体を押しつけられていた。
顔の脇には手が置かれ、脚の間には相手の膝が差し込まれている。
女性としてはそれなりに長身である柚香だが、無理矢理壁に押しつけられ、態勢が崩された状態にされてしまえば、壁ドンをされてしいまうのも当然ではある。
もっとも壁ドンは壁ドンでも、胸は本来の意味とは異なる形で高鳴ってしまっている。
その証拠に柚香の顔は真っ青となっている。真っ赤ではなく、真っ青である。
そのことを自覚しながら、「あぁ、これが血の気が引くってことなのか」と柚香はしみじみと感じていた。
「ねぇ? 聞いている?」
顔の右側にはすでに手があったのだが、その一言と共に左側には差し込まれた。
ドンっ! という大きな音とともに相手の左腕が視界に飛びこんでくる。
いや、左腕だけではなく、怒りに歪んだ顔がすぐそばにまで迫ってくる。
柚香の喉から「ひぅ」という悲鳴染みた声があがる。
だが、その声を聞いても相手は溜飲を下げることはない。
逆に苛立ちを募らせているようだ。
柚香としては「なんでよ」と言いたいことだ。
そもそも、なんでこんなことになったのかさえも柚香には理解さえできていない。
いつものように使用人用の寮から出て、いつものように先輩方にあいさつをしながら出勤をした。
カーテンシーはちょっと不格好だが、精一杯頑張った。
同部屋のひとつ上の先輩からは「カーテンシーじゃない方がいいかもね」とアドバイスを受けていたが、いまのところはカーテンシーで頑張るつもりである。
まぁ、そもそもメイド服と呼ばれるエプロンドレスではなく、執事服である燕尾服姿でカーテンシーをするのはたしかに不格好である。
が、柚香としては自分はメイドであるという意識があるため、カーテンシーだけは譲れない。
そんなわけで、今日もカーテンシーでの挨拶を行いながら、出勤をした矢先のことであった。
いきなり数人の先輩から声を掛けられ、あれよあれよといううちに、どん詰まりの廊下へと追い詰められて、現在に至っていた。
「いったい、何事だ」と柚香は思う。
出勤はしたものの、まだメイドの詰め所には向かっていない。向かう前にここに追い詰められてしまったのだ。
ゆえに、目の前にいる先輩方の言動を柚香は理解できていなかった。
「どういうこと?」と言われても、こっちが「どういうことですか?」と尋ねたいくらいなのだ。
しかし、相手は全員が臨戦態勢に入っていた。
柚香を敵とばかりに睨み付けている。
昨日の退勤時までは、そんな様子はなかった。
せいぜいが、柚香を見下すような視線を投げつけてくる程度で、いまのように敵視の視線を向けてはいなかった。
いったい昨日と今日の間でなにがあったのだろうと柚香は混乱していた。
「もう、それだけじゃわからないでしょう? 退きなさい」
混乱していた柚香の耳に聞こえてきたのは、静かな声だ。
柚香を追い詰めた数人の先輩方のうち、一番奥、柚香から見てどん詰まりの入り口で立っていたメイドが柚香を壁ドンするメイドにと呆れた様子で声を掛けた。
「……わかりました、お姉様」
壁ドンしていたメイドは、素直に引き下がるも柚香を見やる目はとても鋭い。敵は敵でも不倶戴天の敵とばかりに睨み付けていた。
「私がなにをした」と言いたい柚香だが、いまだに現状の把握ができていない。
言われた言葉は「どういうこと?」だけなのだ。「どういうこと?」だけで現状を把握できるほど、柚香は超常的な存在ではない。
だが、それもこれで終わりだろうと柚香は思った。
壁ドンしてきたメイドの次に出てきたのは、例のお姉様と呼ばれたメイドであり、柚香を追い詰めた数人の先輩方のうちのリーダー格にして、玉森家メイド隊序列二十位である呉羽。……柚香が一番苦手な先輩でもある。
「ごめんなさいね、柚香。あの子ったら、直情的すぎてね。「どういうこと?」だけじゃ意味がわからなかったでしょう?」
「……申し訳ないことではありますが」
「そう。そうよね。あれだけじゃ意味がわからないわよねぇ?」
くすくすとおかしそうに口元を押さえる呉羽。隊長である早苗と同じ黒髪長髪の大和撫子然とした女性であるが、その中身は早苗とはまるで異なっていた。
早苗は早苗で、素が粗暴であるため大和撫子とはとてもではないが言えない人物ではあるが、その実一本気な面倒見のいい人だ。
が、目の前の呉羽は同じ大和撫子然としながらも、早苗とは別ベクトルで大和撫子という言葉からは逸脱した人物であった。
「でも、それでも理解しておくべきじゃない? 私から序列二十位の地位を奪った柚香さん?」
「……は?」
言われた言葉の意味をすぐに柚香は理解できなかった。
序列二十位。昨日の退勤時まではたしかにその地位は目の前にいる呉羽のものだった。
しかし、呉羽やその取り巻きの先輩方の様子を見る限り、今日から序列二十位は柚香であるようだ。
……いったいどういうことなのか。
柚香は現状を理解できずにいた。
「ねぇ、どうして? どうしてようやく見習いから脱したばかりのあなた風情が、私の地位を奪い取れるの? あなた、なにをしたわけ?」
「い、いえ、私はなにも」
「はぁ? なにもしていない? なにも? ふざけているのかしら?」
「そ、そう仰られてもどういうことなのかは私にもわからないので」
「ふざけているんじゃないわよ!」
パァンと高い音が鳴り響く。柚香は頬を抑えながらその場で倒れ込む。
「言いなさいよ。自分がなにをしたのかを」
「なにもしてないです、本当ですよ!」
「嘘を吐くな!」
倒れ込んだ柚香の襟首を掴むと、呉羽は柚香の腹部に拳を突き刺した。
柚香はその衝撃に耐えきれず、崩れ落ちた。そんな柚香を呉羽は忌々しそうに見やりながら、踏みつけた。
空気の抜けたような音を口から発する柚香。だが、呉羽の怒りは収まらない。
呉羽の怒れる様を目の当たりにしているのに、取り巻きの先輩方はうっとりと呉羽の怒る様を見つめているだけだった。
呉羽は自尊心が非常に高い。その自尊心を傷つけた相手を裏からネチネチと攻撃する陰湿なタイプの人間であり、柚香が最も苦手とする人だった。
だが、それでもここまでするような人ではない。
呉羽のものであった序列二十位を柚香が奪い取ったのが、呉羽の凶行の原因であろう。
とはいえ、柚香自身なぜ呉羽の序列を奪うようなことになったのかがわからない。
なにをしたのかと問われても、本当に柚香はなにもしていなかった。
せいぜいが、現人神であるまりもお嬢様への崇敬をいつものようにしていた程度。当のまりもお嬢様からは苦笑いされていたが。
それでも柚香のまりもお嬢様への崇敬は止まらない。止まらないどころか、日に日に上昇していくのみ。
対して、呉羽含む取り巻きの先輩方は、崇敬の念が足りなさすぎるとは、前から常々思ってはいたが、実際に口にしたことはない。
もしや、その崇敬の念の差が今回の人事に発展したのではないかという推測は立てられるが、自身を襲う痛みに柚香は口を開くことができなかった。
「言いなさい、自分が何をしたのかを! 言ってみろ!」
柚香の背中を踏んでいた呉羽が、狙いを背中から頭へと変えようとした、そのとき。
「その辺にしてもらえるかなぁ~?」
おっとりとした声が突如聞こえてきたのだ。その声に呉羽だけではなく、取りまきたちも動きを止めて、恐る恐ると振り返っていく。
「まったく。あなたたち、なにをしているのぉ~? 後輩虐めはダメでしょう?」
「く、黒子お姉様!」
すこし前まで呉羽がいたどん詰まりの入り口には、序列四席である黒子が呆れた顔を浮かべて立っていた。
黒子の登場に取りまきたちも呉羽も顔を青くしていくが、黒子は気にすることなく取りまきたちの横を通りすぎ、呉羽を無視して柚香にと手を差し伸べた。
「立てる? 柚香ちゃん」
「は、はい。お姉様」
「そう。ごめんねぇ~。柚香ちゃんを探していたのだけど、まさかこんなところに連れ込まれているとは思っていなかったの」
黒子は申し訳なさそうにしながらも、柚香の手を掴むとそっと抱き起こすと、いつのまにかに距離を取っていた呉羽たちを細目を開いて、すっと睨み付けた。
「なにを見ているの? 呉羽ちゃんたちは、さっさと行きなさい」
「で、ですが、黒子お姉様」
「なぁに?」
「そ、その」
「だから、なに? 聞いてあげるからさっさと言いなさいよ」
黒子の口調が変わる。普段のおっとりとしたものから一切の間延びがないものへと変わっていく。
その迫力に取りまきだけではなく、呉羽までもが言葉を失っていく。
「なにも言わないのであれば、さっさと散りなさい。私は柚香ちゃんの手当をしないといけないし、今後の話をすることになっているの」
「こ、今後の話、ですか?」
黒子が言った「今後の話」についてを柚香は痛む体に鞭を打ちながら尋ねた。黒子は一転し笑顔を浮かべると──。
「そう、今日から私が柚香ちゃんの教育係になるって話~。今後はよろしくねぇ~」
「え?」
「「「「は、はぁ!?」」」」
──とんでもないことを言い出したのである。その言葉に柚香は一瞬ぽかんとあ然とするが、呉羽ほか取りまきたちは愕然としていた。
呉羽たちの声に黒子はため息交じりに反応する。
「なに? あなたたちまだいたの? さっさと散りなさいよ」
黒子は呉羽たちがまだ立ち去っていないことに呆れていた。
だが、当の呉羽たちにしてみれば聞き捨てならないことであった。
「お、お待ちください、黒子お姉様! なぜお姉様がそのような子の教育係に!」
「柚香ちゃんが優秀だからに決まっているでしょう? そのうえ、早苗お姉様や藍那お姉様もお認めになるほどにご当主様方への忠誠心もある。まだ見習いから脱したばかりだから、二十位という地位にしたけれど、私としてはもっと上の地位でもいいくらいなのよ」
「う、嘘。そんな子が」
「口の利き方には気をつけなさいね? 呉羽ちゃんたちはもう柚香ちゃんよりも序列は下なの。今後は相応の口の利き方をしなさい。じゃないと、あなたたち四人の序列が最下位周辺になると思いなさい」
黒子はうっすらと笑いながら言う。その言葉に呉羽たちは揃って体を震わせると、一斉に逃げ出した。
逃げ出す呉羽たちに背中を見やり、黒子は吐き捨てるように「本当に愚物なのだから」と呟いた。
「さぁて。柚香ちゃん、行きましょうかぁ~」
「えっと、どちらにでしょうか?」
「うん? そんなの医務室、あぁ、いや、第二応接室の方がいいかしらねぇ~」
「え? 第二、ですか?」
黒子は頬に指を当てながら言う。その言葉に柚香は不思議そうに尋ねた。
柚香の知る限り、第二応接室は広いだけの部屋である。
二十畳くらいはあるが、ほぼ使われることがない部屋だった。
そんな部屋になぜ連れて行かれるのかがわからなかった。
が、当の黒子は「医務室よりも面倒がないし」と意味のわからないことを言う。
「まぁ、とにかく。すぐに向かおうかぁ~。そのまま今後の話もするから、今日の柚香ちゃんのお仕事はそれでおしまいねぇ。というか、それだけで今日のお仕事が終わると思ってねぇ」
ふふふ、と笑う黒子。呉羽たちと対したときのような苛烈さはなく、元のおっとり美人へと戻っていた。
その変化に改めて凄い人だなぁと思いながら、柚香は黒子に肩を貸して貰いながら、第二応接室へと向かっていったのだった。




