48話 戻ってきた日々
フクロウの声が聞こえていた。
タマモはぼんやりとしながら、暗闇の中で薄らと見える桜を眺めていた。
会場内で灯りと呼べるものは、ほとんどない。せいぜいが提灯がところどころで吊られているくらい。
提灯の数はそれなりにあるものの、それだけでは会場内を明るく照らすことはできないが、真っ暗というわけでもない。
吊られている提灯によって、桜並木がほのかに照らされていた。
ほのかに照らされる桜並木を、タマモはぼんやりと眺めながら、桜の古木に背中を預けていた。「闘衣」を脱ぎ、その下の「軽鎧」を半端に崩しながら。
ファッションというにはいささか無理があるほどに、「軽鎧」を半端に着崩すタマモ。その首筋、正確には鎖骨の上辺りに歯形がくっきりと残されていた。
残されていたのは歯形だけではなく、タマモの首筋には赤く腫れた痕が残されている。その痕はいくらか残っているものの、そこまで多くはない。
が、元々肌が白いタマモに刻みつけられたそれらは、とてもよく目立っていた。
もっとも目立つのはあくまでも現在の半端に着崩した状態であるからだ。
本来の状態であれば、ちゃんと「軽鎧」も「闘衣」も身につけていれば、しっかりと隠せる程度のものである。……あくまでもタマモはだが。
「……ん」
タマモの視界に桜並木と提灯以外のものが映り込む。それは黒みが掛かった緑色の立ち耳だった。
立ち耳とともにタマモは、艶めかしい声を聞き取った。視線を下げるとそこにはタマモの腕の中で身じろぎをしたアンリがいた。
アンリはタマモの「闘衣」に包まっていた。「闘衣」の下は普段はほぼ露わにならない肌が見えており、その肌にはところどころで、タマモの首筋にある痕が刻まれている。
その痕はタマモの首筋の比ではなく、それこそ数えるのも億劫になるほどの数が刻まれていた。
「……」
アンリの肌に刻まれた痕を見て、タマモは「やりすぎましたかね」と冷や汗を流す。
アンリの肌の痕は、タマモが頑張りすぎた結果である。
その結果を前にタマモは「頑張りすぎてしまった」と若干の自己嫌悪に陥っていた。
自己嫌悪しつつも、その口元はわずかに緩んでいる。が、すぐに右手で口元を押さえるが、緩み続ける口元を押さえきることはできなかった。
「……エリセに怒られちゃいそうですね」
口元を押さえながらタマモは、ここにはいないもうひとりの世話役であるエリセを想った。
アンリとこうしてふたりでいるのも、すべてはエリセによる計らいである。
曰く、「アンリちゃんはちょっと素直じゃないだけだから」ということで、ふたりで少し散策してくるように言われたのだ。
もともと、アンリから「「お話」をしよう」と言われていたが、そこにエリセがふたりで行ってこいと言われたのだ。
その結果が現状である。
「……我ながら節操ないなぁ」
気持ちを抑えきれなくなり、気付いたらアンリを組み伏していたのだ。
その後は無我夢中になり、アンリがダウン&気絶するという現状になってしまったのである。
すでにかれこれ一時間ほどは、こうしてアンリを抱えながらひとり桜を眺めていた。途中からは夜桜となったものの、いまだアンリが目を覚ます気配はない。
いまも身じろぎをしたものの、その目は閉ざされたまま。幸せそうにタマモの「闘衣」の裾を握りしめながら、包まっていた。
包まるとはいうものの、さすがに体格の差があるためか、アンリの全身を覆い隠せてはいない。
見えてはいけない場所はきっちりと隠すことはできているが、白く細い脚は露わになっている。
「……」
普段から見慣れている脚ではあるものの、今日はなぜかやけに艶めかしく感じられてしまい、いまのアンリの姿はタマモにとっては目に毒であった。
だからといって目を逸らすこともできなかった。
それにいまはまだましな方。いや、ましになったのだ。
なにせいまの状態になったばかりのときは、アンリは荒い呼吸をくり返していたのだ。それもタマモに密着しながらである。
いまの態勢はタマモが古木に背中を預け、そのタマモにアンリが寄りかかるという形である。
当然、密着するし、「闘衣」の下は素肌であるため、普段よりもアンリの体の柔らかさやぬくもりがダイレクトに感じられた。
そこに荒く早い呼吸を首筋に直に掛けられていたのだ。
つまり理性を常時ごりごりと削られていたのである。
だが、当のアンリは意識がない。そんなアンリにいかがわしいことなどできるわけもない。
タマモはこの一時間を悶々としながら過していたのだ。
まぁ、そうなったのもタマモの自業自得であるため、誰かに話をしたところで同情くらいはされるかもしれないが、「自業自得でしょう」と言われるのはタマモは自覚していた。
「……今後は頑張りすぎない程度に留めましょうかね」
少なくともアンリ相手には、手心を加えようとタマモは決心する。
……たぶん、無理だろうけれどと思いつつも。
それくらいに気を失うまでのアンリは、タマモの自制心を嘲笑うほどの存在だったのだ。本人にとってみれば、そんなつもりはないだろうけれど、タマモにとってはまさに魔性であったのだ。
おそらく、今後もタマモは頑張りすぎてしまうことであろう。
そこにエリセも加われば、それこそ逆にタマモが倒れかねない。
そんな日々を思うと、いまから戦々恐々としてしまいそうになる。
その一方で怖い物見たさで一度経験したいなぁとも思ってしまっていた。
「我ながら節操ないなぁ」と改めて思いながら、タマモはこれからのことを考えていた。そのとき。
「ん~? 頑張られたみたいどすなぁ? 旦那様」
くすくすと背後から笑い声が聞こえてきたのだ。
びくんと背筋を震わせながら、恐る恐ると振り返ると、顔をほんのりと赤く染めたエリセが古木に寄りかかるようにして立っていたのだ。
「エリセ、いつのまに?」
「ん~。いまちょうどどすえ」
「……そ、そっか。あの、その、これは」
「怒ってまへんよ。こうなるやろうなあ思てましたさかい」
「そう、なの?」
「ええ、そうどすえ」
顔を赤くしながら、エリセはニコニコと笑っていた。笑いながら、その唇を赤い舌でちろりと舐め取った。
ぞくっとするようななにかをタマモは感じた。感じはしたが、それは決してタマモを害するものではなく、むしろ、目を離せなくなるような魔性を感じられた。
「エリセ」
「……隣失礼しますえ」
エリセは笑いながら、タマモの隣に腰を下ろした。
酒の匂いと汗の臭い、そしてエリセ自身の香りが鼻をくすぐった。
「旦那様」
エリセが息を吹きかけるようにして、タマモに声を掛けた。
びくんと体を震わせつつも、タマモは「なに?」と顔を向けると、エリセの顔がすぐそばに迫っていた。
軽やかな音が聞こえた。
酒の味がした。
強い酒の味とエリセ自身の味が口の中に広がるとともに、水音がこだましていく。
「……今日は譲ったけれど、明日からはどんどん攻めるさかいな。お覚悟を」
息苦しさを感じた頃、エリセが離れた。肩を上気させながら、エリセは妖しく笑う。その笑みにどきりと胸を高鳴らせながら、タマモは「お手柔らかに」とだけ伝えた。そう言うので精一杯だった。
エリセは「んふふふ」と笑うだけで、それ以上のことは言わなかった。
言わないまま、再びエリセが顔を近づけてくる。どうしたものかと考えている間に、距離はなくなって──。
「……エリセ様、ずるいです」
──エリセと触れ合おうとしたところで、アンリの声が聞こえてきたのだ。
エリセが動きを止めるのと、タマモが視線を提げるのは同時だった。
恐る恐るとタマモが視線を下げると、いつのまにかまぶたを開けていたアンリが、むすっと頬を膨らましていた。
タマモは「これは」と言い繕うとしたが、それよりも早くエリセが動いていた。
「ん~、見せつけまひょ」
そう言って、エリセが元々なかった距離を一気に詰めた。
軽やかな音が再び鳴り、その音にアンリが「あー!」と不満げに叫ぶ。
その様子はまるで少し前に戻ったようだった。
ようやく帰ってきたんだとタマモは思った。
いろいろと掛け違えはあった。
それでもようやく戻れた。
タマモは涙ぐむ。
だが、ふたりの目にはタマモの涙は見えず、アンリが一方的にいいより、エリセが受け流すというかつて通りのやり取りが行われていく。
そんな光景にタマモは満ち足りたものを感じながら、いまという光景に身を任せていった。




