47話 花見酒
桜並木が美しかった。
おちょこに注いだ酒の水面に咲き誇る桜の花々が映り込む。
映り込んだ水面を、ほぅと息を吐きながらゆっくりと呑み込んでいく。映り込んだ桜の花々はもう見えない。
そばに置いていた徳利を手にして、再びおちょこに注いでいく。
「ふぅ、きれいやねぇ」
再びおちょこの水面に桜の花々が映り込んでいた。今度はすぐに喉の奥に流し込みはせず、おちょこを左右に揺らしながら、水面を眺めていく。
「奥様、どうぞ」
フブキがつまみを出してくれた。出してくれたのは、魚の干物を炙ったものと干し肉と根菜を炒めもののふたつ。
エリセは箸を取り、それぞれを一口ずつ摘まんでは、酒とともに呑み込んだ。
「はぁ、おいし」
息をひとつ吐いてから、エリセは「ふふふ」と笑った。
「なんかおましたか?」
フブキがこてんと首を傾げると、エリセは「ん~?」と機嫌よさそうに笑っていた。
「旦那様とアンリちゃんのことでね~」
ひっくとえずきながら、エリセは揺らしていたおちょこを口元に運んだ。
少しずつ、注いだ酒を空けていく。酒の重みを感じなくなると、そっと口元から放すと、再び徳利を手に取った。
「奥様、飲みすぎでは?」
「ん~? そう?」
「完全にできあがってますで?」
「ん~?」
「ん~しか言えへんくなってますもの」
やれやれとため息を吐きながら、フブキが呆れていた。フブキに呆れられながらも、エリセは「ふふふ」と笑うだけだった。
「なんか楽しおしてねぇ」
「楽しい、どすか?」
「うん、楽しい」
頷きながら、エリセが再びおちょこを掌の中で転がしていく。おちょこの水面が左右に揺れていくのを見つめながら、エリセは再び笑っていた。
「んふふふ」
「……今日の奥様は変どすなぁ」
はっきりと「変」と言い切ったフブキに、エリセは「ひどーい」と唇を尖らせてから、おちょこに口を付けると、喉を鳴らしていく。
「はぁ、おいし」
「……明日は二日酔い決定どすなぁ」
おちょこを飲み干すと、エリセは自身の唇を舐め取った。そんなエリセを見やり、フブキがまたため息を吐いた。
ため息を吐きながらも、エリセのためにと新しい徳利を用意するフブキ。
フブキは意外とお小言が多いが、それもエリセのためであることをわかっているからこそ、エリセはフブキのお小言をちゃんと受け止めていた。
とはいえ、今回ばかりはお小言を聞く気はないようで、あっけらかんと受け流している。
「ねぇ、フブキ?」
「はい?」
「今ごろ、なにしてはるかな?」
「なに、って。そんなの」
「そんなの?」
「……」
「ふふふ、どないしたん?」
「……奥様はいけずどす」
「ふふふ、かんにんえぇ」
エリセの問い掛けに、フブキは顔をボンと真っ赤にしてしまう。
その様子にエリセは「かいらしいなぁ」と呟きながら、フブキが新しく用意してくれた徳利を取り、おちょこに注いでいく。
が、少し加減を誤りおちょこから、中身がこぼれ出していく。
エリセは「おっと」と慌てておちょこを口元に運んだ。
「……ん~、もったいないなぁ」
おちょこを空にしてから、エリセは自身の腕に伝う雫をゆっくりと舐め取った。
酒が入っているからなのか、その姿はやけに艶めかしく、幼いフブキでさえも、いまのエリセの姿にそれまで以上に頬を真っ赤にしてしまう。
「ん、どないしたん?」
零れた酒を舐め取ったエリセは、にんまりと口角を上げて笑った。とても意地の悪そうな笑顔に、「絶対弄られる」と頭を抱えつつも、フブキはしどろもどろになりながらも答えた。
「……お行儀悪いどすえ」
「ふふふ、そうやなぁ。……で、ほんまのところは?」
「……いけずどすえ」
「かんにんえぇ~」
かんらかんらと笑いながら、エリセはまたおちょこに酒を注いでいく。
「これでやっと対等。これからは遠慮なしにやっとなれんで」
おちょこに酒を注ぎながら、エリセは嬉しそうに笑っていた。その言葉にフブキは怪訝そうにしつつ尋ねていた。
「……塩を送られるのんはどうか思うけど」
「ん~? フブキは反対やったん?」
「反対とまでは」
「でも、思うことはある、と」
「……いまのままであるなら、正妻は奥様どす。なのにわざわざアンリ様に塩を送る意味はあらへんかと」
「アンリちゃんのこと、嫌い?」
「好かんやらちゃうく、うちは奥様の補佐どすさかい」
「そう。……そうやなぁ」
フブキの正直な言葉を聞いて、エリセは一度頷いてから、思案していく。
「うちはね。アンリちゃんも好きなんや。そやさかい、あのまま煮えきれへんままでいてほしゅうなかってん。そさやかい、今回だけは助け船したったんや」
「今回だけは?」
「そう。今回だけ。さっきも言うたけど、これからは対等やさかいね。もう遠慮はしいひん。どんどん攻めて、正妻の座をもらうつもりやさかいね」
ふふふと笑いながら、エリセは注いだおちょこを傾けようとして、「あら?」と首を傾げる。いつのまにか、おちょこの中は空になっていたのだ。
「あらら、もうなかった。……こっちもあらへんか。フブキぃ~?」
「はいはい」
徳利を振り、中がないことを残念がりながら、エリセはフブキにおかわりを催促する。
催促されたフブキは、ため息を吐きつつ、おかわり分の徳利を差し出した。
「おおきにねぇ」と差し出された徳利を手にして、エリセはおちょこに酒を注ぐ。
酒を注ぎ、エリセはおちょこを頭上に掲げると、にんまりと口角を上げて笑った。
「……対等やさかいねぇ。もう助け船は出したらんよ。これからは文字通りのライバルやさかいね、アンリちゃん」
いま、ここにいないアンリに向かってそう宣言してからエリセは掲げたおちょこを口元へと運んでいった。
暮れなずむ夕日に染まる桜並木の中、エリセの花見酒は続いていった。




