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44話 調べとともに

 上機嫌な鼻歌が響いていた。


 少しだけ音程はおかしいが、おそらくは酔いの影響だろうとタマモは思いながら、その鼻歌をぼんやりと聞いていた。


 視界の端で静かに寝息を立てるアンリが見えるが、直視はできない。


 というか、直視しようにも鼻歌を口ずさむ当人に知られれば面倒なことになるからだ。


 少し前にちらりとアンリを窺っていたら、無理矢理顔を正面に向き直らせられたのだから。


 その際に、首から鳴ってはいけない類いの音とともに痛みが走ったのは言うまでもない。


 それからは視界の端でアンリを見やるだけで留めていたが、オーバージャケットである「闘衣」を、そのままで寝かせるのはと思い、掛けてあげた「闘衣」がずれ落ちつつある。


 春になったとはいえ、まだ若干の肌寒さはあるのだ。このままずれ落ちてしまい、そのまま眠ってしまったら風邪を引きかねない。


 そうなる前に「闘衣」を戻してあげたいのだが、そうするには鼻歌の歌い手の許可が必要なのだが──。


「どうしたん? 旦那様」


 ──その歌い手ことエリセは上機嫌に頭を左右に振りながら笑っている。


 当然、アンリには目もくれていない。エリセが見ているのは、自身の膝の上にいるタマモだけ。


 そう。タマモはいまアンリの膝の上からエリセの膝の上に移っていた。いや、移らされたという方が正しいか。


 タマモが抵抗するよりも早く、エリセは瞬く間にタマモを自身の膝の上に寝かせたのだから。


 あまりの早業になにをされたのか、タマモにもわからなかった。


 そもそも、なぜアンリの膝の上からエリセの膝の上に移動させられたのかも、タマモにはわからなかった。


 エリセからの説明は一切ない。


 それ以前に自分から話をしようと言ったくせに、エリセはいまのいままで楽しそうに鼻歌を歌うだけで、タマモに掛ける言葉さえなかった。


 タマモの装備である「闘衣」をアンリに掛けさせてはくれたので、話を聞くつもりはないというわけでもない。


 まぁ、話をしようと言って、こちらの話を聞かないというのは論外であるから、ある意味当然ではあるのだが。


「……アンリに掛けた「闘衣」がずれ落ちそうだなぁと思って」


「ん~? ……あぁ、たしかに」


 タマモが言うと、ようやくエリセはアンリを見やると、しきりに頷いた。


 どうやらタマモが言うまで、アンリのことを気にしていなかったようだ。


 まさに目もくれていない状態である。タマモは苦笑いしながら、「かけ直してきていい?」と尋ねると、エリセは「ん~」と唸ってから頷いてくれた。


「ありがとう」とお礼を言って、タマモはエリセの膝の上から起き上がり、アンリのそばへと寄ると、ずれ落ちていた「闘衣」を元の位置に、アンリの肩にかけ直した。


 その際、ふわりとアンリの髪の匂いが鼻孔を擽った。


 甘い香りだった。


 数ヶ月前に喪ったはずの香り。でも、その香りが再び戻ってきてくれた。


 でも、戻ったのはそこまで。タマモが知る、いや、タマモが愛するアンリは戻ってくれなかった。


「……」


 目の前にいるアンリは、タマモのアンリではない。アンリという名の別人に変わってしまった。


 それでも、アンリはアンリだと思っていた。いや、そう思い込もうとしていたし、そう思うべきだと考えてもいた。


 だけど、根っこのところでは、本心ではタマモはいまのアンリを、「アンリ」として認めていなかった。


 あれほど取り戻したかったのに。


 あれほど焦がれていたというのに。


 いざ再び手にしたら、なにもかもが変わってしまっていた。


 そのことにタマモはあえて気付かないふりをしていた。


 気付かないふりをしながら、いまのアンリと前の「アンリ」を比べてしまっていた。


 そしていまのアンリはタマモの求める「アンリ」ではないと断じていたのだ。


 なんて身勝手なのだろうかと、と自身の胸を掴むタマモ。


 アンリにしてみれば、「そっちが勝手に生き返らせたくせに、都合が悪くなれば捨てるのか」と言いたいところだろう。


 仮にアンリに同じことを言われても、否定することはできない。


 すべてはタマモの勝手なのだ。


 タマモが勝手に蘇らせ、勝手に悲しみ、そして勝手に区別してしまった。


 悪いのはアンリではない。タマモだ。


 わかっている。


 わかっているからこそ、いま込み上がる衝動を抑えながらなければならない。


 アンリにはもう触れてはいけない。


 触れれば触れるほど、悲しみが募ってしまうから。募った悲しみに耐えきれなくなってしまう。


 あぁ、本当に身勝手だ。


 死んだ人を蘇らせたくせに、タマモとの思い出がなくなった程度で別人に扱いしてしまう。


 アンリを都合良く振り回しているだけじゃないか。


 おまえのエゴでアンリを巻きこむな、とタマモは自身に告げる。


 もう、アンリはボクの知る「アンリ」ではないのだから、と。


 歪む視界の中、タマモはわずかに触れていた手を、アンリに触れていた手をゆっくりと引いていく。


 手は震えていた。


 ひどく寒そうに震えている。


 タマモは堪らなくなり、その場で膝を突き、地面を拳で穿った。


 荒い呼吸が漏れ出していく。


 呼応するように歪んでいた視界から涙がこぼれ落ちていく。


 こぼれ落ちた涙をタマモはどうすることもできなかった。


 どうすることもできないまま、タマモは涙を流していた、そのとき。


「……旦那様」


 背中にぬくもりを感じた。


 憶えのあるぬくもりだった。


 泣きながら振り返ると、そこには上機嫌に鼻歌を歌っていたはずのエリセが、悲痛そうな面持ちでタマモを見つめていた。


 頬をほんのりと赤らめているものの、それが酔いによるものなのか、それとも別のものなのかはタマモには判断がつかなかった。


「エリ、セ」


「……泣かんといて、旦那様」


「ごめん、ね」


「……謝ってほしいわけちゃうん。ただ、笑うてほしおす。ややこしいとわかってるけど」


「……笑うなんて、できないよ」


 自分の弱さに、いや、醜さに気付いてしまったら、笑うことなんてできなかった。


 どうしてこんなにも醜いのだろうか?


 どうしてこんなにも弱いのだろうか?


 どうして、どうしてこんなにも強くあれないのか。


 弱さとも醜さとも無縁でいたい、とまでは言わない。


 でも、せめてもう少し。ちょっとでもいい。強くあれないものなのだろうか。


 どうしてこんなにも弱いのか。


 どうしてこんなにも醜いのか。


 タマモは自身に問いかけるが、答えは出ない。答えが出ないまま、みっともなく涙を流し続けることしかできなかった。


「みっとものうなんかあらへんで。旦那様はえらい強い人どす」


 エリセが薄らと開いていた目を、大きく見ひらきながらタマモを見つめている。


「心眼」持ちのエリセだからこそ、いまのタマモが考えていることを読めたのだろう。美しい青の瞳を見つめながら、そう思っているとエリセがおかしそうに笑った。


「力は使うてまへんよ」


「え? でも」


「愛する人の気持ちを読めへんわけがあらへんやろう?」


 エリセの頬が鮮やかに染まった。きれいだと心の底から思いながら、タマモは「エリセ」とエリセの名前を呼んだ。


「アンリちゃんとのことを悩んでることは知ってます。……いまのアンリちゃんと前のアンリちゃんを区別してもうていることもまた、な」


「っ」


「……うちから言えることはひとつだけ。……アンリちゃんはなんも変わってなんかいーひんってこっとす」


「変わって、いない?」


「はい。変わってなんかいてはらへんよ。少しわかりづらいだけで、なんも変わってなんかいてはらんさかい」


 エリセは笑った。


 どう言えばいいのか。どう応えればいいのか、タマモにはわからなかった。わからないまま、エリセをじっと眺めていると、エリセが身を乗り出してきた。


 すぐに軽やかな音を立てて、エリセとの距離がなくなった。


 唇に触れるエリセのぬくもりを感じながら、整ったその顔をぼんやりと眺めていく。


「そやさかい安心して、アンリちゃんと向かい合うてくれやっしゃ。……ちょい大変かも、どすけどなぁ」


 距離をわずかに離してから、エリセはわずかに申し訳なさそうにしている。どうしたのだろうと思うのと、がしりと襟元を掴まれるのは同時であった。


「ほえ?」


 素っ頓狂な声をあげつつ、タマモは恐る恐ると顔を正面に向ける。


 そこには瞳孔を縦に裂けさせたアンリがいた。


「……Oh」


 想定外な光景にタマモは小さく唸る。


 だが、それで目の前にいるアンリという名の行かれる獣を止められるわけもなく──。


「旦那様?」


「な、なに?」


「「お話」しましょうか?」


「……ハイ、ワカリマシタ」


 ──タマモはエリセに後ろから抱きしめられたまま、見事な敬礼を以てアンリに応えるのだった。

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