43話 無意識
風が頬を撫でていた。
喧噪はない。物音ひとつさえないほどに静かで、寝心地はとてもよかった。
それでいて、心地よいぬくもりを感じていた。
ほどほどの固さのある、柔らかな枕。現実で使っている枕と変わらないくらいに心地いいが、確実にいつもの枕とは違っている。
ぼんやりとした意識の中で、徐々に意識を覚醒させながらタマモは現状の把握に務めていた。
務めているといっても、していることは単純にまがどこで、自分がなにをしているのかの確認だけ。
場所はまだわからない。
風が頬を撫でる感触から、外であることはわかるが、具体的にはどの辺りなのかはわからない。
意識がぼんやりとしているということを踏まえると、寝ていたのだろうということはわかる。
把握に務めてわかったことはそこまでだ。
それ以上のことはまぶたを開かないとわからない。
だが、そのまぶたを開くことを躊躇いたくなるほどに、いまはとても心地いい。
このまま再び眠ってしまいたいほどに、覚醒していた意識を手放してしまいたいという欲求に突き動かれそうになる。
いや、本当に眠ってしまおう。このまま心地よい眠りの中に落ちてしまいたい。タマモはそう思いながら、息を大きく吐き出しつつ、意識をゆっくりと手放そうとしていた。
「旦那様ぁ」
意識を手放そうとしたとき、不意に耳朶を打つ声が聞こえた。
とても聞き慣れた声。その声に手放そうとしていた意識が再び手中に収まった。
あれほど開きたくなかったまぶたが自然と開いていく。
そうしてまぶたを開いた先に見えたのは──。
「……アンリ?」
桜の大木とその大木に寄りかかりながら船を漕ぐアンリだった。
どういうわけか、タマモはアンリを下から眺めていた。なだらかな丘陵の先にアンリの整った顔が見える。
美しい黒みが掛かった緑色の髪、長い睫毛、形のいい鼻、柔らかそうな頬、そして小さな唇。順番にアンリの顔のパーツを眺めていた。
『──あんりは、だんなさまをおしたいして、おります』
不意に血まみれのアンリがフラッシュバックする。
赤い夕日に染まりながら、血まみれになったアンリ。その喉元を、いや、その白い肌を赤黒くしながら、光のない瞳でタマモを見つめていたアンリが、最初のアンリを失ったときのことを思い出してしまう。
「っ」
とっさに声が出そうになったのを抑え込む。呼吸は自然と早く、そして荒くなっていた。
息切れしたかと思うような呼吸を繰り返しながら、タマモは動悸を止めるべく、深く息を吐く。
少し前の眠りに落ちそうになったときとは、まるで意味合いの異なる吐息。その吐息に夢心地だった意識が凄まじい速さで覚醒していく。
「……そっか」
深呼吸を何度か行ってから、タマモはようやく現状を完全に理解できた。
「……もう誰もいないか」
念のためにとメニューを開くと、すでに強制ログアウトが行われる予定時間を超過していた。
もはやゲーム内に残っているプレイヤーはいない。全員がログアウトないし、強制ログアウトにより、この世界から離脱しているはずだ。
だが、プレイヤーと呼ばれる存在が離脱しようと、この世界にはなんら支障はない。
タマモは大きく息を吐きつつ、額をやや乱暴に腕で拭うと、そのまま視界を腕で塞いだ。
「……なにを考えているんだか」
視界を塞ぎながら、タマモは呟いた。
タマモが気にしているのは、つい先ほど思ってしまったことだ。
「なにが……だよ」
最初のアンリと思ってしまったこと。その言葉をタマモは気にしていた。
アンリはアンリだろうと思いながらも、タマモの中では、いや、無意識のうちに分けてしまっていたようだ。
いまのアンリと以前のアンリを明確に分けてしまっていた。
アンリはアンリだ。それは決して変わらない。変わらないはずなのに、タマモは別人として捉えてしまっていた。
タマモの中で燻る想いは、あくまでも以前のアンリ、最初のアンリに向けられたもので、いまのアンリ、二番目のアンリに向けられたものではない。
そんなバカな話があってたまるものかと思うが、無意識に浮かびあがった言葉を踏まえたら、そういうことなのだろう。
小さくため息を吐くタマモ。視界を塞ぐ腕を少しずらすも、相変わらずアンリは船を漕いだまま。どうやら深く眠っているようだ。
「……」
深く眠るアンリを見ていたら、急に視界に手が映った。
アンリの手ではない。もうひとつのタマモの腕がアンリに向かって伸ばされていた。その手をタマモは慌てて視界を塞いでいた手で止めた。
「……なにしているんだ」
力を込めながら伸ばしていた腕を自身のお腹の上に置いた。
「……本当になにをしているんだか」
弱々しい声、いまにも泣きそうな声でタマモは呟いた。
自分のしようとしていたことに、呆れてしまう。
タマモはいまアンリに触れようとしていた。
それくらい構わないじゃないかと思うも、いまのアンリに触れてはいけないとも思ったのだ。
どうしてそう思ったのかはわからない。
いや、本当はわかっている。
いまのアンリはタマモの知っているアンリじゃないからだ。
だから触れそうになったのを慌てて止めたのだ。
アンリだって、見ず知らずの他人に触れて欲しくはないだろう。
だからこそ、タマモは自制したのだ。
アンリに嫌われたくない。だから我慢したのだ。
「……どうしたものかな」
おやっさん一家に背中を押されたというのに、土壇場になって尻込みしてしまったような状況だった。
情けないと思うけれど、どれほど思ったところで体は動かない。
無意識下での自身の気持ちに気付いたからこそ、なにもできなくなってしまった。
おやっさん一家の言葉で動いた気持ちも、以前のアンリへと向けたものであり、いまのアンリに向けたものではないとわかってしまった。
だというのに、アンリに嫌われたくないとも思ってしまっている。
つまり、以前のアンリといまのアンリに明確に区分しながらも、アンリがアンリであるとも思っているということだ。
これほどまでに自分自身を愚かだと思ったことはない。
愚かにもほどがある。いい加減にしろと言いたくなった。
その一方で「仕方がないだろう」とも思ってしまう。
アンリを愛している。愛しているけれど、その想いがアンリには届かないのだ。いまのアンリにはタマモの想いはただ重たいだけ。
自分の想いと同じくらいの想いを抱いて欲しいなんて、バカなことを言うつもりはない。
どれほど大切に想ったところで、相手も同じように思ってくれるわけじゃない。
なのに、無理にそれを突き通そうとしたら、めでたく狂人のできあがりである。もしくはストーカーと言ってもいいかもしれない。
タマモは小さくため息を吐く。いったい何度目のため息だろうかと思いつつも、ため息が止まってはくれない。
どうすればいいのか。
どうしたらいいのか。
タマモにはわからなくなってしまった。
わからないということが、余計にタマモのため息を──。
「えい」
──増やしてしまうと思ったとき。急に視界が薄闇に覆われてしまった。
その際に聞き覚えのある声が聞こえた。それもやけに上機嫌な声がだ。加えて、酒臭い息を感じた。
タマモは再びため息を吐きながら、声の主に声を掛けた。
「なにしているの、エリセ」
「あら、気付かれた、ひっく」
声の主こと、エリセは上機嫌そうに言う。どうやらまだ酔っ払っているようである。
はぁと再度ため息を吐きながら、タマモは「手をどかしてくれる?」と頼むと、エリセは少し唸りつつも、「はぁい」と頷いて手をどかしてくれた。
再び開けた視界に耳まで真っ赤になったエリセの顔が飛び込んでくる。
「飲んでいたの?」
「そうどすえ」
「……飲みすぎ」
「あははは」
「いや、笑っていないでさ」
「旦那様のいけずぅ」
唇を尖らせながら笑うアンリ。その様子にタマモは頭が痛くなったが、まぁいいかと思うことにした。
「それでどうしたの?」
「ん~?」
「いや。ん~じゃなくて」
「旦那様とお話したいなぁ思て」
「お話?」
「はい。そないなわけでお話しまひょ、旦那様」
ふふふと笑いながら、エリセは覗き込むようにしてタマモを見つめていた。
タマモはその笑顔を眺めながら、小さく頷いたのだった。




