13話 吐露
胸の痛みに気付いたのは、いつからだろう。
最初は、病気に罹ったのかとさえ思った。
あまりにも唐突で、病気だと疑うほどの痛み。
そんな痛みに私はずっとずっと襲われていた。
そのせいで、当初は一度里に帰らせてもらおうかと思ったほどだ。
でも、よくよく経過観察してみると、どうも病気ではないことがわかった。
痛みは常にあるわけじゃなかった。
病気であれば、常に痛みを感じるだろうに、私が痛みを感じるのは特定の瞬間だけ。
それ以外で痛みを感じることがなかったので、病気ではないとわかった。
でも、わかったところで、その痛みの原因が見当もつかなかった。
……いや、見当はついていた。
ついていたけれど、どうしてとしか思えないことだった。
だって、私の胸が痛むときは、いつだってあの人を、旦那様を視界に捉えるときだった。
旦那様とお呼びするけれど、形骸化したようなものだと私は思っている。
かつての私はあの人を心の底から愛していたらしいということは知っている。
その証拠にあの人が私を見詰める目は、他の人を見詰めるときとはまるで違っていた。唯一同じだと思えるのはエリセ様を見詰めるときだけ。
あの人にとって、私とエリセ様が特別な存在であることは、その視線ではっきりとわかった。
わかったところで、私の感情があの人に向くというわけではないけれど。
この一月の間、私は常にあの人を観察していた。
観察しながら思ったのは、どうしてということ。
どうして、かつての私はこの人を愛していたのだろうかということ。
あの人のことを嫌っているわけじゃない。嫌ってはいないが、好いているわけでもない。そもそもその理由さえもなかった。
私の目に映るあの人は、「眷属様」として讃えるにはあまりにも不十分すぎるという想いだけ。
私の知る「眷属様」こと「金毛の妖狐」様一族の方々とは、とても偉大なる存在であるということなのだけど、あの人はとてもそんな偉大なる存在という風には見えなかった。
かといって、その肩書きを掲げて横柄な態度を取っているわけではない。
あまりにも俗すぎたと言えばいいのかな。
あまりにもあの人は平凡すぎていた。もっと言えば、あまりにも人らしかったのだ。
それこそ、どこにでもいるような、普遍的な意味での人らしすぎた。
伝承で語れる「眷属様」らしからぬ姿で、「これが本当に「眷属様」なのか」と思ったことは一度や二度じゃない。
むしろ、その名を騙っているだけの幼子じゃないのかと思えてならなかった。
でも、その髪や毛並み、そして瞳を見る度に、名を騙るだけの幼子という想像は簡単に消し飛んでしまう。
妖狐族は、火水風土の4つの属性に分かれている。それぞれの一族の者は、それぞれが司どる属性にちなんだ色の髪と毛並みを持つというのが一般的とされている。
でも、あの人の髪や毛並みは4属性のどれにも当てはまらない。
考えられるのは、あの人が「眷属様」であることだけだった。
加えて氷結王様方が、あの人を「眷属様」であることをお認めになられている。
「四竜王」陛下方のお膝元で生きる私たちにとって、「四竜王」陛下方のお言葉を疑うなどと許されないことだ。
だから、どんなに信じられなくても、あの人が「眷属様」であられることは事実だった。
そう、事実だ。事実と頭ではわかっていても、納得はできなかった。
あの人はあまりにも情けなかった。
あまりにも人でありすぎた。
笑ったり、泣いたりとすぐに感情を露わにするし、言葉遣いも子供っぽいし、背丈だってとても小さい。
正直な話、私があの人を好きになる理由がわからなかった。
というか、これのどこに惚れたのかとかつての自分に問いかけたい気持ちで一杯だった。
だから、この一月でひっそりとあの人を観察した。
この人のどこにかつての私は心を奪われたのか。その理由を探るために。
……そう、探った。探ったのだけど、どうしても理由がわからなかった。
わかるのは、あまりにもあの人が「眷属様」らしからぬ、伝承の中に登場する「眷属様」とはかけ離れた存在であるという事実だけ。
伝承の「眷属様」は思慮深く、穏やかだが、絶大なる力を操ることができるとされていた。
たしかにあの人はすべての要素を持ち合わせられていた。
それでも「これが「眷属様」なのか」という想いはどうしても禁じ得なかった。
びっくりするほどに普通すぎたから。そう、びっくりするほどにあの人は普通の人だった。
この一月はそれを再確認するだけで費やしたようなものだった。
その最中で感じたのが胸の痛みだった。
あの人を視線で追いかけるたびに、私の胸は張り裂けるような痛みに襲われた。
なんでこんなにも痛いんだろうと何度も思った。し、何度も考えた。
でも、どれほどまでに考えても答えは出なかったし、思いつかなかった。
わかったのは、あの人を視界に捉えるときだけ、私の胸は痛んだということだけだった。
あの人のことはなんとも思っていないはずなのに。
あの人のことを考えるたびに、胸が痛かった。
あの人のそばにいないだけで、どうしようもないほどに心細く感じられた。
そしてなによりも──。
『アンリ』
──見たことがない笑顔が、あの人の笑顔がどうしてか不意に浮かびあがった。
あの人が私に笑顔を向けることなんて、いままで一度もなかった。
笑顔を浮かべても、それは作り笑いでしかなかった。……不意に浮かびあがった笑顔のような、心の底から嬉しそうな笑顔とはまるで違う。
その笑顔が浮かびあがると、私の胸はおかしくなりそうなほどに高鳴った。
記憶なんてない。
思い出さえもない。
それでも。それでも、ここまで証拠が揃えば、あぁ、認めるしかない。
たしかに私はあの人をかつて愛していたのだということを。
でも、それはあくまでもかつての私であり、いまの私じゃない。
いまの私があの人を愛することなどない。愛する理由がなかった。
だというのに、どうしてだろう。
どうして、胸が痛くなるのだろう。
申し訳なさからだろうか?
あの人がかつての私を愛していることはわかった。
その愛情に応えてあげられないことへの申し訳なさからだろうか。
それとも、別の要因ゆえなのか。
どれほどまでに考えても答えは出なかった。
出ないまま、今日を迎え、そしていま私はエリセ様に胸の内を吐露していく。
たったそれだけ。
それだけのはずなのに、どうしてだろう?
どうして私の視界はいまこんなにも歪んでしまっているのだろうか?
涙が止まらなかった。
正直な気持ちを伝えるだけなのに、涙が止まってくれない。
頬を次々に涙が伝っていく。
止めどなく涙が零れていく。
わからない。
どうして?
どうしてなの?
どうして私はこんなにも悲しいの?
なぜ私は悲しがっているの?
わからない。
わからないよ。
どうして?
どうして私は──。
「……こんなにも胸が痛いのですか? 胸が痛い理由がアンリにはわからないのです、エリセ様」
淡々と告げているだけのつもりなのに、すっかりと涙声になっていた。
エリセ様は私をじっと見詰めている。フブキちゃんはなにを言えばいいのかわらかないようだ。わからないけれど、その顔はとても辛そうに歪んでしまっている。
「アンリはどうすればいいのでしょうか?」
しゃくり上げながら、エリセ様に尋ねると、エリセ様が仰ったのはたった一言だけだった。
「そんなん知らんわ」
エリセ様が仰ったのは、拒絶とも取れる短い一言だけだった。




