12話 舞い散る花と
風が吹く。
淡い桃色の花が風に乗り、宙を舞う。
淡い花びらは、意思を持つかのようにひらりひらりと宙を舞っていた。
舞い落ちる花々とは別に、古い大木にはいまだ大量の花が咲き誇っている。
その花を私はぼんやりと見上げていた。
「きれいやねぇ」
しみじみとエリセ様が呟かれる。その言葉に補佐役であるフブキちゃんも笑顔を浮かべて頷いていた。
「アンリちゃんはどない?」
エリセ様が小首を傾げられている。私も「きれいです」と頷くと「そう」とだけエリセ様は仰られ、再び大木を見上げられていく。
フブキちゃんは、エリセ様の隣に腰掛けながら水色の尻尾を揺るかに振っている。その様子はとてもかわいい。
「アンリちゃん」
「はい、なんですか、エリセ様?」
「体の調子はどない?」
「体の調子、ですか?」
言われた意味がよくわからなかった。特にこれと言って調子が悪いわけじゃない。
なのに、なぜエリセ様はそのようなことを言われたのか。
考えてみても答えは出なくて、私はただ首を傾げることしかできなかった。
「……さっきからぼんやりとしてるさかい、調子が悪いんかいなって思ってな」
そう言って、手にあるお茶を啜られるエリセ様。
「いまもせっかくフブキが容れてくれたお茶を、いつまでも飲まへんで冷ましてるし。温かい方がうまいお茶やさかい、冷ましたらもったいないよ?」
ふぅと一息を吐きながら、エリセ様が言われた。その言葉に手の中にあるお茶がすっかりとぬるくなっていることにようやく気づけた。
少し前までは湯気が立っていたのに、その湯気はすっかりとなくなり、ずいぶんとぬるくなってしまっている。
それどころか、いつのまにかお茶の水面に桜の花びらが浮かんでいた。
「ふふふ、そらそれできれいやわぁ。そやけど、もったいないことに変わらへんさかい」
私の手元の湯飲みを覗き込みながらエリセ様は笑われる。
たしかにお言葉の通り、お茶の水面に浮かぶ桜の花はなかなかに美しいけれど、せっかくフブキちゃんが淹れてくれたお茶だというのに、台無しにしてしまったようなもの。
フブキちゃんを見れば、フブキちゃんは気にしていないようで、満開の桜を楽しげに見詰めている。
「すみません、エリセ様」
「怒ってるわけとちがうで? ただもったいないなぁ思うただけやさかいね」
再びお茶を啜られるエリセ様。それだけだというのに、非常に絵になる光景だった。
お茶を啜るだけで絵になるなんて、本当に美人さんはすごい。
同性である私から見ても、エリセ様は見惚れてしまうほどに美しい。
整った顔立ちは言うまでもなく、その髪や同色の毛並みの尻尾も均整の取れたお体もすべてが美しい。
私たちの周囲で場所取りないし、お花見中の「旅人」さんたちも誰もがエリセ様に見惚れてしまっている。
もしくは、フブキちゃんに対してなのかもしれない。フブキちゃんはフブキちゃんでとてもかわいい女の子だ。
かわいいけれど、フブキちゃんはまだ幼い。その幼い子を相手に見惚れている人がいるとすれば、それはなかなかに危険な人だと思う。
たとえば、デント様とか。
あの方はあの方でかなり危険な人だ。
温和そうなお顔をしているのに、そのお顔の下には、あまりよろしくない感情が渦巻いているのは一目でわかる。
そしてそのよろしくない感情の矛先が向かっているのは──。
「そろそろ思い出した?」
「──え?」
「旦那様のこと」
言葉が一瞬出なくなった。エリセ様はじっと私を見詰めた。普段のようにまぶたを閉じているわけではなく、髪と同じ青色の瞳をうっすらと覗かせながら私を見詰めている。
「……」
「そう。まぁ、ゆっくりでええさかいな」
再び、エリセ様がお茶を啜り、ゆっくりと湯飲みを敷物の上に置かれた。そのことを察したのか、フブキちゃんは急須を手にして、エリセ様の湯飲みにお茶を淹れていく。
こぽぽという独特の音を立てながら、薄緑色のお茶が湯飲みの内側を満たしていく。
「どうぞ、奥様」
「おおきにな」
お茶の注がれた湯飲みを手にし、エリセ様がお茶を啜られ、「おいしい」と満足げに頷かれた。エリセ様のお言葉にフブキちゃんは尻尾をより大きく振っていく。
「……焦ることはあらへんさかいな」
「……はい」
「それにアンリちゃんが思い出さへんなら、うちとしては都合がええし」
ふふふ、とエリセ様は意地が悪そうな笑みを浮かべられた。
フブキちゃんは「奥様」と若干呆れたように釘を刺されるけれど、当のエリセ様は気にしていないようだった。
でも、私は。わたし、は。
「もういっぺん言うけど、焦ることはあらへんさかいな」
「……エリセ様にとって都合がいいから、ですか?」
「そやな。ライバルが勝手に脱落してくれるんやったら、うちとしては願うたり叶うたりだもの」
「……」
「そやけど、旦那様にとってはちゃうさかいな」
「っ」
「そやさかい、いまは待っとってあげる。そやけど、いつまでも待たへんさかいな?」
「……はい」
頷くだけで精一杯だった。
それでもエリセ様は言いたいことは言い終えられたのか、満足げにお茶を啜られる。
最後通牒のようなものなのかもしれない。もしくは、単純に発破を掛けられたのかもしれない。
「旦那様がお優しいからと言って、いつまでも厚意に甘えるな」とエリセ様は仰られたのだろう。
エリセ様の仰ることはもっともだ。もっともだけど、無理難題なことでもある。
私はタマモ様を便宜上「旦那様」とお呼びしている。
でも、私の中にはあの方への想いはない。正確には思い出すことができなくなっている。
エリセ様、ヒナギク様、レン様のお話だと私は自分でもどうかと思うほどに、あの人を愛していた。
それこそ話を聞くだけで、恥ずかしくなるほどに不器用でかつまっすぐすぎる想いを向けていたみたい。
その想いを私は忘れていた。いや、失ってしまっている。
嫌いになったわけじゃない。
単純に失っただけ。
洗い流されたように、私の想いは消えてなくなった。
その原因は私が一度死んだかららしい。
あの人は一度死んだ私を蘇らせた。でも、その蘇生が不完全で、私はあの人の記憶をすべて失った。その際にあの人への想いも失ったらしい。
でも、それを聞かされたからと言って、また同じ想いを抱けるわけじゃない。
まるでよくある悲恋のお話を聞いているような気分にはなった。でも、そこまで。それ以上の感情はいまだにない。
そう、ないはず。ないはずなのに、どうしてだろう?
ここ最近はあの人をよく見詰めてしまっている。
あの人の一挙手一投足を見詰めている自分がたしかに存在していた。
見詰めてはいるけれど、見惚れているわけじゃない。
あの人はたしかに「眷属様」ではある。でも、「眷属様」だからと言って恋愛感情を抱けるというわけじゃない。
そりゃ、世話役に選ばれたことは光栄だけど、それ以上の想いはない。
そう、想いなどない。ないはずなのに、どうしてだろう?
あの人のことを考えると、時を忘れてしまうのは。
あの人のことを考えているだけで、あっという間に時は経ってしまうのだろうか?
そしてなによりも──。
「……エリセ様」
「うん?」
「胸が痛いと思ったら、エリセ様はどうなさいますか?」
「……状況によるなぁ。病気ちゅう意味合いであったら、医者に診てもらう。そやけど、そうと違うんやろう?」
「……少なくともアンリにとってはそうです」
「なら、もう少し聞かしてもらえへんとなんも言えへんね」
エリセ様が私を見やる。話を聞こうと言って貰えた。ずっと。ずっと思い悩んでいたことだった。
でも、いままで言えなかった。その言えなかったことを私はゆっくりと紐解いていく。この怒りと切なさが入り混じった想いを。私はひとつずつ語る。
視界の端に舞い散る桜花が映る。宙に舞う散花といまの私は不思議と重なって見えた、というのは傲慢だろうけれど、それでも私は風に乗って消えていく花びらを見詰めながら、この胸の想いを紡いでいった。




