1話 朝靄の中を
朝靄が掛かっていた。
薄い灰色のフィルターが掛けられているように、やや向こう側は視認しづらい。
それでもところどころにある木々はちゃんと見えるし、咲き誇る花々もはっきりとではないが一応見ることはできていた。
木々の葉や花々の花弁に薄らと付着する朝露が、朝日によってわずかに煌めく様は非常に美しい。
それこそ、太陽が完全に昇るまで、その光景を見つめていたいと思うほどには。
「……きゅ!」
だが、そんな情緒を台無しにするような存在がいなければの話ではあるが。
ここは「南の平原」──「始まりの街」であるアルトの南門から出てすぐに存在する初心者用の4つのフィールドのうちのひとつ。
4つのフィールドのうち、最も優しいフィールドであり、そのフィールドに出現するのは「ウサギさん」こと「角ウサギ」と「憎き鷹」こと「ステップホーク」の二種類だけ。
ゆえに再序盤専用の狩り場として「南の平原」は、初心者プレイヤーに愛された狩り場である。
その「南の平原」にタマモはいた。
手には以前氷結王の依頼で、テンゼンとともに行ったチャーホ釣りのときに使用した釣り竿が握られている。
ただ、時折姿を現す「角ウサギ」を始めとしたモンスターの出現はややわかりづらい。毛皮や体色が靄とほぼ同じ色であり、靄と半ば同化しているのだ。
あくまでも「半ば」であるため、完全に同化しているというわけではない。
だが、半端に同化しているためか、複数での襲撃に遭いやすかった。
前方から「角ウサギ」がその特徴的な短槍を思わせる角を伸ばして突撃してきたかと思ったら、側面から別の「角ウサギ」も奇襲してくる。
もしくは、二方向からの「角ウサギ」の突撃に紛れて、頭上から「ステップホーク」が強襲を仕掛けてくることもあった。
昼間であれば、それぞれ単独での出現であるはずなのに、夜と昼間の間にあたる夜明け間際では、まだ夜の出現に引きずられているようだ。
夜は夜で「角ウサギ」が大軍となって襲いかかってくるという話だが、どちらにしろ殺意が高すぎるだろうと断ずるほかない光景である。
そんな光景が繰り広げられる中、タマモは悠然と「南の平原」を横断していく。
かつては強敵だった「角ウサギ」はもちろん、仇敵の「ステップホーク」の同時襲撃さえも、たやすく打ち払えていた。
それもおたまとフライパンの同時装備ではなく、おたま単独で打ち払えている。
正面からの突撃は、突撃に合わせておたまを振り下ろし、側面からの奇襲は振り下ろしたおたまで薙ぎ払い、上空からの強襲に関しては「五尾」の一本で捕まえてから調理するだけ。
「南の平原」はレベル1の初心者でもパーティーを組めば、「ステップホーク」とて倒すことができる程度。
そこにレベル20を超えているプレイヤーが踏み込んでいるのだ。苦戦などするはずもない。
しかも踏み込んでいるのはただのプレイヤーではなく、タマモである。
かつてのタマモであれば「南の平原」とて死地であったが、いまのタマモにとっては朝だろうと夜だろうと景色のいい散歩コースにしかなりえない。
加えて、散歩するだけにしては、副産物もそれなりに得られていた。
あくまでもそれなりであり、いまのタマモにとってはグレードはかなり落ちる。それでも「タマモのごはんやさん」を経営する現在では、ありがたい副産物ではあった。
角ウサギの肉
レア度1
品質C
角ウサギの肉。柔らかいが、やや野性味がある。調理の際には、香辛料を使うのが好ましい。
角ウサギの角
レア度1
品質C
角ウサギの角。角ウサギの代名詞とも言える角。武具に転用するのは短すぎるために難しい。
角ウサギの皮
レア度2
品質D
角ウサギの毛皮。野性生活のため、少々薄汚れている灰色の毛皮。思ったよりもふさふさはしていない。ちょっとべったり。
ステップホークの肉
レア度2
品質C
ステップホークの肉。出回る鶏肉に比べると筋張っているが、その野性味に一部の好事家からは人気がある。
ステップホークの嘴
レア度2
品質C
ステップホークの嘴。鋭く弧を描く危険な嘴だが、やや短いため、武具の転用には不向き。
ステップホークのモミジ
レア度3
品質B
ステップホークの特徴的な脚。鷹であるはずなのに、なぜか取得できるモミジ。強靱な脚であるが、煮物にも出汁取りにも流用できる。……君、本当に猛禽類ですか?
次々にドロップするモンスター素材。中でも肉類はいまのタマモでもありがたい。ありがたいが、いくらか突っ込みどころがある。
だが、いまのタマモはあえてスルーして平原の横断に専念して進んでいく。
ほどなくしてタマモは平原の中央、セーフティーエリアとなっている湖へと辿り着いた。
「お、来たにゃー!」
セーフティーエリアの湖には、人影がふたつあった。
ひとりはよく知る「通りすがりの釣りキチ」こと先日フレンドコードを交換したにゃん公望。「お魚大好き」という刺繍を背中に施した漢服を身につけた、猫の半獣人である。
そのにゃん公望の隣には、やはり猫系の獣人の少女がいる。
にゃん公望とは違い、半獣人ではなく、タマモと同じタイプの獣人──人の体に猫の耳と尻尾を生やしたタイプの獣人の少女が立っていた。
「おはようございますっす、タマモさん」
猫の獣人の少女は、礼儀正しくタマモに一礼をする。見た目の年齢はユキナや「一滴」の面々よりもいくらか年上な中学生くらいの少女である。
ユキナたち4人とはタイプが異なり、茶色の短髪に鼻に絆創膏、黒いジャージと丈の短いスパッツというスポーティーな見目の美少女であった。
「おはようございます、にゃん公望さん、七海ちゃん」
タマモはにゃん公望とスポーティーな猫系獣人こと七海に挨拶を返す。
にゃん公望はふたりに遅れて「おはだにゃー」といつも通りのマイペースっぷりである。
そんなにゃん公望に隣にいた七海は、慌てながら掣肘する。
「ちょっと、師匠。いくらなんでもその挨拶は失礼っすよ?」
「にゃ~? 俺と狐ちゃんはマブダチだから問題ないにゃーよ。にゃははは!」
にゃん公望を掣肘する七海だが、当のにゃん公望は鷹揚に笑うだけである。そんなにゃん公望に七海は頭を痛そうに押さえていた。
「すいません、タマモさん。うちの師匠がご無礼を」
「いえいえ、気にしていないですよ、七海さん。にゃん公望さんは、まぁ、前からこんな人ですし」
「そうそう、だから気にすることじゃないにゃー」
「それはタマモさんが言うべき言葉であって、師匠が言うべきものじゃないっすよ?」
「にゃっはっはっは、弟子に一本取られちまったにゃー!」
「笑い事じゃないっすよ。もう、師匠ってば」
大きなため息を吐く七海。ため息を吐きつつも、にゃん公望を慕っていることはなんとなくそのやり取りから感じられた。
にゃん公望を「師匠」と呼ぶからわかるように、七海は掲示板における「通りすがりの漁師」その人である。
にゃん公望曰く「とてもドラマティックな出会いで師弟の間柄になったにゃ~よ」といういうことらしいが、「釣り場に行く際にモンスターに襲われていたのを助けてもらっただけっす」というのが七海談である。
もっとも「助けてもらっただけ」という割には、にゃん公望を信望しているのは明らかだ。
加えて。ただの信望にしてはやや度を超している部分もあったりする。その証拠に七海の頬はほんのりと紅く染まっている。にゃん公望と一緒にいるとき、七海はいつも頬を染めているのだ。
だが、当のにゃん公望は七海の感情には気付いておらず、師匠と呼んで貰えることが嬉しくて、ついつい照れ隠しでセクハラ発言やらトンチキな発言をしてしまっていた。
そんなにゃん公望を見ても、七海の態度は変わらず、それどころかセクハラやトンチ発言をするたびに七海がにゃん公望を窘めるというのが、ふたりのいつものやり取りである。
なお、七海を見た生産板の住人曰く「犯罪一歩手前」や「あー、それじゃ奪っちゃっても仕方ないかー」や「これに懲りて変態からは卒業しろ」だのとコメントが飛び交った。
ちなみに、某ファーマーが七海とにゃん公望のやり取りを見て、絶叫を上げたのは言うまでもない。
曰く「なんでおまえがロリ嫁ゲットするんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーっ!」という魂の絶叫を上げたそうな。
某ファーマーの狂騒に七海は、怯えながらにゃん公望の背に隠れた。
隠れながらも「……よめ」と頬を紅く染めていたが、当のにゃん公望は「バカなことを言って、うちの弟子を怖がらせるんじゃねーにゃー! だからおまえに会わせたくなかったにゃーよ!」と七海の反応にまるで気付いていなかったのがなんとも業深い。
ゆえに、生産板では密かに「七海ちゃんがにゃん公望を落とす」と「にゃん公望が七海ちゃんの気持ちに気付く」のどちらが早いかのトトカルチョが行われていた。
……いまのところ、どちらもまだまだ先の話のようであるが。
そんな釣り師弟とタマモは「南の平原」のセーフティーエリアである湖で待ち合わせをしていたのだ。
その理由は全員の手にある釣り竿である。
そう、以前にゃん公望と「一緒に釣りをしよう」と交わした約束のその実行日が今日だったのだ。
「それじゃ、早速釣るとするにゃー。七海、狐ちゃんのサポートはおまえに任せるにゃよ?」
「はいっす。任せてください、師匠」
「にゃははは、そんなに肩肘張らなくてもいいにゃーよ。釣りは自然との対話にゃけど、肩肘張っていたら、釣れるもんも釣れなくなるにゃー。自然体が大事にゃよ、自然体が」
「はいっす!」
「にゃから……まぁ、いいにゃ。それじゃ狐ちゃん、楽しんでくれにゃーよ」
「はい、にゃん公望さん」
気合いが入りすぎている七海を見て、にゃん公望とともにタマモは笑った。どこか遠くを眺めるように、悲しそうに笑う。
そんなタマモの笑みを見て、にゃん公望はぽりぽりと後頭部を搔きつつも、「仕方がにゃいかにゃ~」とぼそりと呟きつつも、その手にある釣り竿をゆっくりと振っていく。
七海とタマモもにゃん公望に合わせて釣り竿を振るう。
ぽちゃんという音を立てて、湖に浮きが浮かぶ。
相変わらず朝靄が掛かっているが、その朝靄も少しずつ太陽が昇るにつれて薄れていく。
独特の澄み切った空気の中、タマモはにゃん公望の言う「自然との対話」となる釣りへと意識を向けていく。……どうすることもできない悲しみと向き合いながら。




