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81話 夜明け前

 水の流れる音が聞こえてくる。


 せせらぎと言っていいほどに、その音はとても静かなものだった。


 時折、フクロウの声も聞こえていた。


 もしかしたらミミズクという可能性もあるだろうが、せせらぎの音をかき消すほどの声ではなかった。


 むしろ、せせらぎと相まって、静けさをより強調してくれている。


 そんな静けさの中、タマモはぼんやりとしながら、空を眺めていた。


 星々が浮かびあがる空。


 まるで本物の空のように、その輝きはとても美しい。


 だが、この空は本当の空ではない。


 タマモがいるのは、「水の妖狐の里」だった。現在は、その里の入り口近く、エリセ曰く試練の場がある森の中だそうだ。


 妖狐の隠し里には、里長の試練を乗り越えなければ、脚を踏み入れることはできない。


 試練自体は、どの里の試練でも構わず、乗り越えた資格を持ってさえいれば、どの里にも出入りは自由となる。


 ゆえに、入り口近くの森の中は、本来であれば試練の場であるものの、すでに資格持ちのタマモにとってはただ深い森の中という程度。


 それも森林浴にちょうどいいくらいの場所という印象しかない。


 そんな森の中にタマモは地面に横たわりながら、夜空を見上げていた。


 夜空を見上げている間も、せせらぎの音とフクロウらしき声は聞こえていた。


 昼間であれば、もっと動物や虫の声で騒がしいのだろうが、夜間ではほとんどの動物は寝静まっていた。


 起きているのは夜行性の動物くらいだが、その中でももっとも声が大きいのがフクロウらしき動物のものだった。


 その鳴き声とそばを流れるせせらぎの音。そのふたつとともにタマモは隣から聞こえる寝息を聞いていた。


 ちらりと視線を逸らせば、そこには着衣がいくらか乱れたエリセがいる。首筋や胸元にはいくつもの紅い印が刻み込まれている。


 タマモは眠るエリセの前髪をわずかに払った。エリセの額にはいくらか汗の滴が浮かんでいて、その汗によって湖水を想わせるようなエリセの髪が肌に張り付いていた。


 払わずとも、エリセの美しさが損なわれることはない。


 それでもタマモはエリセの前髪を払っていた。


 単純にエリセに触れていたいという想いがあった。そのぬくもりをわずかでも感じていたかったのだ。


 自然と伸びた手で、張り付いた前髪をそっと払う。エリセを起こさないように注意しながら。


「……ん」


 それでもエリセはわずかに身動ぎをした。身動ぎをするものの、起きる気配はなかった。


 よかったと安堵するタマモ。


 自分勝手に求めたうえに、自分勝手に触れて起こしてしまったら、罪悪感が止めどなく溢れてしまいそうだったのだ。


 それでも現状を踏まえると、「やっぱりやりすぎだったなぁ」と思わなくもない。


 最初は、里長の屋敷で待っている聖風王に会いに行くつもりだったのだ。


 だが、今日の試合や観戦、そして最後のバルドとのやり取りで、タマモの中で闘争本能と言うべきものが満ちあふれてしまっていた。


 特に最後のバルドとのやり取りが効いてしまい、自分を抑えることができずにいたのだ。


 それでもおやっさんの屋台から離れるまでは、どうにか自制できていた。


 だが、エリセとともに「水の妖狐の里」に赴いたら、もう自制はできなかった。


 気付いたときには、「人目がないところ、近くにある?」と尋ねていた。


 その問いかけにエリセは、頬を染めながら「……試練の場が」と言ったのだ。


 タマモの雰囲気や口調から、タマモの内心を読み取れたからなのか、エリセは本当にすぐそばの森の中を指差したのだ。


 森を指差されたときは、さしものタマモも驚いてしまったが、抑制が効かない自身の現状と期待の篭もった瞳を向けるエリセを見たら、居ても立ってもいらなくなった。


 気付いたときには、「五尾」を用いて姿勢を制御しながら、エリセを抱きかかえて、闇に染まる森の中に踏み込んだ。


 その後のことは、現在のふたりの姿を見れば、お察しとしか言いようがない。


「……無茶させちゃったかな?」


 ぼそりとつい少し前までの自分の行動を振りかえり、罪悪感に蝕まれつつも、なんとも言えない高揚感がタマモの中に広がっていた。


 それは達成感とも独占欲とも似ているものだった。強いて言えば、そのふたつを合わせたというところだろうか。


 そんな独特な感情を胸の内で彩らせながら、タマモは眠るエリセをじっと見つめていた。


「外でいたすというのは、なかなか飛ばしておるのぅ、婿殿」


 じっとエリセを見つめていると、いきなり聞き馴染んだ声が耳朶を打った。


 恐る恐ると声の聞こえた方を見やれば、そこにはいつものようにぷかぷかと宙に浮かんで、にまにまと口角を上げて笑う聖風王がいた。


「……どこからですか?」


 なんでとか、どうしてとかは聞かず、どこから見ていたのかと尋ねるタマモ。その問いかけに聖風王はいつもよりもだいぶ抑え気味にかんらかんらと笑った。


「安心せよ。エリセが寝落ちしてからじゃよ。じぶんと帰りが遅いのぅと思って、里の中を飛んでいたら、おぬしらの気配がこの場から感じてなぁ。この時間に森の中と来れば、邪魔をするのも悪いかと思い、エリセが寝静まってからこうして来た所存じゃ」


「……見ていたわけではないんですね?」


「さすがに、そこまで趣味が悪いつもりはないぞ?」


 心外だと言わんばかりに、聖風王が唇を尖らせていく。


 その様子を眺めつつ、タマモは伸ばしていた右腕を、エリセの頭の下に伸ばしていた右腕を引いた。


 代わりに「五尾」のひとつをエリセの頭の下に差し込む。右腕よりもはるかに上等な枕になるはずなのだが、エリセはどこか不満げに顔を歪めている。


「……ごめんね」


 タマモはエリセの額に唇を落とす。汗の味が口の中に広がるも、不快感はなかった。


「見せつけてくれるのぅ」


 声を抑えながら笑う聖風王。


 タマモはその場で正座をしつつ、聖風王と向き合う。


 すると、聖風王の顔つきが変わった。


 笑みは消えて、真剣な顔を浮かべていた。


 自然とタマモの背筋はよりまっすぐに伸びた。


 それを見届けたかのように、聖風王は口を開く。


「さて、婿殿よ。そなたにひとつ聞きたいことがある」


「……なんでしょうか?」


「そなたは、取り戻したい女子がおるそうじゃな? 氷結めにも聞いたが、なんでもエリセ以外にも嫁がおるそうではないか。そしてその女子は、そなたの前で命を落としてしまったとも聞く」


「……相違ありません」


「左様か。して、我が聞きたいのはその女子のこと。そなたはその女子とエリセ。どちらを愛しているのじゃ? よもや両方とは言うまい? どちらが遊びで、どちらが本気なのか。それを」


「両方とも本気です」


 聖風王の言葉を遮るようにして、タマモは告げる。


 聖風王は言葉をなくして、じっとタマモを見つめている。


 感情のない瞳だった。


 背筋がぞっとしそうになりながらも、タマモは決して負けまいと聖風王を見つめ返す。


 フクロウの声とせせらぎ、そしてエリセの寝息。その3つだけがその場で響いていた。


「……左様か」


 どれほどの時間が経っただろうか。


 時間の経過は曖昧だった。


 曖昧になりながらも、タマモは聖風王を見つめていた。


 その視線に折れたと言うようにして、聖風王は頷いた。


「愛する者を幸せにする。それはたったひとり相手でも途方もないほどに苦労を要する。それがふたりとなれば、より一層じゃ。だが、婿殿、そなたであれば問題はなかろう。そしてそなただからこそ、我らが術、そして流派はより輝きを増すことになる」


「……どういうこと、でしょうか?」


 話の流れがいまひとつ理解できなかった。エリセとアンリを幸せにする。その苦労を語っていたはずだったのに、いきなり聖風王を始めとした「四竜王」の禁術と流派の話になった。どうしてそのふたつの話になったのか。タマモは理解できずにいた。


「単純なことよ。我らが流派、我らが術。その双方ともに必要なものがある」


「必要なこと」


「うむ。それは守るべき者を持つということじゃ。守るべき者を、その背にいる者への想いが強ければ強いほど、我らが術、流派はより強力になる。「大切な誰かを守りたい」という心こそが肝要となるのだ。ゆえにそなたであれば、いずれは我らよりもはるか高みへと至れるであろう」


「ボクが」


「うむ。そなただからこそじゃ。そのために、夜が明けたら手解きを再び行う。深奥へと至れる道筋をそなたに刻み込もう」


 聖風王の視線は鋭かった。それでもタマモは力強く頷いた。聖風王は嬉しそうに頷くと、「では、また夜明けにのぅ」と言い残して、ふっと姿を消す。


 姿を消しても、その場には聖風王がいた証とも言うべき、清冽な空気が漂っていた。見た目や雰囲気だけであれば、エルドよりもよっぽど神様らしく感じられた。ただ、言動がいささか問題なのが残念ではあるのだが。


「……夜明け、からか」


 まだ夜明けには遠い。


 であれば、いまはもう少しだけエリセを感じていたい。


 視線を向ければ、エリセはまだ眠っている。


 肌寒いからなのか、少し丸まるようにして縮まって眠っていた。


 年相応とは言えない寝姿に、タマモの頬は自然と綻んだ。


 エリセの隣に横たわると、「五尾」の残りの4つを掛け布団の代わりにして、自身とエリセを包み込んだ。


「……頑張るね、エリセ」


 目の前で眠る愛しき人に向かって、タマモは笑いかけた。


 返答はなかったが、それでいいと思いながら、タマモはそっとまぶたを閉じた。


 すぐそばからエリセのぬくもりを感じながら。


 夜明けまでのわずかな時間を微睡みに費やしていった。

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