35話 拡がる世界と踏み込むとき
タマモは目を見開いていた。
目の前に広がる光景にただ驚いていた。
(……ここってこんなに広かったでしたっけ?)
ヒナギクが作った訓練スペースは、10メートル四方の広々としたもので、それ以上開拓する必要はないほどには広い。
その訓練スペースは昨日までとなんら変わってはいない。ヒナギクも拡げたとは言っていなかったし、タマモ自身いつもと変わったようには見えなかった。
だが、いまタマモはその訓練スペースがいつもよりも広大に感じられていた。
(ログハウスってあんなに遠くにありましたっけ?)
近くにあったログハウス。いままでは全体像は見えていなかったのに、いまはその全体像が見えていた。
(たしか軒下くらいしか見えていなかったはずだったのに)
いままでログハウスは訓練スペースからは軒下までしか見えていなかった。
がいまは屋根の上から床下まではっきりと見えていた。
いまいるのは訓練スペースの真ん中あたり。昨日までも何度も立った位置だったが、その位置から見えなかったものが見えている。とても不思議な感じだった。
(もしかしてこれが兜の?)
考えられるのは兜をいままで装備していたからということくらいだろう。
視界を塞ぐものがなくなった。
たったそれだけのことが、視界を広くさせてくれたということなのか。
(たったあれだけのことで?)
あまりにも変わったことに驚きを隠せないタマモ。
しかし変化はそれだけではなかった。
──カサ
(なんでしょう、いまの音?)
やや強めの風が吹くと同時に妙な音がした。擦れた音というべきなのか、いつもなら獣人であっても聞き取りづらい音であるし、強めの風が吹けば聞こえなくなるような、とても小さな音であればなおさらだ。
その聞き取れない音がした方へと顔を向けるとなぜかヒナギクが真後ろに立っていた。
「ヒナギクさん?」
「ふふ、気づけたね。でもそっちはどうかな?」
ニコリと嬉しそうに笑うヒナギク。言っている意味がよくわからない。なにを言っているのだろうかと思っていると、風を感じた。
(あれ、違うぞ?)
自然に吹いた風ではない。
自然に吹いたのではなく、空気を切り裂いたために生じた風。生物が起こした風。
気づいたとき。タマモはその場にしゃがみこんだ。
ほぼ同時にそれまでタマモの頭があった場所をレンの腕が薙ぎ払うようにして振り抜かれていた。
「れ、レンさん?」
レンの名前を口にしつつ、前髪が数本宙を舞うのを眺めるタマモ。そんなタマモを無表情で眺めるレン。
「れ、レンさん? なにが──っ!?」
レンに事情を尋ねようとしたとき、タマモは再び音を聞いた。大きく跳び跳ねる音だ。
とっさに左に転がる形で移動すると、ドォンという大きな音とともに土煙が舞った。
「こ、今度は──」
なんですかと言おうとしたタマモに向かって、土煙の向こうからまっすぐに腕が伸びてくる。
後ろへと飛び下がるタマモ。しかし腕はまだ伸びてくる。
(まっすぐ下がっちゃダメだ!)
まっすぐ下がっては腕から逃れられない。着地と同時にタマモは右に跳んだ。
「ありゃ、逃げられちゃった」
右に跳んですぐに土煙の向こう側からヒナギクが現れた。
その顔は残念そうだが、それ以上の喜びを感じられた。
「ひ、ヒナギクさん! さっきからいったいなにを──」
「喋っている余裕なんてあるの?」
「──え?」
不思議そうにするヒナギクの言葉を一瞬理解できなかったが、頭上に影が差したことと、肌に冷たいなにかが突き刺さったことで異変に気づいた。
顔を上げながらも斜め後ろに飛び下がると、頭上にレンがいた。どういう手段を使っているのか、追尾するようにタマモ目掛けて来ていた。
だがタマモに向かってきているのは、レンだけではない。止まっていたはずのヒナギクもすでにも追撃を仕掛けるべく踏み込んできていた。
(上と下の同時攻撃!?)
いくらなんでもやりすぎだろうとは思うが、ヒナギクもレンも止まらない。そもそも止まる気もないのだろう。
ふたりとも笑みを、いや、表情を消しての攻撃を仕掛けて来ていた。
(さらに後ろに下がる? いや、ダメだ。それじゃじり貧になる! なら向かうべきなのは──)
後ろにこのまま素直に下がっているだけではいずれ追い詰められるのは目に見えている。
ならば狙うべきなのは。突破口があるとすれば正面だけだった。
しかし正面はヒナギクが迫ってきている。
ヒナギクとの距離は当初の半分。レンに至っては、そのさらに半分。タマモの視界上では、レンの足刀はタマモの身長よりもいくらか高い場所にあるが、数秒もしたら直撃を受ける。
後ろに下がるだけならすぐに済む。しかしそれはヒナギクとレンによる攻撃を受けるということにもなる。
そうなればじり貧どころか、負ける。もっともこれが勝負なのかもわからないが、いままでどおりであれば負けとなる。
その負けを防ぐには前に出るしかなかった。
(怖いけど、やってやるのです!)
勇気を振り絞る。タマモは自然と叫んでいた。叫びながら大きく、そしていままでよりも速く前へと踏み込んだ。




