65話 世界の真実
まぶたを開くと、そこは見慣れた現実世界の自室──ではなかった。
「……だんな、さま」
見慣れない和室だった。
掃除は定期的に行われているのか、天井回りには埃は見えない。
埃がないのは天井だけではなく、部屋の中も同じだった。襖も壁もきちんと掃除が施されているようで、清潔感のある部屋だった。
そんな部屋を見回している際に、声が聞こえてすぐに右腕の先はすでに確認していたが、あえて気にせずに部屋の中を見回してから、タマモはもうひとつ確認を行ってからひとつの結論を出した。
「……やっぱり、ですか」
半信半疑だった内容は、事実として認めざるをえない。
それがタマモが出した結論だった。
「……マジかぁ」
前髪を掴みながら、タマモはため息を吐いた。
言われたときは、「なにを言っているんだろう」としか思えなかったこと。
しかし、こうして実際に体感してみれば、もはや事実として認めざるをえないのだ。
「……現実、かぁ」
タマモはため息を吐きながら、しみじみと呟いた。
タマモが、いや、「エターナルカイザーオンライン」のすべてのプレイヤーには共通した認識がある。
その共通認識は、大前提そのものとも言えるもの。
それは「エターナルカイザーオンライン」の世界こと「異世界ヴェルド」は存在しないということ。ゲーム内の世界であるということだ。
ゆえにこの世界で起きること、経験することはすべて現実へとフィードバックすることはない。あくまでも仮想世界であるのだから、現実世界にまで影響が及ぶことはない。例外として生産系のスキルで得た経験、いわゆるプレイヤースキルは現実世界でも影響を受けることはあるくらいだ。
現実で得たものではなく、仮想世界内で得たものなのだから、現実に影響を及ぼすことは基本的にないと言っていい。
それは「エターナルカイザーオンライン」だけではなく、いままでに存在したVRMMOでも同じだ。
どれほど精巧に作られた世界であろうとも。
どれほど美しい光景であろうとも。
どれほど愛おしい人を得ようとも。
そのすべては、実在しない。
この世界に内包されたものは、すべて現実には存在しえない。
それはタマモだけではない。
すべてのプレイヤーが当然として、大前提として認識していることだった。
だが、その大前提がいまタマモの中では崩れ去っていた。
「……ログアウト中、か」
タマモが行った確認。それはメニュー画面を開き、ログイン時間を確認するということだった。
本来ならログインすると、ログイン限界までの時間が加算されていく。それとは別にゲーム世界の時計が表示されるわけなのだが、タマモが開いたメニュー画面にはゲーム世界の時計は表示されているのだが、ログイン限界までの時間は加算されておらず、ただ「ログアウト中」という表示だけがあった。
いままで見たことがない表示ではあるが、言葉をそのまま受け取れば、本来ならログアウトしている最中ということであり、本来ならゲーム内世界に留まることはできないはずなのだ。
だが、タマモは実際にいま、ログインしている。
ログインできないはずであるのに、ゲーム内世界にいるのだ。
試しにフレンドリストを眺めてみると、全員がログアウトしていた。例外は氷結王たちだが、軒並み睡眠中だった。
フレンドリストの登録者は、プレイヤーであればログイン中かどうかが表示され、NPCであれば活動しているかどうかが表示されている。プレイヤーで言うログアウトに当たるのが、睡眠中となる。
ゲーム内時間ではすでに深夜であるのだから、氷結王たちが睡眠中であるのは当然の話ではある。
タマモはいままでNPCたちの「睡眠中」表示は何度か見たことがあるため、「睡眠中」と表示されても特に思うことはない。ないのだが、誰かに話し相手をしてほしいとは思っていた。
だが、フレンドたちは全員が話し相手をできる状況にはない。
唯一の例外はひとりだけいるわけなのだが──。
「……んー、ふふふ」
──どうにも起こしづらいとタマモは思った。
その相手はタマモの右腕の先にいた。
正確に言えば、タマモの右腕を枕にして眠っている。
とても幸せそうに。とても嬉しそうに笑いながら眠っていた。
どんな夢を見ているのだろうと思う一方で、起こしたくないなぁともタマモは思った。
普段の凜とした佇まいからは、想像もできないくらいに、いまの姿は少し幼く感じられるのだ。
空いている左手で触れることさえも憚れるほどに。
それほどまでに、いまのエリセは普段のエリセとは違っていた。
そもそもの話。エリセの寝顔を見たことはいままで一度もなかった。
タマモがログインしているときは、すでにエリセは活動している。
いつも穏やかな顔で「おはようございます」と笑って迎えてくれていた。
だから、タマモはエリセの寝顔は見たことがほとんどない。
唯一の例外は、以前この屋敷に泊まったときくらいだろう。
「……エリセ」
起こすべきではないとわかっていた。
それでも、タマモはエリセを呼んでいた。
エリセはほんのわずかに身動ぎをする。
その際、エリセの肌が、タマモの「闘衣」によって隠れていた素肌が露わになる。
タマモの身につけている「蛇鳥王の闘衣」は、タマモの背丈に合わせたものであるため、エリセが羽織るには小さすぎるのだが、それでも隠さなければならない部分は、きちんと隠せている。
隠せているのだが、かえってセンシティブになってしまっているのがなんとも言えないとタマモは思った。
目に毒すぎる。タマモはあえてエリセから目を離すが、エリセの寝息や身じろぎの音が聞こえるたびにエリセを見てしまい、そのたびに煩悶としてしまう。
「……お嫁さん、かぁ」
現実で、冗談半分で「嫁が欲しい」と口にしたことはあるし、心の中で嫁扱いした女性も数人ほどいる。
だが、名実ともに嫁となった人はいなかった。
しかし、目の前にいるエリセは違う。
名実ともに嫁なのだ。
いままではゲーム内世界において、という枠組みだったのだ。
この世界でだけ会える人。
この世界でだけ触れ合い、想いを確かめ合える人だった。
が、いまは違う。
いままでとは違う。
そもそもの話、いままでは触れ合えると言っても、ある程度のところまでだった。
だが、いまは違う。
その証拠がエリセのいまの姿だった。
普段の巫女服ではない。
その巫女服は、少し離れたところに置かれていた。その下に身につけている襦袢等も同じようにだ。
それもきれいに畳まれてはおらず、乱雑に脱がされて置かれていた。
その代わりとして、いまエリセはタマモの「闘衣」を羽織っており、その下がどうなっているのかは言うまでもない。
加えて言えば、エリセの首筋や胸元にはいくつかの紅い痕が刻まれていた。それがどういうものであるのかなんて考えるまでもない。というか、誰が犯人なのかなんてタマモ自身が一番よくわかっていた。
「……これってすぐに消えるんですかね?」
言うなれば、内出血であるから、そのうち消えるというのはわかる。わかるのだが、そのうちがどれくらいの期間であるのかまではタマモにはわからなかった。
耳年増だという自覚はあるものの、そっちの知識の大半がネット由来のものであるため、具体的な経験は皆無なタマモにとって、エリセの首筋やら胸元の痕については非常に気に掛かる。
だが、どれほど気に掛かったところで、タマモがどうこうできる問題ではなかった。
さて、どうしたものかと思い、頭を悩ませていた、そのとき。
「ふむ。まぁ、言うて内出血であるからのぅ。それも非常に軽度であるからなぁ。せいぜい数日というところであろうよ」
「あ、そうですか。まぁ、数日くらいなら、隠して貰えればそれで──」
「いや、かえって隠していると邪推されてしまうぞ? であれば、ここは虫刺されということにして、堂々と見せている方が問題にはなりにくかろうよ。まぁ、シオンは騒ぎ出しそうであるが、そこはそれ。夫婦であるからと言えばよいだけよ。ダメージを負うことになるであろうがのぅ」
かんらかんらと笑う声が聞こえた。最初は思わず返事をしてしまっていたが、すぐに「あれ?」と違和感に気付き、タマモは恐る恐ると声の聞こえた方へと顔を向けると、そこにはあごひげを撫でながら、にやにやと笑う聖風王がいた。
「……いつから?」
タマモがとっさに口にしたのは、そんな一言だけだった。
その言葉に聖風王は「ん? ほぼ最初からであるが?」と笑い返すだけであった。
「……ほぼ最初。そのほぼがどこまでに及んでいるのかが気になって仕方がないのですが?」
「ほっほっほ。それはもちろん、婿殿がエリセをこの部屋に連れ込んですぐに組み伏せたところからで決まっておろう? そもそも、いくら離れていたとしても、葬式の真っ最中にその手の物音が聞こえぬわけがあるまい? それを我が聞こえないようにしたから、邪魔されずに済んだのじゃぞ? その分の対価として見学させてもらったというだけのことよ」
聖風王の言葉にタマモはなんの反論もできなかった。
たしかに、お経や木魚の音以外は無音の中で、その手の物音が聞こえないわけがないのだ。
聖風王が手を貸してくれたからこそ、問題にならなかっただけであり、普通に考えれば大惨事である。
その大惨事を回避できたと考えれば、聖風王にいろいろと見られてしまったというのは、必要経費だったとするほかない。
「……言いふらさないでくださいね?」
「せぬせぬ。そんなことしてなんの得があるというのじゃ? まぁ、個人的には感慨深いものはあったがのぅ。あのエリセが、すっかりと女になったなぁと感じ入ったものよ。まぁ、それはそれとして……ふむ」
聖風王は急に真剣な表情になって、タマモをじっと眺めていた。急になんだろうとタマモが思っていると、聖風王が口にしたのは──。
「どうやら、我が君との面会が叶ったようじゃの? この世界における真実をそなたは知ったようじゃな?」
──想像もしていなかった一言だった。
「……それは、やっぱり」
「うむ。婿殿が考えている通りのことじゃな。この世界はそなたたちが言う、「VRMMO」というものではない。そなたたちからしてみれば、異世界そのものであるのぅ」
聖風王ははっきりとタマモが出した結論を肯定した。その一言に、タマモは「……そう、ですか」とだけ頷いたのだった。




