48話 花と正義その3
圧倒的な内容でレンが左翼を壊滅する少し前、反対方向の右翼側では──。
「せい!」
──ヒナギクが嵐のような猛攻を仕掛けていた。
ヒナギクが攻撃を仕掛けるたびに、その拳から、その脚から暴風じみた風が発生していた。
その風は少し離れていても、相手の髪を宙に舞わせてしまう。
どう考えても、触れただけでアウトであることは明か。
ゆえにできるのは、徹底的に回避し続けることのみ。
だが、ヒナギク相手に回避し続けることは困難だった。
なにせ、攻撃のたびに暴風が生じるのだ。
少し離れていても届くほどの風。その風を至近距離で浴びれば、髪が舞い上がるどころではなく、体勢そのものが大きく崩れてしまう。
そんな攻撃が時折単発で放たれるわけではない。
常にそんな攻撃が延々と放たれ続ける。
加えて、まだヒナギクは本気になっていない。
ヒナギクにとって、いまの攻撃は探り程度のものであり、本気で攻撃を仕掛けているわけではない。
それでも、他者にとってはその探り程度がありえないほどの威力を誇っていた。
だが、重ねて言うがヒナギク本人としては猛攻を仕掛けているわけではない。
あくまでも彼女本人としては、弱い攻撃を連発しているだけだった。
だが、その弱い攻撃が他者にとっては猛攻に見えてしまう。
特に対峙する槍士のエスパーダと双剣士のグランにとっては、自身らに襲いかかるそれを弱い攻撃の連発とはとてもではないが思えないだろう。
もし、その攻撃の実情を知れば、彼らは口を揃えて言うだろう。「ふざけるな」と。
それなりの距離に離れていても、攻撃の際に生じた風が肌を撫でたり、至近距離では体勢を崩されてしまったりなど。そんなありえない攻撃が延々と放たれ続けているというのに、その攻撃が弱い攻撃の連発など信じられるわけがない。
特に双剣士としてヒナギクと直に対峙するグランにとっては、ヒナギクの猛攻は彼のいままでのPKKとしての日々の中、一度たりとも味わったことのないものだった。
もし、そんな彼に「まだ本気出していないですよ」と伝えたら、きっと呆けながら「……ふざけんなよぉ」と力なく呟くことであろう。そのときのグランの表情は間違いなく、絶望の色に染まっていることであろう。
もっとも、現在もグランの表情は絶望の色に染まっている。
最初の一撃は、双剣を重ねることでどうにか受けきったグラン。
だが、そのときの一撃で、グランは絶望の淵にたたき落とされた。
もともと、「お正月トライアスロン」の際のダメージレースで、トップの数字をたたき出したヒナギク。
そのときの光景をグランは知っていた。
だからこそ、ヒナギクの一撃の威力をそれなりにわかっているつもりだったのだ。
だが、当時のヒナギクはまだクラスチェンジ前だった。
その当時の一撃を基準としていたグラン。
だが、それを圧倒的に凌駕する一撃が飛んできたのだ。
その一撃により、グランは体勢が崩されるどころか、大きく後退させられることになった。それこそ、たった一撃で舞台の中央から舞台の端、場外一歩手前まで後退させられたのだ。
その光景はグラン自身ももちろんだが、グランと組んでヒナギクと対峙することを定められていたエスパーダにとっても、信じがたいものだった。
最初はグランが自分から跳んだのだと思った。だが、跳んだわけではなく、単純に後退させられたのだという証拠が、地面に刻み込まれていたのだ。グランの足跡がまるで轍のように刻み込まれた光景は、グランとエスパーダを萎縮させるには十分すぎるものだった。
「……攻めてこないなら、こっちから行っちゃうよ?」
だが、そんなふたりに対して、ヒナギクは首を傾げながら言った。
「え?」と声を漏らしたのはエスパーダ。
そのエスパーダの懐に一足飛びでヒナギクは飛び込んだ。
エスパーダにとっては、いきなり目の前にヒナギクが現れたようにしか見えなかった。
そのエスパーダの顔面に、ヒナギクは下から掬い上げるようにしてアッパーカットを放った。
エスパーダがその一撃を避けたのは偶然だった。
ヒナギクとしても当たると確信していた一撃だったのだが、その一撃は空を切った。
エスパーダがとっさにスウェイバックをしたことで、その一撃を回避できたのだ。
だが、顔面すれすれのところを通過していったヒナギクの攻撃は、エスパーダに恐怖心を植え付けるには十分すぎるものだった。
なにせ、スウェイバックしただけであるのに、まるでみずから後ろへと跳んだのではないかと思うほどに大きく下がっていたのだ。
もちろん、エスパーダ自身が跳んだわけではない。
ヒナギクの拳風で煽られ、グランのように飛ばされてしまったというだけのこと。
エスパーダにとって、それは初めての体験だった。
当のヒナギクは回避されたことに、「あれぇ?」と首を傾げていた。ヒナギクにとっては避けられるとは思っていなかったからである。
その一撃を避けられたことでヒナギクは首を傾げた。
その様子は見ようによってはかわいらしいものだった。
もともと、誰の目から見ても「美人」と謳われる見目のヒナギク。
そのヒナギクが女児のような仕草を取ったのだ。
場所が場所でなければ、いや、状況が状況でなければ、エスパーダやグランも見惚れてしまった可能性もある。
だが、こと舞台という名の戦場において、ヒナギクの所作を見て「かわいらしい」や「可憐だ」と思うことなどできるわけもない。
目の前にいるのは「美女の姿をしたナニカである」と彼らの認識を改めさせるには十分すぎた。
その「ナニカ」が「う~ん?」と首を何度も傾げていた。傍から見れば隙だらけ。だが、エスパーダもグランも動くことができなかった。
体が言うことを聞いてくれなかったのだ。
蛇に睨まれた蛙という言葉があるように、そのときのエスパーダとグランもヒナギクを前にして萎縮させられてしまっていたのだ。
ゆえに、ヒナギクがかわいらしい仕草を取ろうとも、ふたりにとっては人智の知れない「ナニカ」が舌なめずりをしているようにしか見えなかった。
その「ナニカ」にふたりは恐怖し、身動きが取れなくなっていたのだ。
だが、ヒナギクにとっては、ふたりの心情などは関係なく、なぜエスパーダに攻撃が当たらなかったのかの方が重要だった。
だからこそ試合中であるのにも関わらず、思案してしまっていたのだが、「まぁいいや」と問題を先送りにすることにした。
「当たらないのであれば、当たるまで攻撃すればいいだけだもんね」
ヒナギクはそう結論づけて笑った。その笑みもその言葉もふたりに届いていた。それは同時にふたりにとっての地獄が始まったことを意味した。
試合開始して1分ほどで恐怖を植え付けられたエスパーダとグランに対して、ヒナギクは怒濤の猛攻を始めたのだ。
その猛攻は彼らを絶望の淵に陥らせるのに、十分すぎるものだった。
その猛攻をふたりは必死の形相で回避し続けた。
交互に前衛を交代しながら、必死に回避を続けた。
「直撃すれば、それだけで戦闘不能に追い込まれる」というのがはっきりとわかっていたからである。
だからこそ、ふたりは避けた。
回避だけに集中したのだ。
そうして必死の思いで回避し続けていると、試合開始して10分が経った。
エスパーダたちにとっては「まだ10分なのか」とあまりの時間経過の遅さに愕然とさせられた。
あとどれほど耐えさせられるのかとより重たい絶望が彼らを包み込んだとき。試合はついに動いた。
突如として反対の左翼側から黒い柱が立ち上がったのだ。
そのとんでもない光景に、前衛として立っていたグランは目を奪われた。
だが、それは悪手でしかなかった。
「グラン!」
エスパーダの声が響く。
その声に弾かれたように前を向いたグランだったが、すでに時遅し。
「やっと捕まえた」
腹部にとヒナギクの拳が突き刺さったのだ。
「ぁ」
言葉にならない声を漏らすグラン。その顔は見る前に蒼白としたものになったが、躊躇なくヒナギクは脚を掲げてその肩に踵落としを放つ。
グシャァというなにかが砕ける音とともに、グランは力なくその場に倒れ伏す。最初の一撃で致命傷だったが、追撃の踵落としで完全にHPバーは砕け散った。
「グラン選手の戦闘不能確認」
実況とは別のアナウンスが響く。そのアナウンスに「え?」とヒナギクが驚いた顔を浮かべる。
「あれ? 終わっちゃった」
ヒナギクははてと首傾げながら、倒れ伏すグランを見やるも、すでにグランの意識はない。
「……まぁ、いいか。じゃあ、次は」
ヒナギクがグランから視線を外し、エスパーダを見やる。
ヒナギクと視線が合うまで、エスパーダは呆けていた。
だが、ヒナギクと視線が合ったことで、エスパーダはその表情を大きく歪め、そして叫んだ。半狂乱となりながら、エスパーダは自ら場外へと落下した。そして舞台から見えないように体を縮ませながら泣き震えていた。
エスパーダは標準的な体型のヒューマンだったが、怯え震える姿はまるで幼子のようにしか見えなかった。
「エスパーダ選手、場外へと落下を確認。失格とします」
またもや実況とは異なる無機質なアナウンスが響く。
「……なんでぇ?」
そのアナウンスを聞きながら、ヒナギクは目の前で起きた珍事に何度目かの首を傾げる。ヒナギクにとっては、なんでエスパーダがみずから場外に降りて膝を抱えて振る上がっているのかがわからない。
もっとも、それはあくまでもヒナギクにとってではしかない。
ヒナギクとふたりの戦闘を見ていた観客にとっては、「いや、なんでじゃないんですけど?」としか言えない。むしろ、ふたりのいままでの頑張りを讃えたいほどなのだ。
しかし、そのことがヒナギクにはわからず、「意味がわからない」と言わんばかりに首を傾げることしかできずにいた。
そこに左翼側の戦闘を終わらしたレンが合流する。
「……今度はなにやったの?」
合流しての開口一番はヒナギクがやらかしたことの確認であった。
「なにをって、ただ攻撃しただけだよ?」
「攻撃しただけで、大の大人が半狂乱します?」
「だって、本当にそれしかしていないよ?」
こてんと首を傾げるヒナギクと痛そうに頭を押さえるレン。
その姿だけを見れば、カップルのやり取りにしか見えぬことであろう。
だが、実態は嫁の無自覚なやらかしにどう対処するべきかを苦慮する夫という風にしか観客には見えなかった。
前大会から「DV嫁の旦那」と捉えれていたレンだったが、この試合で「DV嫁が実は無自覚であり、その対処をさせられる苦労人の旦那」へとクラスチェンジを果たすことになった。
その事実の発覚に観客たちは揃って愕然とする。
だが、唯一観客席の最奥で応援旗を振るひとり、ヒナギクのファンであるクッキーにとっては、ヒナギクの所業はその憧れを加速させるものだった。
「さすがは、さすがはヒナギクさん! 対戦相手を圧倒するだけでなく、その心をボキボキに叩き折って戦わずに勝つなんて! くぅぅぅ、すごいすごいすごい、すごいよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
クッキーは興奮しながら旗を振り回し、他の3人を阿鼻叫喚とさせていく。
少し前までのマドレーヌとほぼ同じ様相である。
そんなクッキーの姿はヒナギクの目に映っていた。ヒナギクは一瞬唖然となったが、クッキーが精一杯の応援をしてくれているというのがわかったため、手を振り「応援ありがとうねぇ」とクッキーにと感謝を告げた。
その感謝にクッキーは加速し、より他の3人を巻き込んでしまうのだった。
「さぁて、残すは」
「タマちゃんだけだね」
「あぁ」
左翼と右翼の戦闘は終わった。
残るはマスター同士のぶつかり合い。
鎬を削り合うタマモとナデシコの戦いのみである。
「どうなるかな?」
「さて、ね」
多対一であれば介入もしたが、一対一の戦いに水を差すような無粋なまねをヒナギクもレンも好まなかった。
ふたりはその場に腰を下ろして、タマモとナデシコの戦いの見学を始めるのだった。




