7話 憤慨
ちょいグロい部分があるので、閲覧注意でお願いします。
「実の、母?」
正妻ことエリスが口にした一言は、少なくない衝撃をその場の全員に与えていた。
ただひとり、当人のエリスだけはやつれきった顔で、「ええ」と頷いた。その表情はどこか清々しさというか、秘めていたものを口にできたからなのか、充足感があるものだった。
「……なにを言うてるんどすか?」
そんなエリスとは違い、エリセの表情はひどく暗い。いや、暗いを通り越して、もはや憎悪に満ちた顔をしている。その顔はまるであの日のように、タマモがエリセを口説き落とした日のように、相手への拒絶に満ちあふれたものだった。
「エリセ、落ちついて」
「旦那様は黙っとって!」
エリセを落ちつかせようとしたタマモだったが、エリセはすでに落ちつかせるかどうかなんて状態ではなくなっていた。尻尾の毛を逆立てながらエリセはエリスの元へと向かっていく。その目はすでに瞳孔が縦に裂けており、どのような感情に彩られているのかなんて考えるまでもない。
タマモは再び「エリセ!」と声を掛けるが、エリセはその制止の声も聞かず、エリスの襟元を掴み叫んだ。
「いきなりなにを言うてんねん! 実の母? 実の母かて? 嘘をえずかんといて!」
エリセは凄まじい剣幕でエリスに迫る。エリセの荒々しい呼吸がタマモの位置からでもはっきりと聞こえていた。それほどにエリセは興奮していた。その心中には憎悪だけが宿っているのもタマモにははっきりとわかる。タマモはエリセを後ろから羽交い締めするように抱きついた。
だが、タマモとエリセでは体格に差がありすぎた。エリセを完全に抑え込むことはできなかった。ただいくらかエリセの行動を封じることはできた。特にエリセが振り上げていた右手をどうにか下ろすことはできた。
ただ、それも「離して!」と叫びながら身を捩るため、いつまでもできそうにはない。それでもタマモは必死にエリセを抱き留める。弱り切ったエリスに手をあげるところを、見て見ぬ振りはできない。しかもエリスが言うには、ふたりは本当の親子というではないか。
エリセから聞いていた話とはまるで違う。だが、それでもこの状況でエリスが嘘を吐くというのも考えづらい。なにせエリスは見るからに弱っていた。それこそ、それこそ一度眠りに就いたら、もう二度と目を覚まさないかもしれないと思うくらいにだ。
そのエリスにエリセが手をあげようものなら、最悪の結果が待ち受けている可能性だってある。
なにが本当でなにが嘘なのか。エリスの話を聞かずに、感情のままに行動に出てしまって、取り返しがつかないことになったら、それこそエリセは深い心の傷を負いかねない。
たとえエリセが、いや、この場にいるタマモ以外の全員がデータだけの存在だったとしても、いたずらに傷つくだけだとわかっていて、放置なんてタマモにはできなかった。
「離して! 離してや! 離せぇーっ!」
エリセが叫ぶ。その叫び声に本邸にいる使用人や一族の者がなんだなんだと口々に言いながら集まってくる。中には一族の者である老人連中もいて、しきりににやにやと口元を歪めて笑い、そして言い放った。
「なんや、暴れてるだけか。そやけど、化け物はやっぱし化け物やな。品性の欠片もあらへん」
「しゃあないやろう? あれにあるのんは顔と体だけなんやさかい」
「そうやったな。我らのような知性もあらへん。ほんま化け物らしいな」
老人たちがおかしそうに笑っていた。その声を聞いて、タマモの中でなにかがはじけ飛んだ。
「おい、黙れ、老害ども」
タマモは老人たちに向かって睨み付けた。その視線を浴びて老人たちは体を大きく振るわせるが、すぐに虚勢を張るように「なんやと、このガキ!」と唸り始めるも、タマモは意に返すことなく、五尾に指示を出した。
「やれ、五尾」
『承知いたしました』
五尾が恭しく返事をし、次の瞬間、騒いでいた老人たちのうち、エリセを罵倒していたふたりの老人の首に五尾が巻き付き締め付けながら、タマモの側にまでふたりの老人を連れ込んだ。
老人たちは空中で手足をばたつかせるも、タマモは容赦することなく首を締め付けていく。ほかの老人たちや使用人たちが慌てるもタマモは一瞥して「うるさい」とだけ言った。その言葉に老人たちも使用人たちも口を閉ざした。
それからタマモは連行したふたりの老人たちを自身の目線にまで下ろした。
「いま、なんて言った?」
タマモは老人たちを見つめながら、小首を傾げた。その顔は満面の笑みである。だが、表面通りに受け取るものはいない。タマモの見目は幼い。だが、その力に対抗できる者はこの場にはいない。ほかの老人たちはみずからの首が締め付けられていないというのに、その息づかいはひどく荒い。完全にタマモに恐怖していた。それはいま首を締め付けられるふたりの老人も同じだ。その目にあるのは恐怖の光だけが宿っていた。
しかし、どれほど畏怖されようとも、タマモは止まらなかった。
「聞こえてないのか? なんて言ったのかと聞いている? 聞こえていないのなら、その耳は飾りだなぁ?」
タマモの口元が妖しく歪む。同時に、残った三本の尻尾のうちの一本が揺らめき、老人たちの頭上にある耳を薙ぎ払った。老人たちの顔が苦痛に歪み、血まみれの耳朶が四つ、ほかの老人たちのもとへと飛んでいった。飛んでいった四つの耳朶はほかの老人たちにぶつかり、悲鳴があがる。中には腰を抜かし、股の間を濡らす者もいた。
「黙れと言ったつもりだが?」
タマモは残った二本の尻尾を揺らめかせながら笑う。その姿に老人たちも使用人たちも全員が一斉に口を閉じた。その体を大きく震わせながら。
「それで? まだ答えないのか? その口は飾りだったか? だが、先ほどその賎しい口で我が妻を侮辱していたはずだが。あぁ、そうか。舌がないのか? どれ、見せてみろ」
残っていた二本の尻尾で老人たちの口を限界まで開くタマモ。口の端から血が流れるも、お構いなしと言わんばかりにその口の中を覗き込み、またもや首を傾げる。
「おかしいなぁ? ちゃんと舌があるじゃないか? なのになんでなにも言わないんだ? それともこの舌も飾りか? なら、いらないよなぁ? どれ、引き抜いてあげようか」
ゆらりと五本目の尻尾を、老人たちの耳を薙ぎ払った尻尾を揺らすタマモ。その顔は笑みに染まっている。だが、その笑みはどこまでも凶暴だった。その笑みにその場にいた誰もが息を呑み、恐怖している。それは義弟であるシオンでさえも同じだった。
首を締め付けられた老人たちの目が大きく見開き、その目から止めどもない涙が溢れ、失禁しながらも必死に首を振る。だが、タマモは笑いながら、五本目の尻尾をゆっくりと伸ばしていき──。
「旦那様!」
──エリセが後ろから抱きついたことで、タマモは動きを止めた。少し前まではタマモが必死に抑え込んでいたエリセに、逆に抑え込まれてしまったのだ。だが、タマモは「エリセ? どうして」と不思議そうに首を傾げて、エリセを見遣った。そのとき。
「んっ」
エリセの唇がタマモのそれと重なったのだ。タマモは目を大きく見開きながら、エリセを見つめ、気づいた。エリセの体が小さく震えていることに。その姿を見て、タマモは一気に冷静になった。
老人ふたりが地面に落ちる。激しい呼吸を繰り返しながら、必死に手足を動かして部屋の外へと逃げていくふたり。そのふたりを視界の端に納めつつも、手を出すことなく見つめるタマモ。
だが、それはかえって老人たちや使用人たちにさらなる恐怖を与えるのに十分すぎた。
彼ら彼女らは、タマモのその視線を「見逃してやるから失せろ」という風に捉えたからだ。
その証拠にタマモの目は瞳孔が縦に裂けている。その無機質な瞳に誰もが恐怖を植え付けられてしまっている。それでも誰もがその場から動くことができなかった。背中を見せた瞬間に殺されてしまうのではないかという恐怖に脚が竦んでしまっているのだ。
自身たちの最期の瞬間の幻影がありありを浮かんでしまい、なにも行動ができなくなっていく老人たちと使用人たち。その恐怖に染まりきった瞳に晒されながら、タマモはエリセの体をそっと抱きしめる。ほんの一瞬だけ、エリセの体が強ばる。
そのことに胸の奥がひどく痛んだタマモは、そっとエリセから唇を離すと、老人たちの方を見遣り──。
「しばらくこの部屋に近付かないでくれますか? 使用人の方々もお願いします」
──丁寧に頼み事をした。その言葉はとても丁寧だったが、さきほどの私刑じみた光景を目にした彼ら彼女らにとって、それは丁寧な厳命を受けたのだと感じ取った。誰もが一目散に部屋を後にする。それを見守りながら、タマモはシオンに目を向けた。
「シオンくん」
「は、はい」
「申し訳ないのですが、あの人たちがまたこの部屋に来ないように外で見張っていてください。お母さんと一緒にいたいでしょうけど、ここは譲っていただけますか?」
「し、承知した。義兄様」
シオンは何度も頷きながら部屋の外に出て、襖を閉めた。その直前に「おたのもうします、義兄様」と深々と頭を下げていた。タマモは「……わかっています」とできる限り優しく微笑んだ。その笑みにシオンは一瞬表情を強ばらせるも、すぐにぎこちないが笑いかけてくれた。
そうしてシオンも退出し、部屋の中はタマモとエリセ、そしてエリスの3人だけになった。襖の閉まる音とともに部屋の中は沈黙が支配していく。誰もが口を噤んでいたが、不意にからからと笑う声が聞こえた。
「あー、おかしい」
それはエリスの笑い声だった。
見れば、エリスは口元を抑えて笑っている。
惨劇が起きかけていたというのにも関わらず、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。タマモへの恐怖は微塵もなく、むしろ、誇らしげにタマモを見つめていた。その視線にどう反応すればいいのか、タマモはわからなくなったが、ひとまず「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「病床であるというのに、手荒い場面をお見せしたこと、深くお詫びします」
「お気になさらんと。あの能無しどもにはええ薬やろう。……この子を罵倒されて、うちも腹立っとりましたさかい。痛快どしたで」
エリスは笑った。その笑みはエリセとよく似ていた。その笑みを見てタマモは確信をしながら尋ねた。
「……エリスさんは、本当にエリセのお母さんなんですね」
タマモの言葉にエリセが息を呑む。だが、タマモはエリセを強く抱きしめて離さなかった。エリセはタマモの腕の中で震える。それは怒りなのか、それとも悲しみか。はたまた別の感情なのか。タマモはエリセのぬくもりを感じながらも、エリスをじっと見つめていた。
「……はい。エリセはうちの娘どす。うちのかいらしい愛娘どす」
エリスははっきりと頷いた。その言葉にエリセは「嘘や。信じひん」と呟く。「……かんにんえ、エリセ」とエリスは悲しげに表情を歪めていた。その顔には後悔の色で染まっている。ただ、一方で誇らしげにも見えた。微塵の後悔もないようにも見えるのだ。
矛盾した表情だった。その表情を眺めながら、タマモは続けた。
「話を聞かせてくれますね?」
「ええ、もちろん。そのためにお呼びしたんどす。……この命尽きる前にエリセを託すために」
エリスは胸元を強く抑えながら、強い意志の籠もった瞳でタマモを見遣ると、ゆっくりと語り出した。
「……あら、えらいきれいな星空が浮かぶ夜のことどした」
エリスが語ったのは、彼女の半生。彼女自身が為してきた仄暗い魔道にして、最愛の娘のために為してきた独白だった。その独白をタマモはエリセを抱きしめながら、耳を傾けたのだった。




