50話 いつもとは違う休日
「あー、食べた、食べた」
朝食を終え、自室に戻るなり、香恋は使い慣れたベッドに寝転がった。
相変わらず服装は寝間着であるお肉大好きシャツとスパッツという軽装のままだ。そんな香恋を見て、同じく朝食を終えて戻ってきた希望は小さくため息を吐く。
「もう、すぐに寝転がると太るよ?」
「太らん体質だから問題ない」
「……本当に羨ましいよね、香恋ってば」
ベッドに寝転がる香恋にお小言を口にした希望だったが、カウンターとばかりの香恋からの何気ない一言に一瞬息を呑むも、すぐに恨みがましい視線を投げ掛けていく。
希望からの嫉妬や殺意とも言える視線を浴びつつも、お腹をぽんぽんと叩きながら、リビングから持ってきた爪楊枝を使う香恋。ひいき目に見ても「だらしない」の一言しか思い浮かばない姿であるし、見ようによっては希望を挑発しているようにも見えてしまうが、本人にはそのつもりはない。完全に素である。
そんな香恋の姿に希望は「本当にこいつは」と言わんばかりに、大きなため息を吐いた。あまりにも変わらない、というか、マイペースにもほどがある幼なじみの姿に、ほっと一息を吐く希望。その姿は不安からわずかでも解き放たれたかのようだ。
「……で?」
「え?」
「で、なにしに来たの?」
爪楊枝を口から離し、手の中で弄りながら、希望を見ないまま尋ねる香恋。言葉尻だけを捉えると、まるで希望を拒絶しているかのようにも聞こえる。だが、香恋にそんなつもりがないということは、希望自身わかっており、言葉尻のまま捉えるつもりはない。
それでも、わずかに。ほんのわずかに言葉を詰まらせてから、希望は口を開く。
「……あと10日もないから」
「……そっか」
主語のない内容。
それでも、希望も香恋もお互いに言わんとしていることはよくわかった。
当の香恋は希望の気遣いに、感謝を憶えていた。憶えていたが、そのままを口にするにはいささか気恥ずかしいようで、素っ気なく返事をした。その返事でも希望は香恋の気持ちはわかっているようで、小さく「うん」とだけ頷いた。
希望の返事を見るやいなや、香恋は寝転がっていたベッドから起き上がる。希望は香恋のベッドに背中を預けるようにして体育座りをしている。そんな希望を香恋は後ろからそっと抱きしめた。希望が息を呑む音がふたりしかいない部屋の中で小さく響く。
「……心配掛けたよな」
「……ううん。大丈夫だよ」
「嘘吐くなよ。そうでもなければ、こんなに朝早くから来ないだろう。それも休日にさ」
「そんなこと、ないよ」
「だから嘘吐くなって。わかっているんだ」
「……それは私のセリフ、なんだけど」
それまで言われるがままだった希望が、ほんのりと頬を染めながらわずかに振り返る。香恋が後ろから抱きしめているため、ふたりの距離はとても短い。それこそ、いくらか大きめに希望が振り返れば、お互いの距離が完全になくなってしまうように。軽やかな音を立ててふたりの距離がなくなってしまいそうなほどにだ。
「……どうせ、香恋のことだもん。カッコつけるために、無茶をしているんだろうし」
「……否定しづらい」
「「しづらい」じゃなくて、「できない」の間違いでしょう? カッコつけたがりのモテモテレンさん?」
「……モテてるつもりはない。そもそもモテたくてやっているわけじゃない」
唇を尖らせる香恋に希望はおかしそうに笑うと、振り向けていた顔を正面に戻すと、自身を抱きしめている香恋の腕にそっと触れる。
「……タマちゃんから言伝」
「だいたい予想できるけれど、なに?」
「「どんな結果であろうとも、ボクは気にしないですよ」だってさ」
「……泣けるぜ」
「本当にね」
希望が口にした言伝。その内容を聞いて香恋は、そこそこの大きさのため息を吐く。そのため息混じりの言葉に希望はまたも笑っていた。
言葉の節々からわかるとおり、香恋と希望は「EKO」のプレイヤーである。それも巷で噂となる「フィオーレ」の所属のプレイヤーである「レン」と「ヒナギク」がそれぞれのアバターだった。
希望の「ヒナギク」は、希望自身をそのまま成長させた姿。「将来的にはこうなるだろうなぁ」という予想の姿だが、香恋の「レン」はそもそも性別さえ違っていた。ただ、香恋自身があまりにも男らしい性格であるうえに、男性アバターを用いているため、中が少女であることを、いわゆるネナベプレイヤーであることに誰にも気づかれていない。
「レン」の中身が少女であることを知っているのは、ヒナギクと香恋の実兄が駆る「テンゼン」、そしてテンゼンとゲーム内で密かに交流を持ったガルドくらい。
同じ「フィオーレ」所属であり、マスターでもあるタマモでさえも、レンの実際の性別は知らないのだが、それはレン自身の発言にこそ問題がある。
なにせ、レンはゲーム内でことある毎に「ヒナギクは俺の嫁」と口にしているのだ。しかもレンは見るからに男性アバター。それも言動ともに男らしいと来れば、その中身が男性と思われるのは当然と言っていい。
なお、そのレンを駆る香恋は、レン時の振る舞いはあくまでもロールプレイの一環としている。それはヒナギクである希望も同じ認識だった。
言うなれば、本気で言っているわけではない。あくまでもロールプレイの一環であり、本気で希望を自身の嫁と思っているわけではないのだ。そう、本人たちにとってはそのつもりなのだが、ロールプレイにしてはあまりにも迫真すぎるうえに、ヒナギク自身がレンに対して甲斐甲斐しく世話を焼く姿を見る限り、ロールプレイの一環と言い切ることはできない。
だが、当人たちはお互いにその手の感情を一切向けていないと思っているため、周囲からの認識とお互いの認識には致命的なズレが生じているのだが、そのことにもやはりふたりは気づいていなかった。
現にいまの体勢も端から見ると、完全に恋人同士のそれとしか思えないものだ。特に希望の表情がそれを雄弁に物語っている。頬を朱に染めながらも、とても心地よさそうに、ひどく落ちついた様子で香恋の腕に触れている。
香恋が後ろから抱きしめているため、ふたりの距離はあまりにも近い。お互いの頬がいまにも触れ合えそうなほどにとても近いし、お互いに少し顔の位置を返れば、お互いにと向き合えば、唇が重なり合ってもおかしくない距離。
だが、実際にはそうならない。ふたりはお互いに向ける気持ちに。いや、お互いにと向けている本当の気持ちに気づいていない。だからふたりの距離は一向に縮まることはない。限りなく近いのに、その限りなく近い距離が途方もなく遠くもある。それが鈴木香恋と天海希望の現在の距離感だった。
「……待っているからね」
「あぁ。頑張るよ」
「うん、信じている」
「ありがとう」
「どういたしまして」
希望が香恋の腕を強く掴む。掴まれた腕に感じるぬくもりに、胸の奥が温かくなるのを感じながら香恋はより一層の努力を誓う。その言葉に希望は静かに頷いた。
胸の奥から沸き起こるなにか。そのなにかを感じて香恋は堪らなくなり、「よいしょ」という掛け声とともに希望をベッドの上に引きずり込む。その際、「ちょ、ちょっと」と慌てる希望だが、香恋はその反応にさえ胸の奥が温かくなっていくのを感じていた。
ほどなくして、希望を自身のベッドに横たわらせた香恋は、空いているスペースにみずからの体をねじ込ませていく。香恋ひとりであれば、だいぶ広いベッドであるが、希望も一緒となるといささか手狭になってしまうが、向かい合わせに寝転がることはできた。
希望の顔は頬どころか、全体が朱に染まった。その希望の反応にまたもや胸の奥が温かくなるのを感じて、香恋は頬を綻ばせた。
「まだ少し早いし、寝ようぜ」
「……私お出かけするつもりだったんですけどぉ?」
「昼からにしようぜ。いまは、ふわぁーあ、寝かせてよ」
「もう、香恋ってば」
頬を膨らまして不満を露わにする希望とあくびを搔きながら、いまにも寝てしまいそうなほどに目を細める香恋。
さきほどよりも距離は遠い。それでも、近い距離にいるふたりだが、その心の距離は限りなく遠くもあり、限りなく近くもある。そんななんとも言えない距離感を保ちながら、ふたりは次第に破顔していき、そして──。
「おやすみ、希望」
「おやすみ、香恋」
──お互いに「おやすみ」と言い合いながら、ふたりは同時にまぶたを下ろした。お互いの寝息どころか、ぬくもりを感じられるように、ふたりの手は自然と絡み合っていた。手を絡ませながらふたりは静かに寝息を立てていく。
それはいつも通りの休日。
だが、いつもとは少しだけ違う休日。
そんな休日をふたりはゆっくりと過ごしていった。




