47話 わらべ歌
虫の羽音が響く。
季節的に言えば、まだ虫の羽音が聞こえるには早すぎるはずだが、秘境とも言える山の中で夜中に響く音には、これ以上となく合ったものだった。
その音と共に聞こえるのは、御山の中を縦断する小川の音。小さなせせらぎを耳にしながら、レンはあぐらを搔いて目の前にいるソラと、GMのソラと対峙していた。そのソラは近くにある大木を背にして寄りかかりながら、相づちを打ちながらレンの話を聞いていた。
「──そんなわけで、悩んでいたんです。もう時間もないというのに、いまだにとっかかりも掴めていないんで、どうすればいいのかなって、わかんなくなっちゃって」
「……なるほど。レンさんのお立場であれば、たしかに悩みますものね。もし私が同じ立場でしたら、悩みに悩みますよ」
「ソラさんも、ですか?」
「ええ。GMと言っても万能ではありません。まぁ、この世界であればたしかに万能と言える権限は持ち合わせていますが、それでも一歩外に出れば私はただの人間でしかありませんからね。人間であれば、悩み苦しむのは当然でしょう。あなたのようにご友人方は特別になれたという状況であればなおさら、ね」
首を傾けながらソラは笑っていた。
瓶底眼鏡の向こう側の、ソラの素顔が薄らと見える。その薄らと見える素顔にレンの胸はわずかに高鳴った。その素顔はどう見ても美人さんだというのに、なぜか芋臭いジャージと厚ぼったい眼鏡を掛けているからか、残念臭がなんとも言えないほどに漂っていた。
せめてどちらかがなければ、人目を惹けるのになぁと思う反面、ソラが人目を惹いてしまうのを考えると、やけに落ち着かない気分になってしまう。その理由がレンにはまるでわからなかった。
「どうされましたか?」
「──え? って、あ、あの、ちょっと」
「なにかありましたか?」
人目を惹くソラの姿を思い浮かべて、落ち着かない気分になってしまったことを疑問に思っていると、いつのまにかソラがすぐ目の前に迫っていた。
大木に寄りかかっていたはずだったのに、いまはすぐ目の前に、それこそ少し手を伸ばせば触れ合えるほどの距離にソラはいた。それもレンと目線を合わせるようにその場に座り込んで、だ。
瓶底眼鏡の向こう側は、離れていても薄らと見えていたのが、迫るほどに近付かれたことでより鮮明にソラの姿が見えていた。
真っ白な髪と同じ色の新雪のような肌も、ひとつひとつのパーツが黄金比とも言うべきほどに整った顔も、厚ぼったい眼鏡の先に見えるルビーを思わせるほどのきれいな赤い瞳も。すべてが鮮明に見えた。
それでもわずかにぼやけて見えてしまうが、さきほどの距離でよりもはっきりと見えていた。
その素顔を見ていると、胸が高鳴っていく。その高鳴りに合わせて顔に熱が溜まっていくのがわかるレン。そんなレンを見てもソラは穏やかに笑いながら、長い前髪を払う。その一挙手を見るだけで感情の高ぶりを抑えられなくなっていくレン。
(……俺ってこういう人がタイプ、なのか?)
しまいには、胸の高鳴りを別の意味で捉え始めてしまうレン。そんな自分を否定するように、「この人は残念美人、この人は残念美人、この人は残念美人」と心の中で何度も反芻させながら己が高ぶりを抑えようと必死になっていた。
そんなレンの反応を見て、ソラは笑うだけだった。笑いながら、ソラは距離を保ったまま、そっとレンの頬に触れた。
ソラの手が頬に触れた瞬間、そのぬくもりを肌に感じてすぐ、レンの視界は歪んだ。
「……え?」
どうしてなのかはわからない。
ソラに触れただけで、レンの視界は大きく歪み、そして崩壊した。
「あ、あれ? ど、どうしたんだ? え、えっと?」
いきなりのことにレンは慌てた。
どうしてかはわからない。
レンにとってはなにがなんだかわからないが、気づいたときには目尻から涙を零していたのだ。
その涙は止めどもなく溢れ続けていく。
溢れ続けていく涙を、レンは抑えることができなかった。
「な、なんで。止まれってば」
レンが自分自身に言い聞かせようとしても、涙は迸るように溢れていく。レンの意思を無視するように涙は止まらなかった。
「止まれ、止まれよ、止まれってば」
しまいには涙声になってしまっていた。どんなに目元を拭おうと涙は止まらなかった。止まらないまま、レンの瞳を濡らしていく。
レンにとってはわけがわからない状況だった。
だが、どんなに理解不能なことであっても、現実にレンの身に起きてしまっていた。そんな現実にレンはどうすることもできないまま、戸惑いながらも涙を流し続けていた。
「……失礼しますね」
レンにとっては醜態とも言える状況を見て、ソラは一言断ると、レンの頬から手を離した。ソラの手が離れていくことに「……あ」と小さく声を漏らすレン。涙を流すことと相まっているからか、その表情は悲しそうに歪んでいた。
「……大丈夫ですよ。離れるわけじゃありませんから」
くすり、とわずかに笑いながら、ソラはレンの頬から離した手を伸ばし、レンの背中へと両手を回すと、レンを自身の胸元へと掻き抱いた。
芋臭いジャージ姿だったがゆえにわかりづらかったが、ソラのものはそれなりに大きく柔らかかった。タマモであれば、鼻の下を伸ばすかもと思いながらも、レンは不思議とその感触とさきほどよりも強まったぬくもりに、自身の心が落ちついていくのがわかった。
「……いろいろと大変だったんですね。まさか泣いてしまうほどに悩んでいたとは思っていませんでした」
「……そんなことは」
「あるでしょう? だっていま泣いているじゃないですか」
囁くような声で語りかけるソラ。その声にレンはなにも言い返せなくなってしまう。
「……俺は大丈夫です」
「大丈夫には見えませんよ?」
「大丈夫ったら大丈夫なんです」
「嘘」
「嘘じゃ」
「ううん、嘘。だってこんなにも震えているじゃない。震えながら泣くほどに、悩んでいたんだよね?」
ソラの口調が砕けていた。砕けて語られた内容は、「無理をするな」と言われているようにレンには感じられた。
「……そんなこと、ない」
「ううん、あるでしょう? ぜーんぶ聞いてあげるから、言っちゃいなさいな」
ぽんぽんと背中を叩かれた。
痛みなどない。
ほんのわずかな衝撃とも言えない振動があった。
その振動が堰を切らした。
「……こわかった」
「うん」
「こわくて、こわくて、どうしようもなかった」
「うん」
「タマちゃんもヒナギクも、おれをおいていくみたいで、こわかった」
「うん」
「おれはつよくならなきゃいけない。だって、つよくならなきゃ、またいなくなっちゃうんだ。おばあちゃんや、かあさんみたいに、おれのまえからいなくなっちゃう」
「……うん」
ぽつり、ぽつりと語っていると、不意にソラが抱きしめる力が強まった。より一層ぬくもりが強くなり、その胸の向こう側からは一定の間隔で刻まれた心臓の鼓動が聞こえてくる。その鼓動はどういうわけか、レンの感情を揺さぶると同時に落ち着きを与えてくれた。レン自身でもよくわからないことだった。わからないまま、レンはその心の内面を吐露していく。
「だから、つよくならなきゃいけないのに、だれよりもつよくなって、みんなをまもらなきゃいけない。なのに、おれはいつまでたってもつよくなれない。よわいおれなんか、だれもみてくれない。だれもそばにいてくれない」
「……そんなこと、ないよ。そんなことあるものですか」
「ううん、ある。だって、だって、おれがよわいから、どうしようもないから、かあさんはいなくなったんだ。おれをすてたんだ。おれがきらいだから」
「っ! 違う! あれは、あれは……っ!」
ソラが叫ぶ。それまでの落ちついていた物言いとはまるで違う。ヒステリーを起こしたかのような変貌ぶりにレンは困惑した。
「そら、さん?」
「あれは、あれは、違うの。そうじゃないのよ」
「あれって?」
「あれは、あれは」
ソラは震えていた。震えながら、なにかを言おうとしているのだが、それ以上の言葉が出てこないようだった。その代わりのように、ソラは強くレンを抱きしめる。伝えたいことがあるのに、それを伝えられない。そんな苦しみをソラから感じられた。
そんなソラの変貌に戸惑いながら、レンはただソラに抱かれていた。それからどれほどの時間が流れたのだろうか。その間も虫の羽音と小川のせせらぎは響いていた。
「……失礼しました。少し取り乱してしまいましたね」
声をわずかに震わせながらソラは言う。先ほどまでのレンのように、いまにも泣いてしまいそうなほどにか細い声だった。
ソラが声を発するまでの間に、レンの高ぶりはどうにか鎮まってくれていて、レンは平静な声で「いえ」とだけ言った。
「みっともないところを見せてしまったお詫びというのもなんですが、少しだけアドバイスをさせてもらいますね」
「アドバイス、ですか?」
「ええ。正解を伝えてあげたいところですが、肩入れはできませんので。だからヒントにならない程度のアドバイスです」
肩入れはできないとソラは言うが、いまの状況は肩入れを越していないかと思ったレンだが、それを口にする気にはなれなかった。
「……いまのままでいいのです」
「え?」
「いまのままで大丈夫です。いまのまま進めばいい。あとわずか、そう、ほんのわずかであなたはそこにたどり着けるから。だから、自信を持って進みなさい。その道は決して間違っているわけじゃない」
ソラはまた笑った。
その笑顔にレンは気分が上向きになっていくのを感じた。
「……間違って、いない」
「ええ。そのまま進めばいい。絶対に間に合うから。だから不安にならないでいいの」
そう言ってソラはまた強くレンを抱きしめる。ぬくもりも、心臓の鼓動もより強く感じられた。
「……ありがとう、ございます」
「……お礼はいりません。するべきことをしたまでです。……本当なら、本来ならしなきゃいけないことをしていないのだから、お礼なんて言われる筋合いはないの」
「……え?」
よくわからないことをソラが言う。
いったいなんのことですかと尋ねるよりも早く、「強制ログアウト開始」というポップアップが表示された。
どうやらログイン限界に達したようだ。意識が朦朧となっていくのをレンは感じた。
(まだ、もう少しだけ)
朦朧となりながらも、レンはそれまで抱かれていただけだったソラの背中に腕をどうにか回した。どうしてそうしたのかはレン自身にもわからない。わからないが、そうしなければならないという一種の強迫観念に従ったのだ。
「……ごめん、なさい。急に」
レンはソラに謝罪をする。だが、ソラは「気にしないでいいの」と言う。ソラの顔はもう見えない。だが、そのぬくもりと心臓の鼓動だけははっきりと感じ取れた。
「──に──がる──がいるわけないじゃない」
ソラがなにかを言った。
だが、その言葉ははっきりと聞こえなかった。決定的な言葉が聞こえたように気はしたが、その言葉だけは聞き取ることができなかった。まるでその部分だけ意図的に切り取られてしまったかのようだった。
「……おやすみなさい──。こんな私だけど──からあなたを──の。それだけは、それだけは本当だから。──なんかいないんだから。本当よ」
ソラが震えている。
声も体も震えていた。
そんなソラにレンは薄れ行く意識の中で声を掛けた。
「なかないで、──さん」
レン自身でもなんと言ったのかはわからなかった。
だが、ソラにははっきりと聞こえたのだろう。ソラが息を呑む音が聞こえてきた。
「──いたの? ……いいえ、そうじゃないか。わかっていたら、殴られているものね。私だったらそうするもの。こんな──なんてね」
自嘲するようなソラの声。その声に反応する気力はもうレンにはなかった。微睡みの中に落ちていくのを感じながら、ソラの背に回していた腕から力がゆっくりと抜けていくのがレン自身にもわかったが、もうどうすることもできなかった。
「ごめんついででもうひとつ謝っておくね。今回の記憶はすべて書き換えるから。万が一でもあなたが憶えていたらいけないことだから。本当にごめんね。本当のことをなにひとつ教えられなくて、こんな形でしかあなたと触れ合えなくて、本当にごめんね、香恋」
頬に温かいものが落ちる。その温かさがとても心地よかった。心地よさに浸りながらレンはわずかに残っていた意識さえも手放していく。
薄らと見えた青白い光。その光にレンの意識は完全に掻き消えた。
意識が掻き消えながらも、どこかで聞いた調べが、なにかの歌のようなものが聞こえていたが、それがなんなのかを認識することさえもできないまま、レンは強制ログアウトされたのだった。




