28話 無力感の果てに
「──まぁ、今日はこんなところか?」
ぷよん、という独特の効果音とともに、シュトロームはヒナギクの前に降り立った。
シュトロームは相変わらずの落書き顔で、倒れ伏したヒナギクを見下ろしていた。
ヒナギクは仰向けに大の字で横たわりながら、大きく胸を上下させていた。
「あ、ありがとうございました」
「気にしなくてもよい。我が主からも最大限の助力をするように頼まれている。まぁ、言われずとも助力はしていたと思うがな」
シュトロームは笑っていた。顔が顔だから本当に笑っているのかはわからなかったが、声色からして笑っているのだろうとヒナギクは思うことにした。
「さて、我はここで失礼しよう。また明日にな」
シュトロームが背を向けて、ぷよんぷよんと体を弾ませて離れていく。同時にヒナギクは力なく握っていたセミラミスを強く握りしめると、無防備な背中へと向けて振り抜いた。当たると確信していたヒナギクだったが──。
「まだ甘い」
──セミラミスによる不意打ちは、突如出現した氷柱によって防がれてしまった。それどころか、ヒナギクの喉元には別の氷柱が、鋭く尖った氷柱の先端が突きつけられていた。
「……参りました」
「よろしい」
ヒナギクの一言と共に現れていた氷柱は消えたが、周囲にはその名残のように氷の欠片が宙を舞っていた。日の光で乱反射する氷の欠片をぼんやりと眺めながら、ヒナギクは改めて体を投げ出した。
「あーあ、いまのは当たったと思ったのになぁ」
「まだまだだな、ヒナギク殿。声を掛けなくなったのはいいが、あえて見せている隙に乗じるだけでは、この身に届くことはない。意識の外にある隙を見出さなければな」
「そうは言っても、意識の外の隙って──」
「ふむ、具体的にはいまだな」
「え? どういう──」
シュトロームの言葉にどういうことですかと尋ねようとしたヒナギクだったが、乱反射していた氷の欠片のひとつに、たまたま映った自身の姿を見て愕然とした。
氷の欠片には横たわる自身の顔のすぐそばに鋭く尖った氷柱の先端が突きつけられていた。ちょうど目を向けている方向とは逆側にである。慌てて視線を向けると、そこにはたしかに氷柱があった。
「──いつのまに?」
「ちょうど我が講釈を垂れていたときだな。我の方ばかりを見ていたので、実際にどこがどう隙であるのかを伝えるにはちょうどいいと思ってな」
「……そう、でしたか」
「うむ」
シュトロームは体を弾ませながら頷いた。その言葉に息を呑みつつも、ヒナギクはどうにか頷いた。すると、突きつけられていた氷柱は瞬く間に消えた。乱反射する氷の欠片が増え、周囲の気温が少し下がったのか、ヒナギクは肌寒さを憶え、肌を擦り始める。
「寒いかね?」
「ええ、少しだけ。また火を焚いてもいいですか?」
「好きにするがいい。御山の北側で、ヒナギク殿の行動を阻害する者は誰もおらぬ。我がそう認めているのだから、好きにされるとよい」
それだけ言って、今度こそシュトロームは立ち去った。その背中を見送りながら、ヒナギクは大きくため息を吐いた。
「もう、強すぎだってば、あの人」
ため息を吐いてから口にしたのは、シュトロームへの愚痴であった。
正確には愚痴と言えるものではないが、ヒナギクにとっては愚痴に当たる。
「……あと半分しかないんだけどなぁ」
氷結王の御山で訓練を開始してから半月が経った。いまのところ、ヒナギクの身にこれと言った目立った変化はない。クラスチェンジはおろか、EKの進化さえもまだである。わかっていたことではあったが、やはりこのままでは武闘大会までに成長は見込めない。
このままではまだレベルアップに勤しんでいる方がましだった、としか言いようがない結果が待ち受けることになる。
ヒナギクにとって、その結果はできれば避けたいところだ。
しかし、現実は厳しい。時間が足らないとしか言いようがなかった。
(……いや、悪いのは時間じゃなくて、私自身か)
ヒナギク自身、このゲームにのめり込んではいるが、レンのように強くなるためじゃない。かといってタマモのようにゲーム内で出会った大切な人のためにでもない。ヒナギクにとって、このゲームは。いや、ゲームというもの自体が暇つぶしの一環でしかない。
ゲームをして生活をするプロではない。プロでないのであれば、どんなに真剣に行ったところでその行為は遊び、趣味の一環でしかない。
趣味がそのまま仕事となるのであれば、真剣に取り組むのは当然だが、いまのところ、ヒナギクにとっては、このゲームをプレイするのは趣味のひとつでしかない。
その気になれば、いつだってやめることはできる。このゲームを通して得た交流はあるものの、その交流のためだけにすべてを投げ打つことはできない。だからレンやタマモのように全身全霊でプレイするというのは、ヒナギクにはできなかった。
むしろ、全身全霊でプレイし続ける人たちの考えが理解できなかった。……いままでは。
そう、いままでのヒナギクはゲームなんかで全身全霊になる人のことが理解できなかった。表面上口にすることはなかったが、「なんでそこまで本気になるんだろう」と疑問には思っていた。
ゲームなんて遊びでしかない。
どれだけ精巧に作り込まれていたとしても、現実ではない。現実でないのであれば、そこそこ頑張ってそこそこ楽しめればいいと思っていた。
だからヒナギクはクラスチェンジはおろか、セミラミスを進化させようとも思っていなかったのだ。
攻略組のようにフィールドを駆け抜けるわけでもないのだから、初期のままでも問題はなかった。
以前は憧れの従姉である「姉様」にゲーム内でも会いたいという目標はあったものの、その「姉様」の親友であるアッシリアに出会えた以上、そこまで頑張らなくてもアッシリアに頼めば、いつでも会える状況にたどり着いていた。
いわば、ヒナギクにとっての目的はすでに叶っているのだ。であれば、これ以上の努力など必要なかった。
だから進化はおろかクラスチェンジさえも必要はなかったのだ。そう、いままでは。
でも、いまはもう違う。
新しい目的ができたのだ。
(……なにもできなかった)
なにもできなかった。
ヒナギクが新しい目的を得るとほぼ同時に、ヒナギクは無力感を得た。
タマモの腕の中で変わり果てたアンリを見たとき、ヒナギクは自分自身への無力感を得た。
アンリは眠るように息を引き取った。
もし、あのとき、ヒナギクに力があれば、上位の回復魔法を使うことができれば、アンリを助けることはできたかもしれない。
だが、助けることはできなかった。
ヒナギクが使える回復魔法ではアンリの深すぎる外傷を治すことはできなかった。
治療師という職業であるはずなのに、その専門分野で力が及ばなかった。
力がなかったがゆえの悲劇。
もし、あのとき力があれば、アンリを救える力があれば。何度同じことを考えただろうか。もう数えることさえできない。それくらいヒナギクは無力感に苛まされていた。
しょせんはゲーム。
趣味のひとつ。
いつだってやめることができるもの。
そう思う気持ちはいまも胸の中にある。
そこまで頑張る必要なんてない、と囁く自分がたしかにいる。
現実の自分になんの影響もないことで、そこまで頑張る必要なんてないよという声はいまでも聞こえる。
いままであれば、その声に従っていた。
だが、いまはそうじゃない。
その声が聞こえるたびに、頭を振りかき消した。
もし、姿形があれば、張り飛ばしていただろう。
たしかに、このゲームで成しえたことは、現実のヒナギクに反映などされない。
ゲームなんかで頑張りすぎるなんて意味なんてない。いまでもそう思いはする。
だけど、そのゲームでも頑張れない人が、現実では頑張ることができるだろうか?
楽しめることで頑張れない人が、辛いことの方が多い現実で頑張り続けることなどできるだろうか?
ヒナギクには是と答えることはできない。
いまのヒナギクにとっては、すでにそれは是という答えではない。
なによりも大切な友人の涙を拭うことさえできなかったこと。それがヒナギクには堪らなく辛かった。
ゲームだから。
趣味だから。
いつでもやめられるものだから。
そんなあれこれと理由をつけて、どこか斜に構えていた。
非現実のものに真剣になれる人を、心のどこかで呆れていたのだ。
そのせいで、流さなくてもいいはずの涙を流させてしまった。
傷つかなくてもいい人を傷付けた。
なにもかもが終わるそのときまで、共にあれたはずの絆を失わせてしまった。
それがヒナギクには辛かったし、なによりも自分に腹が立って仕方がなかったのだ。
だから言い訳はやめることにした。
そう、いままでのヒナギクの思ってきたことはすべて言い訳だ。
ゲームだから。
趣味のひとつだから。
現実にはなんの影響もないから。
そう言って、のらりくらりと躱していた。
だが、それは全部言い訳だ。
いつだってやめられる。
なら、いますぐにやめたってなんの問題もない。
それどころか、気が向けばプレイすればいいだけ。毎日ログインする必要なんてないし、そんな約束だってしていない。
でも、約束はおろか、必要のないことをヒナギクは初プレイからずっと行い続けていた。その理由はなんなのか。ヒナギク自身のめり込んでいるからだ。このゲーム。いや、この世界にのめり込み、この世界の住人のひとりになっているからだ。
たとえ、現実でなかったとしても、世界に生きるひとりであるのであれば、精一杯のことをするべきだ。
やるべきことをやり通すべきだったのに、それをしなかったせいで、涙が流れてしまった。必要のない悲劇が生まれたのだ。
もう二度とあんなことはごめんだ。
そのためには力が欲しい。
誰にもなにも失わせない力が、すべてを守り通すことができる力が欲しい。
「……もう負けられない。もう無力感に苛まされたくなんかない!」
ヒナギクは強くセミラミスを握りしめた。いままでの自分を握りつぶすように、力強くセミラミスを握りしめた、そのとき。
「おめでとうございます。条件を満たしたことで特殊称号「渾身に至りし者」を取得致しました。これにより複数の特殊職へのクラスチェンジが可能となりました。クラスチェンジを致しますか?」
思いもしなかったアナウンスが流れたのだった。
称号等は次回にて




