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25話 空いた穴

 穴が空いていた。


 とても大きな穴が空いている。


 でも、その穴は誰にも見えない。


 端から見れば、穴が空いているようには見えない。


 だが、たしかにそこには穴があった。


 覗き込もうとするだけでどこまでも堕ちていってしまいそうなほどに深くて大きな穴が、たしかに存在している。その穴をタマモはぼんやりと眺めていた。


 どこまでも堕ちていってしまいそうな穴を、上から覗き込むように──。


「──旦那様!」


 ──身を乗り出そうとしたところで、エリセの声が聞こえた。


 見れば、エリセは腰に両手を当てて、呆れたようにため息を吐いている。


 なぜエリセがそんな仕草をしているのだろうかと思いつつ、その視線を追うとタマモの持つフライパンにたどり着いた。正確に言えば、いまにもフライパンの中に注ぎ込もうとしている業務用洗剤を見ていた。


 フライパンの中には炒めようとしていたキャベベがあった。そのキャベベにタマモはなぜか業務用の洗剤を注ぎ込もうとしていた。


「そら調味料ちゃうどすえ?」


 エリセは再度ため息を吐きつつ、タマモの手から洗剤を取り上げた。


「一人暮らしを始めたばっかりの、ひとりで食事を作ったことあらへん若い子みたいなことしいひんでくださいな」


「……すみません。少し、ぼうっとしていました」


「今日はずっとそうどすけどなぁ。これでなんべん目どすか?」


 エリセは完全に呆れているようだった。


 呆れながらも、タマモのしでかした失敗を指折り数え始める。


「……最低でもいまみたいのを5回はしてますで?」


「そんなにして、いましたか?」


「ええ」


 腕を組みながら、エリセは頷き、タマモが今日してしまったミスをひとつずつ話し始める。たとえば、せっかく炒めたキャベベ炒めを皿に盛らずに、シンクに流そうとしたり、炒める前のキャベベをなぜか皿に盛って、配膳に回そうとしたりなど。どれもこれも些細なミスではあるものの、普段であればほぼしないようなミスだった。


 そんなミスを今日のタマモは連発しているようだった。


 まだ開店して1時間も経っていないというのに、すでに5つものミスをしでかしている。平均すれば、10分ちょっとで1回というかなりのハイペースだった。


 この調子だと営業終了までに20回近いミスを連発しかねないという計算が成り立ってしまう。


 これが新人のミスというのであれば、まだ理解できる。


 しかし、タマモは「タマモのごはんやさん」のオーナーシェフという立場だ。店の顔という立場が、そんなミスを連発するというのはどう考えてもまずい。というか、危険であった。

「……今日はもう上がっとぉくれやす。このままだと、お店の評判に傷がつくさかい」


「ですが」


「どすけどもなんもあらしまへん。いまの旦那様は仕事ができる状態ちゃうんどすえ。そやさかいもう上がって休んでぉくれやすな」


 エリセははっきりといまのタマモが戦力外であることを言い切っていた。言葉だけを見れば、かなり厳しいが、その口調はタマモを気遣っているものだった。


「……そう、ですね。今日はちょっと疲れちゃっているみたいなんで、先に上がらせて貰いますね。申し訳ないけれど、後のことはよろしくお願いしますね、エリセ」


「はい、お任せあれ。その代わり、しっかりと休んできとくれやっしゃ」


 エリセの気遣いを受け入れると、エリセは穏やかに笑うと、目線を合わせるように屈み込むと、タマモの両頬をそっと手で包み込んでくれた。端から見れば、それはいまにもキスをしてしまいそうな体勢だった。


 だが、エリセにその気がないことは、タマモが一番わかっていた。


 エリセの目には、そういうことをしようとしている光はない。あるのは、ただタマモへの気遣いと深い愛情だった。それこそ、このままエリセの腕の中に身を委ねたくなるほどの心地よい想いが詰まっていた。


「……ありがとう、エリセ」


「お気になさらんと、愛おしいお方」


 エリセの頬が淡く染まった。


 見目麗しいエリセが頬を染める姿は、普段の凛とした姿からは想像もできないほどにかわいかった。


 いまにも「今日はかわいいね」と呟いてしまうほどに。その呟きにエリセの頬がより紅く染まり、「……一言余計どすえ」と包んでいた両手でタマモの両頬をつまみ始めた。


「いひゃい、いひゃい」とタマモは訴えるも、エリセは「知らしまへん」と言うだけで、そっぽを向きながらタマモの頬をつまみ続ける。その一方でエリセの4つの尻尾は内面をこれでもかと表現するかのように、それぞれが左右に振られていた。実にかわいい。


『……砂糖を吐きたくなるような光景ですね。200年も純潔を守り通してきた年増と相手になにをしているんだか』

 

 タマモがエリセの反応を愛らしく想っている一方で、五尾は非常につまらなそうな声で、吐き捨てるようになかなか危険なことを宣っていた。幸いなことにエリセには聞こえないように言ってくれていた。


 しかし、その声は聞こえずとも、なにか不穏なことを言ったということをエリセは的確に気づいたようで、「ところで、その無駄に多い尻尾抜いてもええどえすか? そないに無駄に多い尻尾なんて、旦那様には無用やろうし」とかなり恐ろしいことを言い始める。


 その言葉に五尾は『は? なに抜かしていますか、この胸に無駄な贅肉を溜め込んだ年増雌狐は』とエリセを挑発するようなことを宣い、エリセも「無駄に多いのんは事実やろう? そないにいっぱいあっても、腰に負担掛かるだけどすえ?」と言い切っていた。


 互いに声は届いていないはずなのに、非常に剣呑な空気が漂い始めた。なぜこうなったのだろうと冷や汗を搔くタマモ。

 

 しかし、五尾とエリセの剣呑な雰囲気は収まることもなく、お互いへの辛辣な罵倒が飛び交おうとした。


「あー、その、エリセさん? ついでで申し訳ないんですが、ユキナも上がらせてもらってもいいですか?」


 いまにも戦争が始まりそうなそのとき、その空気を切り裂くようにデントがホール側から声を掛けてきた。見れば、そばには看板娘であるユキナがなぜか肩を落としていた。


「……やっぱしユキナちゃんもあきまへんか」


 タマモにはなんでユキナが肩を落としているのかはわからなかったが、エリセにはその事情をわかっていたようで、小さくため息を吐いていた。そのため息に、ユキナは肩を少し震えさせていた。


「あぁ、怒ってるわけちゃうで? ただ、いまのままだとあまりようないなぁと思うとったさかい」


 エリセはユキナの反応を見て、怒っているわけじゃないからと慌てて慰めていた。その口振りからしてやはりユキナの事情をちゃんと理解しているようだった。


「さっきから、オーダーやら配膳だのミスが多かったし。そろそろ上がらせようかなぁと思うとったさかいね」


「え? そうでした?」


「はい、そらもう。旦那様と呼応しているんかいなと思うほどどすえ。……しゃあない。ふたり揃うて上がっとぉくれやすな」


 エリセは再びため息を吐き、ユキナもタマモと一緒に上がらせることにしたようだ。こういうときのエリセは頼りになると思う一方で「オーナーって誰だったっけ?」と自問自答しまうタマモだった。


「……あまり気は乗らへんけど、旦那様とユキナちゃん、一緒に遊びにでも行ってきとぉくれやす。お互いにちゃんと休んでるかの監視を兼ねてや」


 エリセは苦虫を潰したかのような顔で、タマモとユキナで一緒に遊びに行ってこいとも言ってきた。そうでもしないと、お互いにちゃんと休むかどうかわからないからなのだろう。思わぬエリセの言葉はタマモは驚いた。


 反面、ユキナはそれまでの落ち込みようが嘘のように目を輝かせていた。タマモと一緒に遊びに行けると言う言葉がそうさせたのは明かである。


 そんなユキナの様子に、むぅと唸りつつも、エリセは「ただし」と一言付け加え、タマモをじっと見つめた。


「……浮気はなしどすさかいね?」


 タマモをじっと見つめながらエリセは釘を刺すように言った。その言葉にタマモは唖然と口を開きながら。「え。ええ」と頷いた。するとエリセは「絶対どすさかいね」と再度釘を刺してきた。


 タマモは苦笑いしながら、「そんなことはしませんから」と返事をした。すると、今度はユキナが「むぅ」とやけに不満そうに唸り始める。いったいどうしたのだろうと首を傾げるタマモだったが、エリセはもちろん、ユキナの隣にいるデントも、そしてそのやり取りを聞いていた他のスタッフないし、店内にいた客全員は理解していた。


 ただ、当のタマモだけが理解していないという奇跡的な状況だった。その奇跡的な状況にほぼ全員が思った。「ラブコメ主人公かよ」と。


 しかし、その言葉がタマモに届くことはなく、タマモはユキナの変貌に相変わらず首を傾げながらも、ユキナと共に今日の仕事を退勤することになったのだった。

タマちゃんは自分がモテるということに気づいていません。

むしろ、モテるわけがないと思っています。

ゆえに好意に対して非常に鈍感となっています。

が、その一方で相手を無自覚で撃墜しまくるという、恐ろしいことをしています。それこそラブコメ主人公の如く←

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