24話 莉亜の真意
言われた言葉を理解することができなかった。
アッシリアの言葉を理解できない。
いままでそんなことは、一度もなかった。
一度たりともアッシリアの言葉を、莉亜の言うことを理解できないなんてことはなかった。
タマモとしてはもちろん、玉森まりもとしても、そんなことは一度たりともなかった。
そんな一度もなかったことが、いま起きていた。
タマモは半ばぼんやりとしながら、目の前にいるアッシリアを見つめていた。
「……いま、なんて?」
聞こえてきた言葉の意味を、アッシリアに尋ねる。
アッシリアは顔を俯かせたまま、黙っていた。
それ以上の行動を取ろうとはしていない。
まるで、タマモを見ないようにしているようにしか思えなかった。
いままで、アッシリアからそんな態度を取られたことはなかった。
そのアッシリアがいま、なぜかタマモを見ないようにしている。
その理由が、タマモにはわからない。。
わからないが、少なくとも、いまアッシリアが言った言葉が関係しているということだけは明らかだった。
「アッシリア。いま、なんて言ったんですか?」
タマモはもう一度同じ言葉を口にした。
「……」
しかし、アッシリアはなにも答えない。
ただ俯いたまま、黙っているだけだった。
(アリアらしくない)
あまりにも、アッシリアらしくない姿だった。
そんなアッシリアの姿に、タマモは嫌な予感がした。
そもそも、先ほどの言葉を、理解できなかった言葉の意味を踏まえると、アッシリアが俯いている理由なんて、考えるまでもないことだった。
だが、それはありえないとタマモは思った。
アッシリアは、秋山莉亜はいつだって、どんなときだって、タマモの、玉森まりもの味方だった。
去年の今頃、受験に失敗してからだって、散々まりもに「裏切り者」扱いされていた。
なのに、莉亜はまりものためにいろいろとしてくれた。
引きこもり気味になっていたまりもを心配して、毎日家に来てくれた。
まりもからどんな罵声を浴びても、話を聞いてくれた。
新生活のために忙しいはずなのに、いつも一緒にいてくれた。
そんな莉亜が、アンリを死なせた切っ掛けを作ったなんて。アオイを嗾けたなんてありえない。
そんなことをしてなんの意味があるというのか。
仮に意味があったとしてもだ。
こうしてまりもの前に現れて、自分の罪を口にする理由はなんなのか。
理性的に考えれば、莉亜の言動は理解不能である。
アオイを嗾けたという張本人みずからが、その被害者であるまりもに自首をする。
気が狂っているのかとしか思えない行動だ。
もしくは第三者の意図に従っているということもありえる。
でなければ、こんなことをする理由がまりもには思いつかなかった。
アンリを害し、アオイと険悪にさせ、それをみずから自首する。
アオイと険悪にさせるというまでであれば、納得もできる。
漁夫の利を得るためと思えば、「なるほど」と納得できることではある。
だが、そうであれば、わざわざ自首をする理由がない。
というか、自首をしたら、アオイを嗾けた意味がなくなってしまうのだ。
やはり、莉亜の言動はおかしい。
というか、ここまでしたら莉亜のメリットはなくなってしまう。
莉亜は真犯人という結果を得るだけで、メリットはない。デメリットしか得られなくなってしまう。
どう考えてもおかしい。
どう考えても不自然だ。
であれば、莉亜の言動の意味することはなんなのか。
まりもは思考をさらに巡らそうとした。だが──。
「……なんて言ったのか、ですって?」
──だが、思考をさらに巡らそうとするよりも早く、莉亜は吐き捨てるかのように言った。莉亜らしかぬものだった。
「なんて言ったのか、と聞いたのかしら?」
口元を歪ませながら莉亜は言う。
普段の莉亜がしない笑い方で、どこか芝居じみたものがあった。
だが、仮に芝居であれば、熱演としか言いようがない。
それくらい、いまの莉亜は普段の姿からはかけ離れたナニカを感じられた。
そのナニカにまりもは、わずかにたじろいでたしまった。
それが決定打となってしまった。
「いま言ったじゃない。私は、あんたがお熱だった子を殺すように嗾けたって」
「……信じられない。君がそんなことをするはずがない。ボクは知っている。君は、そんなことをするような人間じゃない。何年君のそばにいたと思っているんだ。君がそんなことを平然と行える人間じゃないことをボクは誰よりも──」
「うるさい!」
まりもの言葉をかき消すように莉亜は叫んだ。肩を大きく上気させながら、全身を震わせていた。特に両手は強く握りしめられている。現実であれば、爪が食い込みすぎて、血さえ出てしまうほどに。とても、とても強く握りしめられていた。
「私は、私は! あんたが思うような人間じゃない! 立派でもなければ! あんたみたいに優秀でもない! 私はただの一般人! あんたみたいな特別な人間じゃないの! 私はどこにでもいるような、ありふれた一般人なのよ!」
莉亜は叫ぶ。
その絶叫から周囲に人だかりができてしまった。
けれど、莉亜はお構いなしにと叫んでいる。
もうなにも見えていないように。
まりもだけを、いや、まりもさえも、その目は捉えていない。
まるでいままでの鬱憤をぶちまけるように、莉亜は自身の想いを語っていた。
「そんな一般人なら、あんたのような特別な人間であれば、絶対にしないようなミスだってするでしょう!? どんなに気をつけたって、私みたいな人間じゃどこかでバカなミスをするのよ! 今回だって、そう! 私は私自身のミスであんたの大切な人を喪わせたのよ!」
ミスをする。
それは当然のものだ。
どんな人間だって、ミスはする。
完全な人間がいないように、いつまでも完璧に物事を進められることはできない。どこかで大なり小なりのミスは起きてしまう。不完全な人間が進めることなのだ。完璧に物事を終えられるわけなどない。
大事なのは、ミスをした後。どうカバーするということだ。
莉亜の言い分では、そのカバーさえもできなかったように感じられる。
それどころか、あまりのミスゆえに自暴自棄になっているとさえまりもには感じられていた。
その証拠に莉亜の目には光るものが見えている。
それが悔しさゆえなのか、悲しみゆえなのか。
どちらでもであるだろうし、どちらでもないとも言える。
わかっていることはただひとつ。
いまの莉亜にまりもの言葉はなにも届かないということ。
はっきりとわかってしまった。
いま、まりもがなにを言っても、莉亜の心に届くことはない。それがはっきりとわかってしまった。
「……アリア」
「私をその名で呼ぶな! 私はね、あんたにそう呼ばれるのが本当は嫌いなのよ! でも、あんたと親しくしていれば、メリットしかなかった。だから、嫌で嫌で仕方がなかったけれど、それでも我慢していた!」
「……それは」
嘘だ。そうまりもは言おうとした。
メリットがある。
だからいままで付き合っていた。
そう、莉亜は言う。
けれど、それが嘘であることはまりもはわかっていた。
たしかに莉亜の言う通り、まりもと親しくしていることは、莉亜にとってはメリットしかないことだろう。
日本で有数の企業を経営する一族のお嬢様。
そのお嬢様と一般人が仲良くするというのは、端から見ればメリットだらけだ。
一流企業の就職だって楽にできるだろうし、玉の輿だって狙えるかもしれないし、実家の支援だって場合によっては可能となるかもしれない。
明確なメリットはたしかに存在しているだろう。
だが、まりもにはそういう目先の餌狙いの人間を見分けることができた。
誰も彼も餌狙いの人間は、瞳の奥にはっきりと「$マーク」が浮かんでいるように見えたのだ。
誰もが玉森まりも自身ではなく、玉森まりもの持つ付加価値だけを見ているようにしか感じられなかったのだ。秋山莉亜を除いては。
そう、莉亜だけは違っていた。
莉亜だけはいつも付加価値ではなく、玉森まりもを見つめていた。
付加価値に接するのではなく、玉森まりもと接してくれていた。
だからわかる。
いま莉亜が言っていることが嘘であることは。
まりもに嫌われようとするために、あえて嘘を言っていることはわかる。
だけど、それを口にしても、いまの莉亜には届かない。
絆という橋は崩れ落ちた。
でも、それはまりもからではなく、莉亜の方から崩してしまっている。それも一方的な形でだ。
どうすればいいのか。
どうしたらいいのか。
まりもにはもうわからなかった。
理性的に考えれば、時間を掛けるべきだというのはわかっていた。
だが、その反面、本能的がそれを拒否していた。
理性は莉亜を信じているが、本能は莉亜を断罪するべきだと叫んでいた。
すでに一度、信じていた人に裏切られてしまった。
アオイを信じていたのに、そのアオイが裏切った。
その事実がまりもから冷静さを奪い取ろうとしている。
それでもすんでの所でまりもは冷静さを維持している。
だが、いつまでもはできない。時間の問題であることは明か。
だから、時間は掛けられない。
下手に時間を掛けようものであれば、それこそいまの莉亜のように感情的に叫ぶだけになってしまう。
それだけは避けたかった。
大切な人がいなくなるなんて、もう味わいたくないのだ。
「アリア、話を」
「……話なんてもうない。する意味なんてもうないでしょう? 私はあんたから大切な人を奪い取ったの。そんな私になんの話をするの? 罵声でも浴びせるの? いいよ、浴びせなよ。いくらでも浴びせればいい! それであんたとの関係は終わりなんだから」
莉亜は言う。その言葉になんて返事をすればいいのか、まりもにはもうわからなかった。
「……もうあんたとは会わない。会う気もないし、会いたくもないでしょう。だから、さようなら。もう、私のことは忘れてちょうだい」
どう声を掛けるべきか考えている間に、莉亜は一方的にそう言って、踵を返してしまう。声を掛けようとしたが、どう言えばいいのかがわからなかった。莉亜の真意を糺せばいいのか、それとも。やはり思いつく言葉はなにひとつとてない。あったとしても、それはとても頼りないものでしかなかった。
まりもにできたのは、背を向ける莉亜に手を伸ばすこと。だが、いくら手を伸ばしても莉亜の背に届くことはない。まりもは力なく自身の手を下ろしていた。その間に莉亜は離れていた。
まだ声は届く。でも、その声をどうするべきなのかがわからない。
わからないまま、まりもは遠ざかる莉亜の背中を見つめていた。
小さくなっていく親友の姿を、その目に焼き付けることしかできなかった。




